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浮気は用法容量を守って使用すること。

第一話

 社会人二年目の春。

 日付はとっくに変わっていた。

 ○○はネクタイを緩めながら玄関のドアを閉める。

○○:「……疲れた」

 思わず声が漏れた。

 残業。

 上司からの修正。

 取引先からの電話。

 気付けば終電間際だった。

 冷蔵庫を開く。

 何もない。

○○:「終わってんな」

 棚からカップ麺を取り出す。

 お湯だけ沸かそう。

 そう思った時だった。

 ピンポーン。

 部屋にチャイムが鳴った。

○○:「……?」

 時計を見る。

 午前0時46分。

 宅配ではない。

 友人とも約束していない。

 少しだけ警戒しながらインターホンを覗く。

 そして。

 固まった。

○○:「は……?」

 画面に映る顔。

 見間違えるはずがなかった。

 慌てて玄関を開ける。

 夜風が吹き込む。

 街灯の下。

 そこに立っていたのは。

武元:「よっ」

 武元唯衣だった。

 高校時代の同級生。

 そして。

 人生で一番好きだった人。

○○:「……何してんだ」

武元:「終電逃した」

○○:「嘘つけ」

武元:「即否定やん」

○○:「顔」

武元:「顔?」

○○:「終電逃した奴の顔ちゃう」

武元:「そんなもん顔で分かるか?」

○○:「分かる」

武元:「超能力者か」

○○:「少なくともお前は違う」

武元:「失礼やな」

○○:「お前こそ何年ぶりやと思ってんねん」

武元:「三年?」

○○:「四年近い」

武元:「そんな経った?」

○○:「経った」

武元:「うわぁ……」

○○:「うわぁじゃない」

武元:「社会人怖」

○○:「そこじゃない」

 少しだけ笑う。

 その顔を見て。

 ○○は胸の奥がざわついた。

 懐かしい。

 あまりにも。

 懐かしい。

 けれど。

 昔みたいに笑っているようで。

 どこか違った。

○○:「入れよ」

武元:「ええの?」

○○:「ここまで来といて今さら聞くな」

武元:「優しいなぁ」

○○:「知ってる」

武元:「自分で言う?」

○○:「お前が言うからやろ」

武元:「昔から変わらん」

○○:「どっちが」

武元:「そういうとこ」

 唯衣は靴を脱ぐ。

 部屋へ上がる。

 そしてリビングを見回した。

武元:「あー」

○○:「何や」

武元:「○○の部屋や」

○○:「俺の部屋だからな」

武元:「いやなんか」

武元:「想像通り」

○○:「来たことないやろ」

武元:「雰囲気」

○○:「分かるか」

武元:「分かる」

○○:「何で」

武元:「知らん」

○○:「適当やな」

武元:「でも何か○○っぽい」

 そう言って。

 唯衣はソファへ腰を下ろした。

 その姿が妙に自然だった。

 まるで昔から知っている場所みたいに。

 ○○はキッチンへ向かう。

○○:「腹減った」

武元:「急やな」

○○:「お前も食うか」

武元:「食う」

○○:「遠慮しろ」

武元:「お腹空いた」

○○:「何食べた今日」

武元:「朝」

○○:「今何時やと思ってんねん」

武元:「知らん」

○○:「知れ」

武元:「忙しかったんよ」

○○:「だからって食わん理由にならん」

武元:「母親みたいなこと言うな」

○○:「誰のせいや」

武元:「高校の時も言われたなぁ」

○○:「お前昼飯抜くからや」

武元:「懐かしい」

○○:「全然懐かしくない」

 お湯を沸かす。

 カップ麺を二つ並べる。

 その様子を見ながら。

 唯衣がふっと笑った。

武元:「まだそれ食べとるんや」

○○:「何が」

武元:「醤油ラーメン」

○○:「うまいからな」

武元:「高校の帰りも食べとった」

○○:「安かったからな」

武元:「夢ないな」

○○:「現実的と言え」

武元:「相変わらずや」

○○:「お前もな」

武元:「どこが」

○○:「人の飯を当然みたいに食うところ」

武元:「ちゃんと許可取ってる」

○○:「取る前から座ってたやろ」

武元:「細かい」

○○:「図々しい」

武元:「褒め言葉やな」

○○:「違う」

 思わず吹き出した。

 唯衣も笑う。

 高校時代みたいに。

 本当に。

 少しだけ。

 昔に戻ったみたいだった。

テーブルを挟んで座る。

 カップ麺から湯気が立ち上る。

