浮気は用法容量を守って使用すること。
第四話
「さよならを言う日」
武元:「浮気した人って」
武元:「許せると思う?」
テレビの音だけが流れる。
○○はすぐには答えなかった。
少しだけ考える。
本当に少しだけ。
○○:「許せるかどうかは知らん」
武元:「……」
○○:「俺やったらとかも分からん」
武元:「雑」
○○:「当事者ちゃうし」
少しだけ笑う。
その顔はいつも通りだった。
変に格好付けることもない。
正しい答えを言おうともしない。
○○:「ただ」
○○:「会ってきたらええやん」
武元:「……」
○○:「ちゃんと」
視線が合う。
優しい目だった。
高校の頃から変わらない。
でも。
今は少しだけ大人に見えた。
○○:「逃げるのは唯衣らしくない」
武元:「……うん」
○○:「やり直すならやり直す」
○○:「終わらせるなら終わらせる」
○○:「どっちでもええ」
○○:「唯衣が決めたらええ」
その言葉に。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
背中を押されている。
でも急かされている感じはしない。
ただ、今まで踏み越えて来なかった一線を踏み越えてまで私を送り出してくれてる。
不思議だった。
○○:「行って来い」
武元:「……」
○○:「もし」
○○:「派手に泣かされたら笑ってやる」
武元:「最低やな」
○○:「せやろ」
笑う。
意地悪そうに。
でも。
どこか安心する笑顔だった。
○○:「まぁ」
○○:「ちゃんと行かせてやらんと」
○○:「梨名にも有美子にもどやされそうやしな」
武元:「それはある」
○○:「あるやろ、理不尽すぎるからな」
武元:「ある」
二人とも少しだけ笑う。
その時間が。
妙に愛おしかった。
だからこそ。
考えないようにした。
⸻
翌日。
昼休み。
スマホを握る。
何度も書いて。
何度も消した文章。
結局。
送ったのは一言だった。
『話したい』
送信。
数秒後。
既読。
そして。
すぐに返信が来た。
『会いたい』
胸が少し痛む。
きっと。
向こうも苦しかったのだろう。
後悔していたのだろう。
それは分かる。
分かってしまう。
だから。
余計に苦しい。
⸻
待ち合わせは土曜日だった。
仕事を終えて帰宅する。
玄関を開ける。
○○:「おかえり」
当たり前みたいな声。
当たり前みたいな光景。
少し前まで無かったもの。
武元:「ただいま」
○○:「決まった?」
武元:「うん」
○○:「そうか」
それだけ。
理由も聞かない。
どこで会うのかも聞かない。
何を話すのかも聞かない。
ただ。
信じている。
自分で決めると。
○○:「頑張れ」
武元:「……うん」
短いやり取り。
それだけなのに。
何故だろう。
少しだけ泣きそうになった。
この人は。
本当にずるい。
引き留めない。
縛らない。
期待もしない。
なのに。
いつだって味方でいてくれる。
だから。
甘えたくなる。
帰りたくなる。
頼りたくなる。
そんなこと。
思っちゃいけないのに。
土曜日が近付くたび。
胸の奥は少しずつ苦しくなっていった。
土曜日。
約束の時間より少し早く着いた。
駅前のカフェ。
何度か来たことがある店だった。
でも。
今日は落ち着かなかった。
武元:「……」
スマホを見る。
時間。
まだ五分前。
なのに。
向こうはもう来ていた。
席を立つ。
目が合う。
少しだけ痩せた気がした。
疲れているようにも見える。
その顔を見た瞬間。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
会いたかった訳じゃない。
戻りたかった訳でもない。
それでも。
好きだった人だから。
簡単に何も感じなくなるほど。
器用じゃなかった。
元彼:「唯衣」
武元:「久しぶり」
ぎこちない。
当然だった。
最後に会った日から。
色々ありすぎた。
泣いた日も。
眠れなかった夜も。
全部思い出してしまう。
⸻
最初は。
本当に普通だった。
元彼:「ごめん」
武元:「……」
元彼:「本当に」
元彼:「ごめん」
頭を下げる。
何度も。
何度も。
謝る。
後悔しているのは伝わった。
苦しんでいたのも伝わった。
元彼:「最低だった」
元彼:「俺」
武元:「……」
元彼:「失ってから分かった」
元彼:「どれだけ大事だったか」
その言葉は。
きっと本心だった。
だから。
胸が痛い。
嫌いになれたら楽だった。
全部嘘だったと思えたら楽だった。
