浮気は用法容量を守って使用すること。
第三話
「当たり前」
二週間後。
朝。
○○:「唯衣ー」
武元:「んー……」
○○:「起きろー」
武元:「あと五分」
○○:「それ昨日も聞いた」
武元:「じゃあ十分」
○○:「増えてるやん」
布団を頭まで被る。
眠い。
仕事だるい。
行きたくない。
そんな朝だった。
○○:「コーヒー飲むか?」
武元:「飲む……」
○○:「起きれる?」
武元:「無理……」
○○:「正直やな」
笑い声が聞こえる。
その声を聞きながら。
唯衣はゆっくり目を閉じた。
数秒後。
○○:「唯衣」
武元:「ん?」
○○:「遅刻するぞ」
武元:「起きる」
○○:「体を動かしてくだーい」
武元:「うるさい」
⸻
結局。
十分後。
二人で朝ご飯を食べていた。
武元:「……」
○○:「何」
武元:「いや」
武元:「普通やなって」
○○:「何が」
武元:「朝ご飯」
○○:「朝やからな」
武元:「そういうことちゃう」
味噌汁を飲む。
焼き魚。
卵焼き。
ご飯。
普通の朝食。
でも。
少し前まで。
こんな朝を迎えるなんて思ってもいなかった。
○○:「今日遅い?」
武元:「多分」
○○:「了解」
武元:「○○は?」
○○:「定時チャレンジ」
武元:「失敗するやつや」
○○:「失礼やな」
自然だった。
本当に自然だった。
高校の頃みたいに。
でも違う。
学生じゃない。
社会人だ。
仕事の話をして。
生活の話をして。
同じテーブルで飯を食っている。
不思議な感覚だった。
⸻
夜。
先に帰宅したのは唯衣だった。
武元:「ただいま」
誰もいない部屋。
なのに。
無意識に言葉が出る。
返事はない。
当然だ。
まだ○○は仕事中なのだから。
武元:「……」
少しだけ静かだった。
靴を脱ぐ。
バッグを置く。
冷蔵庫を開く。
夕飯どうしよう。
そんなことを考える。
そして。
ふと立ち止まった。
武元:「あ」
気付く。
自分が今。
○○の帰宅時間を基準に考えていることに。
夕飯。
風呂。
洗濯。
買い物。
全部。
自然に二人分になっている。
武元:「……」
胸が少しだけざわつく。
心臓が一拍だけ強く鳴った気がした。
違う。
これは違う。
そう思った瞬間、冷蔵庫の扉を閉める手に少しだけ力が入る。
ただ一緒に住んでいるから。
それだけだ。
そう。
それだけ。
なのに。
頭のどこかで「今日は何時に帰ってくるんやろ」と考えていた自分がいる。
その事実に気付いた途端、妙に落ち着かなくなった。
違う。
深く考えるな。
ただの同居人。
昔から知っている幼馴染。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせるように、小さく息を吐いた。
⸻
玄関が開く音。
○○:「ただいまー」
武元:「おかえり」
反射だった。
何も考えていない。
何も。
本当に。
何も考えていなかった。
○○:「今日早かったな」
武元:「○○が遅いねん」
○○:「仕事や」
武元:「私もや」
ネクタイを緩めながら笑う。
その姿を見て。
少しだけ思う。
高校の頃。
こんな顔していただろうか。
知らない。
当たり前だ。
この四年間。
自分は知らない。
大学二年。
彼氏が出来て。
夢中になって。
気付けば連絡しなくなって。
そして。
気付けば四年が経っていた。
だから。
今の○○は知らない。
知らないはずなのに。
どうしてだろう。
こうしていると。
ずっと一緒にいたような気がしてしまう。
武元:「……」
胸の奥がじわりと熱くなる。
その感覚に気付いた瞬間、視線を逸らした。
違う。
喉の奥が少しだけ詰まる。
考えるな。
笑っている顔を見て安心したとか。