 深夜一時過ぎ。

 普通ならもう寝ている時間だった。

武元:「いただきます」

○○:「どうぞ」

武元:「どうぞって」

○○:「人の飯だからな」

武元:「ケチ」

○○:「事実」

武元:「高校の時もっと優しかった」

○○:「気のせい」

武元:「気のせいちゃう」

○○:「じゃあ証拠出せ」

武元:「放課後毎回ジュース奢ってくれた」

○○:「お前が勝手についてきてただけやろ」

武元:「でも買ってくれた」

○○:「断ると面倒だった」

武元:「ひど」

○○:「事実だろ」

武元:「今ならハラスメントやな」

○○:「何ハラだよ」

武元:「武元ハラ」

○○:「聞いたことない」

武元:「今作った」

 くだらない。

 本当にくだらない話だった。

 でも。

 その時間が妙に心地良かった。

 高校の頃もそうだった。

 特に意味のない話をして。

 気付けば日が暮れていた。

 そんなことを思い出す。

武元:「なあ」

○○:「ん?」

武元:「社会人どう?」

○○:「急やな」

武元:「いいから」

○○:「しんどい」

武元:「即答やん」

○○:「お前は?」

武元:「しんどい」

○○:「即答やん」

 目が合う。

 少しだけ笑う。

 けれど。

 その笑顔は長く続かなかった。

武元:「高校の時さ」

武元:「大人になったらもっと楽やと思っとった」

○○:「俺も」

武元:「嘘やろ」

○○:「本当」

武元:「夢ないなあ」

○○:「現実知っただけだ」

武元:「嫌やなその言い方」

○○:「大人だからな」

武元:「出た」

○○:「何が」

武元:「社会人ぶるやつ」

○○:「二年目やぞ」

武元:「私もや」

○○:「そうだった」

武元:「忘れんな」

○○:「学生みたいな顔してるから」

武元:「喧嘩売っとる?」

○○:「事実言っただけ」

 唯衣が箸を向ける。

 ○○が避ける。

 昔と同じ。

 変わらないやり取り。

 なのに。

 何故だろう。

 少しだけ胸が痛かった。

 高校の頃は。

 こんな時間が当たり前だった。

 でも今は違う。

 四年。

 会わなかった時間がある。

 互いの知らない日々がある。

 それぞれの人生がある。

武元:「○○はさ」

○○:「ん?」

武元:「彼女おるん?」

 少しだけ驚いた。

○○:「いない」

武元:「意外」

○○:「何で」

武元:「モテそうやん」

○○:「お前だけだぞそんなこと言うの」

武元:「付き合ったことは?」

○○:「ある」

武元:「へぇ」

○○:「何だその反応」

武元:「いや」

武元:「ちゃんと恋愛してたんやなって」

○○:「失礼すぎるだろ」

武元:「あはは」

 笑う。

 笑うけれど。

 どこか寂しそうだった。

○○:「お前は」

武元:「ん?」

○○:「どうなん」

 その瞬間だった。

 ほんの少しだけ。

 唯衣の動きが止まる。

 本当に一瞬。

 でも。

 ○○は見逃さなかった。

武元:「私?」

○○:「うん」

武元:「まぁ」

武元:「色々やな」

○○:「便利な言葉やな」

武元:「便利やろ」

○○:「便利すぎる」

武元:「大人やからな」

○○:「使い方間違ってる」

 笑う。

 笑っている。

 でも。

 何かがおかしい。

 高校時代から知っている。

 唯衣は。

 本当に辛い時ほど笑う。

 誤魔化す。

 隠す。

 冗談にする。

 そして。

 誰にも頼らない。

 だから。

 ○○もそれ以上聞かなかった。

 聞けば話す気がした。

 でも。

 今はまだ違う気がした。

 しばらく沈黙が流れる。

 二人とも麺をすする。

 深夜の部屋。

 エアコンの低い駆動音だけが耳に残る。

 その時だった。

 ぽた。

 小さな音。

 最初は気付かなかった。

 でも。

 二滴目で分かった。

 カップの中へ。

 透明な雫が落ちていた。

○○:「……唯衣」

 返事はない。

 ぽた。

 また一滴。

 落ちる。

 湯気の向こうで、唯衣は俯いていた。

 長い前髪の隙間から零れた涙が、熱いスープの表面に波紋を広げる。

 肩が小さく震えていた。

 箸を握る指先にも力が入っていて、白くなっている。

 泣いている。

 声も出さずに。

 必死に堪えながら。

 ただ。

 静かに。

 けれどその静けさが、胸を締め付けるほど痛かった。

 エアコンの音に混じって、かすかな息を飲む音が聞こえる。