でも。
そうじゃない。
楽しかった時間は本物だった。
好きだった気持ちも本物だった。
休日に手を繋いで歩いたことも。
くだらないことで笑ったことも。
将来の話をしたことも。
全部。
ちゃんと本物だった。
だから苦しい。
もし全部嘘なら。
こんなに迷わなくて済んだのに。
⸻
元彼:「やり直したい」
真っ直ぐ言われる。
昔なら。
泣いて喜んでいたかもしれない。
何度も欲しかった言葉だった。
待っていた言葉だった。
でも。
今は。
言葉が出なかった。
嬉しいはずなのに。
心が動かない。
自分でも理由が分からなかった。
元彼:「唯衣?」
武元:「……分からん」
正直な答えだった。
元彼:「分からんって」
武元:「分からん」
元彼:「まだ好きや」
武元:「……」
元彼:「俺は好きや」
胸が締め付けられる。
嬉しくない訳じゃない。
でも。
何かが違った。
昔なら嬉しかったはずなのに。
どうしてだろう。
その言葉を聞いても。
涙が出ない。
心が跳ねない。
ただ。
遠くから聞いているような感覚だけがあった。
⸻
沈黙。
コーヒーが冷める。
そして。
元彼:「そういや」
元彼:「今どこ住んでんの?」
武元:「……友達の家」
元彼:「友達?」
武元:「うん」
元彼:「男?」
空気が少し変わった。
武元:「……うん」
元彼:「マジで?」
武元:「事情あったし」
元彼:「事情あったからって」
元彼:「男の家住む?」
その言い方に。
少しだけ眉が動く。
責められている訳じゃない。
そう思おうとした。
でも。
声の奥にあるものを感じてしまった。
元彼:「いや」
元彼:「普通住まんやろ」
武元:「……」
元彼:「そいつ何考えてんの?」
武元:「やめて」
思わず口を挟む。
自分でも驚いた。
反射だった。
元彼:「だっておかしいやん」
元彼:「男やろ?」
武元:「友達や」
気付けば。
少し強い口調になっていた。
どうしてだろう。
自分のことを言われるより。
あの人のことを悪く言われる方が。
嫌だった。
元彼:「友達だから住むん?」
その言葉に。
違和感を覚える。
謝っていたはずなのに。
いつの間にか。
責められている。
そんな感覚。
あの家にいた時間を思い出す。
泣いていた夜。
何も聞かずに隣にいてくれたこと。
無理に励まさなかったこと。
何も求めなかったこと。
それを。
何も知らないまま否定されるのが。
少しだけ悔しかった。
⸻
元彼:「俺だって苦しかったんやで」
武元:「……」
元彼:「仕事もあったし」
元彼:「余裕なかったし」
元彼:「色々重なって」
武元:「うん」
分かる。
それも本当なんだろう。
嘘じゃない。
だから否定できない。
元彼:「お前も」
その瞬間だった。
元彼:「もう少し俺のこと見てくれてたら」
言葉が止まる。
胸の奥で。
何かが静かに終わった。
あぁ。
そうか。
そうだった。
この人は。
最後まで。
自分の話をしている。
苦しかった。
辛かった。
後悔している。
全部本当なんだろう。
でも。
私も苦しかった。
私も辛かった。
何度も一人で泣いた。
何度も助けてほしかった。
何度も振り返ってほしかった。
でも。
その話は一度も出てこない。
今。
この瞬間も。
見ているのは私じゃない。
自分なんだ。
その事実だけが。
妙に悲しかった。
怒りじゃない。
失望でもない。
ただ。
長い間抱えていた想いが。
静かにほどけていくような感覚だった。
あれほど好きだったはずなのに。
あれほど忘れられなかったはずなのに。
気付いてしまった。
私はもう。
この人を待っていない。
あれほど好きだったはずなのに。
あれほど忘れられなかったはずなのに。
気付いてしまった。
私はもう。
この人を好きになれない。
⸻
元彼:「唯衣?」
沈黙が落ちる。
向こうも何かを察したらしい。
少しだけ顔色が変わった。
武元:「私さ」
ゆっくり息を吐く。
逃げない。
ちゃんと向き合う。
そう決めたから。
武元:「苦しかったんよ」
元彼:「……」
武元:「ずっと」
武元:「ほんまにずっと」
言葉にすると。
胸が痛かった。
まだ好きだった頃の自分が。
心の奥で泣いている気がした。
武元:「謝ってほしかった」
武元:「ちゃんと向き合ってほしかった」
武元:「話聞いてほしかった」
武元:「振り向いてほしかった」
何度も。
何度も。
思っていたことだった。
武元:「でも」
武元:「来てくれへんかったやん」
元彼:「……」
武元:「私」