帰ってきてほっとしたとか。
そんなこと。
考えるな。
頭の中に浮かびかけた言葉を無理やり押し込める。
心臓がうるさい。
落ち着け。
まだ駄目だ。
その感情だけは。
向けちゃいけない。
絶対に。
まだ。
休日。
洗濯機の終了音で目が覚めた。
武元:「あ」
そうだった。
洗濯回してたんだった。
ソファから立ち上がる。
寝落ちしていたらしい。
時計を見る。
午前十時。
リビングには○○がいた。
休日なのに。
パソコンを開いている。
武元:「仕事?」
○○:「ちょっとだけ」
武元:「休日やぞ」
○○:「月曜も来るぞ」
武元:「嫌なこと言うな」
○○:「現実や」
最低や。
本当に。
そう思いながら洗濯機へ向かう。
蓋を開ける。
タオル。
Tシャツ。
靴下。
そして。
女性物。
武元:「……」
少し前なら。
こんな光景想像もしなかった。
男の家で。
自分の下着を洗っている。
冷静に考えると意味が分からない。
○○:「干す?」
武元:「干す」
○○:「手伝う?」
武元:「いらん」
○○:「何で」
武元:「見んな変態」
○○:「だから俺の家や」
武元:「最低」
○○:「理不尽やろ」
ベランダへ出る。
洗濯物を干す。
○○のシャツ。
自分の服。
並んで揺れる。
少しだけ。
胸がざわついた。
見ないようにする。
考えないようにする。
でも。
目に入ってしまう。
○○:「そういや」
武元:「ん?」
○○:「洗面所侵略されてる」
武元:「侵略?」
○○:「化粧品増えてる」
武元:「人聞き悪いな」
○○:「マグカップも増えた」
武元:「生活に必要や」
○○:「クッションも増えた」
武元:「必要や」
○○:「ヘアゴムも増えた」
武元:「必要や」
○○:「部屋がガーリーになっていく」
武元:「違う」
即答だった。
でも。
何が違うのかは自分でも分からなかった。
ただ。
侵略という言葉だけは。
妙に胸に引っ掛かった。
まるで。
ここが自分の居場所みたいに聞こえてしまったから。
⸻
その日の夜。
風呂上がり。
ソファへ座る。
スマホを見る。
通知。
十一件。
その内十件。
同じ名前。
武元:「……」
呼吸が止まる。
元彼だった。
電話。
LINE。
不在着信。
謝罪。
会いたい。
話したい。
ごめん。
ごめん。
ごめん。
画面を閉じる。
でも。
数秒後にはまた開いていた。
好きだった。
本当に。
好きだったから。
簡単には切れない。
○○:「どうした」
顔を上げる。
向かいのソファ。
テレビを見ていた○○がこちらを見る。
武元:「……別に」
○○:「そうか」
聞かない。
深追いもしない。
そのままテレビへ視線を戻す。
それが少しだけありがたかった。
少しだけ苦しかった。
優しいから。
何も聞かない。
だから余計に。
頼りたくなる。
甘えたくなる。
駄目なのに。
そんなこと。
思っちゃいけないのに。
スマホが震える。
また。
あの人だった。
画面を見つめる。
長い沈黙。
そして。
武元:「……会わなあかんかな」
小さく。
本当に小さく呟いた。
その声だけは。
○○にも聞こえていた。
その声だけは。
○○にも聞こえていた。
テレビの音が流れる。
バラエティ番組。
誰かが笑っている。
でも。
部屋の中は静かだった。
○○:「……」
少しだけ考える。
そして。
○○:「会いたいん?」
武元:「分からん」
○○:「そうか」
武元:「……」
○○:「会いたくないん?」
武元:「それも分からん」
○○:「そうか」
それだけだった。
もっと何か言われると思っていた。
会うなとか。
会った方がいいとか。
そんなことを。
背中を押してほしかったのか。
止めてほしかったのか。