 震える呼吸。

 押し殺された嗚咽。

 ○○の喉も、急に詰まったように苦しくなる。

 何かあったのだと分かっていた。

 辛かったのだと気付いていた。

 それなのに、自分はずっと見ないふりをしていたのかもしれない。

 笑っているから大丈夫だと。

 いつもの唯衣だから平気だと。

 勝手に思い込んでいた。

 違った。

 目の前の唯衣はずっと限界だったのだ。

 その事実が、遅れて胸の奥に突き刺さる。

 四年の空白。

 知らなかった日々。

 知らなかった想い。

 知らなかった涙。

 こんなにも近くにいるのに、何一つ分かっていなかった。

 胸の奥が熱くなり、指先がわずかに震える。

 ○○は何か言おうとして、言葉を失った。

 ただ、唯衣から目を離せなかった。

○○はゆっくり立ち上がった。

 何か言わなきゃと思った。

 大丈夫か。

 何があった。

 話せよ。

 そんな言葉はいくらでも浮かぶ。

 でも。

 どれも違う気がした。

 高校の頃から知っている。

 唯衣は。

 話したくない時に聞かれるのが嫌いだ。

 話したい時は勝手に話す。

 だから。

 ○○は何も聞かなかった。

 ただ。

 唯衣の隣へ移動する。

 ソファに腰を下ろす。

 肩が触れそうな距離。

 でも。

 何も言わない。

 数秒。

 数十秒。

 静かな時間が流れる。

 重たい沈黙の中で、唯衣の浅い呼吸だけがかすかに耳に届く。

 ぽた。

 また涙が落ちる。

 今度は隠しもしなかった。

武元:「……っ」

 小さく息を吸う音。

 肩が細かく震えている。

 握り締めた指先は白くなり、体温が逃げていくように冷えていた。

 そして。

 限界だった。

武元:「ぅ……」

 嗚咽が漏れる。

 一度漏れたらもう止まらなかった。

武元:「っ……」

武元:「ぁ……」

 涙が溢れる。

 必死に口元を押さえる。

 それでも。

 抑えきれない。

 呼吸は乱れ、喉の奥で詰まるような音がする。

 ○○は黙ったまま背中へ手を置いた。

 ゆっくり。

 本当にゆっくり。

 昔と同じように。

 高校の頃。

 唯衣が部活で負けた日も。

 受験で落ち込んでいた日も。

 こうして背中をさすった。

 言葉なんてなかった。

 ただ隣にいただけだった。

 掌越しに伝わる背中は強張っていて、震えが止まらない。

 唯衣の肩が大きく震える。

武元:「……ごめん」

 やっと出た言葉。

 かすれた声。

○○:「謝るな」

武元:「でも……」

○○:「謝るなよ」

 それ以上は言わせなかった。

 唯衣は唇を噛む。

 震える息を何度も飲み込もうとして。

 そして。

 ぽろりと零した。

武元:「しんどかってん」

 その一言だった。

 たったそれだけ。

 でも。

 ○○の胸は締め付けられた。

 高校時代。

 唯衣は滅多に弱音を吐かなかった。

 負けず嫌いで。

 意地っ張りで。

 笑って誤魔化す人だった。

 そんな唯衣が。

 しんどい。

 そう言った。

 それだけで十分だった。

○○:「うん」

武元:「頑張ったんよ」

○○:「うん」

武元:「ちゃんと頑張った」

○○:「そうだろうな」

武元:「仕事も」

武元:「恋愛も」

武元:「ちゃんとやってた」

○○:「うん」

武元:「なのになぁ……」

 そこで言葉が切れる。

 また涙が溢れる。

 熱い雫が頬を伝い、膝の上へ落ちていく。

 ○○は何も聞かない。

 聞けない。

 多分。

 今の唯衣が欲しいのは答えじゃない。

 吐き出す場所だ。

 それだけは分かった。

武元:「私な」

武元:「大人になったらもっと上手くやれると思っとった」

武元:「高校の時みたいに失敗せんと思っとった」

武元:「ちゃんと幸せになれると思っとった」

 震える声。

 切れ切れの言葉。

 それでも。

 息を継ぐたびに胸が苦しそうに上下しながら。

 一つずつ零れていく。

武元:「でも」

武元:「全然上手くいかへん」

武元:「何でなんやろ」

武元:「何が悪かったんやろ」

 ○○は目を閉じる。

 分からない。

 何があったかも。

 何を失ったのかも。

 何に傷付いたのかも。

 でも。

 一つだけ分かった。

 この人は。

 本当に限界だった。

 だから。

 ○○は静かに言う。

○○:「唯衣」

 名前を呼ぶ。

 高校以来かもしれない。