武元:「ずっと待ってたんやで」
元彼が俯く。
拳を握る。
元彼:「ごめん」
武元:「うん」
元彼:「ほんまにごめん」
武元:「うん」
元彼:「だから今こうして」
元彼:「来たやん」
その言葉に。
少しだけ胸が痛む。
でも。
違う。
武元:「遅かったんよ」
元彼:「……っ」
武元:「ごめん」
武元:「ほんまに」
武元:「遅かった」
元彼の表情が歪む。
焦り。
後悔。
恐怖。
全部混ざった顔だった。
元彼:「やり直せるやろ」
元彼:「まだ」
元彼:「俺好きやし」
元彼:「唯衣も好きやろ」
その言葉に。
少しだけ目を閉じる。
好きだった。
本当に。
だから苦しい。
元彼:「違うん?」
武元:「……」
元彼:「その男か?」
武元:「違う」
即答だった。
元彼:「じゃあ何で」
武元:「違う」
もう一度言う。
武元:「そういう話ちゃう」
元彼:「じゃあ何やねん」
少しだけ声が荒くなる。
初めて感情が表に出た。
元彼:「そいつのこと好きなんか」
武元:「違う」
元彼:「じゃあ」
武元:「私が無理やったんや」
静かに言う。
元彼:「……」
武元:「浮気されたことも」
武元:「向き合ってくれへんかったことも」
武元:「待ってた時間も」
武元:「全部」
そこで。
一度言葉を切る。
武元:「全部込みで」
武元:「私はもう戻れへん」
長い沈黙。
カフェの喧騒だけが聞こえる。
元彼は何か言おうとした。
でも。
言葉が出てこなかった。
多分。
分かってしまったのだ。
終わったことを。
⸻
武元:「ありがとう」
元彼:「……」
武元:「好きやった」
涙が落ちる。
止まらない。
みっともないくらい。
武元:「ほんまに好きやった」
武元:「幸せやった」
武元:「ありがとう」
元彼も俯く。
肩が震えていた。
でも。
もう届かない。
武元:「じゃあね」
立ち上がる。
最後だった。
振り返らない。
振り返ったら。
きっと泣いてしまうから。
⸻
店を出る。
駅前の雑踏。
夕暮れ。
人の波。
武元:「……っ」
涙が止まらない。
苦しい。
辛い。
失恋だった。
ちゃんと。
本当にちゃんと。
失恋だった。
好きだった人との終わりだった。
だから苦しい。
だから泣く。
でも。
歩きながら。
ふと思い出してしまう。
○○:『もし派手に泣かされたら笑ってやる』
武元:「……ばか」
涙が零れる。
なのに。
少しだけ笑ってしまった。
その瞬間。
帰りたいと思った。
実家じゃない。
会社でもない。
あの部屋へ。
あの人がいる場所へ。
当たり前みたいに。
ただいまと言える場所へ。
その事実に。
まだ気付かないふりをしたまま。
武元唯衣は家路を急いだ。
⸻
一方その頃。
○○宅。
土曜日。
午後三時。
リビング。
○○:「……」
スマホを見る。
置く。
数秒後。
また見る。
有美子:「気持ち悪」
○○:「失礼やな」
梨名:「今日それ何回目?」
○○:「何が」
有美子:「スマホ」
○○:「見てへん」
梨名:「今見たやん」
○○:「見てへん」
有美子:「見た」
梨名:「見た」
○○:「見てへん!」
二対一だった。
理不尽である。
⸻
有美子:「連絡したら?」
○○:「せん」
梨名:「心配なん?」
○○:「まぁ」
有美子:「好きやん」
○○:「飛躍しすぎやろ」
梨名:「高校の時好きやったやん」
○○:「時効やろ」
有美子:「大学で失恋してたやん」
○○:「記憶にございません」
梨名:「引きずってたやん」
○○:「証拠あるんか」
有美子:「目の前にいるからなぁ」
梨名:「本人」
○○:「ほんと性格悪いな!」
即答だった。
有美子が吹き出す。
梨名も笑う。
有美子:「図星や」
○○:「違う」
梨名:「まだ言う」
○○:「何年前の話しとんねん」
有美子:「六年くらい?」
○○:「帰れ」
梨名:「二回目や」
○○:「今日は解散」
有美子:「家主権限やめろ」
⸻
しばらくして。
笑い声が落ち着いた頃。
○○がぽつりと呟いた。
○○:「まぁでも」
有美子:「ん?」
○○:「幸せならええんちゃう」
有美子と梨名が顔を上げる。
○○:「やり直すならそれでええし」
○○:「戻らんでもそれでええし」
○○:「唯衣が決めることやし」
静かな声だった。
冗談じゃない。
本音だった。
○○:「ただ」
少しだけ視線を落とす。
○○:「泣いてたら嫌やな」
その一言だけ。
それだけだった。
でも。
有美子も。
梨名も。
何も言わなかった。
高校の頃から知っている。
こいつが。