自分でも分からない。
ただ。
誰かに決めてほしいと思ってしまった。
自分で決めるのが怖かったから。
もし会って傷付いたら。
もし会わずに後悔したら。
どちらも嫌だった。
だから。
誰かの言葉に逃げたかった。
でも。
○○は言わない。
いつもそうだ。
決めるのは自分。
選ぶのは自分。
その線だけは絶対に越えてこない。
武元:「何かないん」
○○:「何が」
武元:「意見」
○○:「あるけど」
武元:「あるんかい」
○○:「ある」
武元:「なら言えや」
○○:「嫌や」
武元:「何で」
○○:「俺が決めることちゃうやろ」
静かな声だった。
突き放された訳じゃない。
冷たい訳でもない。
むしろ逆だ。
○○はずっと信じている。
唯衣なら自分で決められると。
だから口を出さない。
だから代わりに選ばない。
それが分かるから。
文句も言えなかった。
○○:「唯衣の人生やし」
○○:「俺が会えとか会うなとか言う立場ちゃう」
武元:「……」
○○:「会いたいなら会えばいい」
○○:「会いたくないなら会わんでいい」
武元:「雑」
○○:「そうか?」
武元:「そうやろ」
○○:「せやけど」
そこで。
○○は少しだけ視線を落とした。
○○:「どっち選んでも」
○○:「別に帰ってきたらええやん」
武元:「……え?」
○○:「だから」
○○:「上手くいってもええし」
○○:「上手くいかんでもええし」
○○:「帰る場所くらいあるやろ」
何でもないみたいに言う。
本当に。
何でもないみたいに。
でも。
その言葉はずるかった。
会うなとは言わない。
行くなとも言わない。
自分で決めろと言う。
なのに。
失敗してもいいと。
戻ってきてもいいと。
そんな逃げ道だけは残してくれる。
○○:「少なくとも」
○○:「俺は追い出してへんし」
○○:「いつでも頼れ」
○○:「それくらいしか出来んけど」
胸が痛かった。
苦しいくらいに。
優しいから。
優しすぎるから。
そんなことを言われたら。
また頼ってしまう。
また甘えてしまう。
また。
帰ってきたくなってしまう。
だから。
駄目なのに。
武元:「……」
視線を落とす。
スマホの画面。
元彼の名前。
未読のメッセージ。
謝罪。
後悔。
やり直したい。
会いたい。
話したい。
画面を開けば。
付き合っていた頃の記憶も一緒に蘇る。
楽しかった時間。
笑い合った日々。
好きだった気持ち。
全部嘘だったとは思えない。
だから余計に苦しい。
許せない気持ちと。
まだ好きかもしれない気持ち。
終わらせたい気持ちと。
終わらせたくない気持ち。
全部がぐちゃぐちゃに絡まっていた。
だから。
ちゃんと向き合わなきゃいけない。
逃げちゃいけない。
それも分かっている。
分かっているのに。
もし今。
○○が「会うな」と言ったら。
少しだけ楽になれる気がした。
そんな自分が情けなかった。
武元:「なぁ」
○○:「ん?」
気付けば。
言葉が零れていた。
武元:「浮気した人って」
少しだけ喉が詰まる。
息を吸う。
武元:「許せると思う?」
テレビの音が遠くなる。
○○はすぐには答えなかった。
少しだけ考える。
その横顔を見ながら。
唯衣は静かに拳を握った。
本当は。
答えが怖かった。
許せると言われても。
許せないと言われても。
きっと心が揺れる。
それでも聞きたかった。
○○がどう思うのか。
○○ならどう考えるのか。
気になってしまう自分がいた。
この人に。
こんな感情を向けちゃいけない。
まだ。
絶対に。
駄目だ。
元彼とのことも終わっていない。
自分の気持ちだって整理できていない。
なのに。
そう思うほど。
胸の奥は苦しくなっていった。