 自然に名前を呼んだのは。

 唯衣が少しだけ顔を上げる。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。

 目元は赤く腫れ、呼吸はまだ不安定だった。

 それでも。

 ○○は目を逸らさなかった。

○○:「今日はもう頑張らなくていい」

 その瞬間だった。

 唯衣の表情が崩れた。

 堪えていたものが。

 全部。

 壊れた。

武元:「っ……」

武元:「ぅあ……」

 泣き声が漏れる。

 子供みたいに。

 みっともなく。

 ぐしゃぐしゃに。

 肩を震わせ、息もまともに吸えないまま。

 泣き続ける。

 ○○は何も言わない。

 ただ隣にいる。

 背中をさする。

 それだけだった。

 でも。

 今の唯衣には。

 それだけで十分だった。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 気付けば。

 唯衣は泣き疲れていた。

 肩から力が抜ける。

 荒れていた呼吸も少しずつ落ち着いていく。

 泣いたせいで体温が上がったのか、もたれかかる身体はほんのり温かかった。

 そして。

 ○○の肩にもたれかかったまま。

 静かに目を閉じた。

 寝息が聞こえる。

 眠ってしまったらしい。

○○:「……」

 ○○は動かなかった。

 動けなかった。

 肩越しに伝わる穏やかな呼吸のリズムを感じながら。

 眠る唯衣を見る。

 高校時代から。

 ずっと特別だった人。

 でも。

 もう終わったと思っていた人。

 その人が今。

 自分の肩で眠っている。

 視線を落とす。

 髪が頬にかかっていた。

 そっと払おうとして。

 途中で手を止めた。

 静かな部屋に、規則正しい寝息だけが残る。

 時計の針が進む音がやけに大きく聞こえた。

 この夜が明けたら。

 何かが変わるのか。

 それとも何も変わらないのか。

 答えはどこにもなかった。

 ○○はただ、眠る唯衣の重みを肩に感じながら。

 窓の向こうの暗闇を見つめていた。

どれくらい時間が経ったのだろう。

 気付けば時計は二時を回っていた。

 肩にもたれたままの唯衣は完全に眠っている。

 泣き疲れたのだろう。

 目元は少し赤い。

 それでも。

 さっきまでの苦しそうな表情は消えていた。

○○:「……困ったな」

 小さく呟く。

 当然返事はない。

 昔からだった。

 泣く時は派手に泣くくせに。

 まるで世界の終わりみたいに声を上げて、息ができなくなるまで泣く。

 泣きながら「もう無理や」「全部終わりや」なんて大げさなことを言って。

 それでも。

 泣き終わった途端、糸が切れたみたいに眠る。

 高校の頃もそうだった。

 文化祭の準備で揉めた時も。

 部活で負けた時も。

 声が枯れるまで泣いて。

 最後はどこかで寝落ちしていた。

 変わらない。

 本当に。

 昔から何も変わっていない。

 けれど今は、その変わらなさが妙に胸に引っかかった。

○○:「起きろ」

武元:「……」

○○:「唯衣」

武元:「んぅ……」

○○:「風呂」

武元:「やだ」

○○:「子供か」

武元:「眠い」

○○:「知ってるけど、風邪ひくぞ」

武元:「五分」

○○:「信用できんな」

武元:「十五分」

○○:「さらに増えたな」

 少しだけ笑う。

 唯衣も目を擦りながら起き上がる。

武元:「……ごめん」

○○:「何が」

武元:「泣いたこと」

○○:「気にせんでええ」

武元:「迷惑かけた」

○○:「そんなもんじゃない」

武元:「怒ってる?」

○○:「怒ってない」

武元:「ほんま?」

○○:「ほんまや。怒る理由もないし」

 唯衣は少しだけ黙る。

 そして。

 ぽつりと言った。

武元:「優しいな」

○○:「今さらか」

武元:「今さらや」

○○:「昔からそうやろ」

武元:「せやったな」

 少しだけ。

 本当に少しだけ。

 唯衣が笑った。

 さっきまでの無理した笑顔じゃない。

 力の抜けた笑顔だった。

 それを見て。

 ○○は胸の奥で安堵する。

 良かった。

 そう思った。

 少なくとも。

 少しは吐き出せたのだろうと。

 そう考えていた。

 だから。

 次の言葉は完全に予想外だった。

武元:「なあ」

○○:「ん?」

武元:「私と浮気せぇへん?」

 思考が止まった。

 数秒。