どれだけ武元唯衣を好きだったか。
どれだけ諦めようとしたか。
全部知っている。
だから。
有美子:「ようやったやん」
○○:「何が」
梨名:「送り出したこと」
○○:「男前の俺なら普通やろ」
有美子:「普通ちゃう」
梨名:「昔のお前なら絶対止めてた」
○○:「止めてへんわ」
有美子:「止めてた」
○○:「止めてへん、大人やもん」
有美子:「否定弱なってる」
梨名:「図星やな」
○○:「お前らほんま嫌い」
そう言いながら。
少しだけ笑った。
⸻
午後五時過ぎ。
玄関の鍵が回る音。
カチャ。
三人同時に顔を上げる。
有美子:「帰ってきた」
梨名:「帰ってきたな」
その瞬間。
○○が立ち上がる。
本当に自然に。
無意識に。
自分でも気付いていないくらい。
有美子:「ほら」
梨名:「一番待ってたやん」
○○:「たまたま立っただけや」
有美子:「玄関向かってるやん」
○○:「ストレッチや」
梨名:「玄関で?」
○○:「うるさい」
有美子:「好きやん」
○○:「あー!あー!あー!会話終了!」
そう言いながら。
玄関へ向かう足は。
少しだけ速かった。
⸻
そして。
ドアが開く。
そこに立っていた唯衣の顔を見た瞬間。
○○の表情が少しだけ緩んだ。
○○:「おかえり」
その一言で。
張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
武元:「……ただいま」
有美子:「おかえり」
梨名:「おつかれ」
リビングから二人も顔を出す。
その瞬間。
少しだけ笑ってしまった。
武元:「何でおるん」
有美子:「暇やった」
梨名:「嘘や」
○○:「こいつらが勝手に来た」
有美子:「心配で来たんや」
梨名:「誰がとは言わんけど」
○○:「え!?なんで俺の方見てんの?」
また二人が吹き出す。
その光景が。
妙に懐かしかった。
高校の頃みたいだった。
⸻
三十分後。
有美子と梨名は帰った。
玄関で。
有美子:「また連絡する」
梨名:「今日はゆっくり寝ろ」
武元:「うん」
ドアが閉まる。
部屋に残ったのは二人だけ。
少しだけ静かになる。
○○:「……」
武元:「……」
○○:「おつかれ」
それだけだった。
何があったのか聞かない。
どうなったのかも聞かない。
ただ。
おつかれ。
その一言だけ。
胸が少し熱くなる。
武元:「……うん」
⸻
○○:「腹減った」
武元:「急やな」
○○:「頑張った日やろ」
武元:「まぁ」
○○:「パーティーするか」
武元:「何の」
○○:「知らん」
武元:「適当やな」
○○:「何食う」
スマホを取り出す。
デリバリーアプリ。
画面を見せられる。
少しだけ考える。
武元:「ポテト食べたい」
○○:「バーガーキング」
武元:「マクド」
○○:「バーキン」
武元:「マクド」
○○:「バーキン」
武元:「マクド」
○○:「バーキン」
武元:「出てけ」
○○:「俺の家や」
即答だった。
思わず吹き出す。
笑ってしまう。
本当に。
どうでもいい話なのに。
失恋した日なのに。
泣いていたはずなのに。
笑ってしまう。
⸻
結局。
マクドになった。
○○:「横暴や」
武元:「当然や」
○○:「独裁国家や」
武元:「ちゃんとした民主主義やからな」
また笑う。
また。
笑ってしまう。
⸻
夜。
自室。
一人。
ベッドに横になる。
静かだった。
今日。
終わった。
本当に終わった。
好きだった人との恋が。
終わった。
だから苦しい。
だから泣いた。
それなのに。
頭に浮かぶのは。
最後の別れじゃなかった。
『おかえり』
『おつかれ』
『バーキンがいいの俺は!』
『俺の家や』
武元:「……」
思わず顔を覆う。
駄目だ。
駄目。
本当に駄目。
分かってしまった。
今日。
帰りたいと思った場所。
安心した場所。
泣きそうになった場所。
笑えた場所。
全部。
ここだった。
この部屋だった。
あの人がいる場所だった。
武元:「あぁ……」
小さく声が漏れる。
認めたくない。
認めちゃいけない。
でも。
もう分かっていた。
武元:「好きやん……」
ぽろりと涙が落ちる。
失恋した日に。
別の人を好きだと気付くなんて。
最低だ。
最低すぎる。
○○は何も悪くない。
助けてくれた。
支えてくれた。
帰る場所になってくれた。
なのに。
そんな人に。
こんな感情を向けるなんて。
武元:「最低や……」
胸が苦しい。
恋だった。
間違いなく。
でも。
喜びより先に。
罪悪感だけが溢れていた。