 本当に数秒。

 意味が分からなかった。

 耳がおかしくなったのかと思った。

 聞き間違いだと。

 そうであってくれと。

 一瞬、本気で願った。

○○:「……は?」

武元:「だから」

武元:「浮気」

○○:「言葉の意味は分かる」

○○:「分かるけど」

○○:「何言い出してんだ」

 心臓が嫌な音を立てる。

 冗談なら笑って流せる。

 酔った勢いなら叱ればいい。

 けれど、今の唯衣は酒も入っていない。

 泣き疲れて、弱っていて、それでも妙に落ち着いていた。

 そのことが逆に怖かった。

武元:「そのままやん」

○○:「そのまま言うな」

武元:「嫌?」

 嫌かどうか。

 そんな単純な話じゃない。

 頭の中に様々な考えが一気に押し寄せる。

 ここで強く否定したらどうなる。

 突き放したら。

 傷付けたら。

 逆に曖昧な返事をしたら。

 受け止めるような態度を見せたら。

 どちらも駄目な気がした。

 何を選んでも間違える予感がして、喉がひどく乾く。

○○:「そういう話じゃない」

武元:「ほな、どういう話?」

 唯衣は笑っていた。

 でも。

 その笑顔を見た瞬間。

 ○○は理解する。

 違う。

 これは冗談じゃない。

 恋愛でもない。

 誘惑でもない。

 もっと危うい何かだ。

 崖の縁に立ちながら。

 平気な顔で手を振っているような。

 そんな危うさ。

 今まで見たことがないくらい。

 唯衣が壊れかけている。

 背筋が冷えた。

 もしここで言葉を間違えたら。

 もし目の前のSOSを見誤ったら。

 唯衣は本当に戻れない場所まで落ちてしまうかもしれない。

 そんな根拠のない恐怖が胸を締め付ける。

武元:「私さ」

武元:「もう疲れたんよ」

 静かな声だった。

 泣いていた時より。

 むしろ静かだった。

 静かすぎて。

 かえって嫌な予感がした。

武元:「頑張るの」

武元:「ちゃんとするの」

武元:「期待するの」

武元:「信じるのも」

武元:「全部」

 笑う。

 でも。

 目だけが笑っていない。

 その目はどこか遠くを見ていた。

武元:「だからさ」

武元:「一緒に落ちぶれへん?」

武元:「どうせもうあかんのやったら」

武元:「誰かの一番じゃなくてもええから」

武元:「都合のええ女でもええから」

武元:「もう傷付かん場所に行きたいねん」

 ぞっとした。

 浮気の誘いなんかじゃない。

 自分を投げ捨てるための言葉だった。

 価値がないと決めつけて。

 傷付く前に自分から壊れようとしている。

 ○○は何も言えなかった。

 胸の奥が冷たくなる。

 高校時代から知っている。

 唯衣は強い。

 強い人だ。

 だから。

 本当に限界になると。

 誰より危ない。

 何もかも投げ捨てる覚悟だけは。

 昔から妙に早かった。

 今目の前にいるのは。

 失恋した武元唯衣じゃない。

 全部に疲れ切った武元唯衣だった。

 そして。

 ○○はようやく気付く。

 この人は今。

 慰めが欲しいんじゃない。

 必死に誰かへ手を伸ばしている。

 それも。

 誰にも気付かれないように。

 笑いながら。

 だから。

 ここで絶対に間違えちゃいけない。

 一歩踏み外せば。

 取り返しがつかない気がした。

 どう答えるべきか分からない。

 優しくするだけでは駄目だ。

 突き放すだけでも駄目だ。

 助けたい。

 でも、助け方を間違えれば傷を深くする。

 その迷いが胸の中で渦を巻く。

 それでも。

 逃げるわけにはいかなかった。

 今ここで目を逸らしたら、一生後悔する気がした。

 そう思った。

 そして静かに息を吐く。

 目の前の彼女から。

 もう目を逸らさないと決めた。

静かに息を吐く。

 何が正解かなんて分からなかった。

 励ませる自信もない。

 上手い言葉も知らない。

 昔からそうだ。

 梨名みたいに器用じゃない。

 有美子みたいに人の心を読むのも得意じゃない。

 でも。

 放っておけなかった。

 それだけだった。

○○:「浮気はせん」

武元:「即答やん」

○○:「する理由がない」

武元:「私傷付いてるんやけど」

○○:「知るか」

武元:「ひど」

 少しだけ。

 唯衣が笑う。

 その顔を見て。

 少しだけ安心する。

○○:「でもさ」

武元:「ん?」

○○:「別に急いで出ていかんでええぞ」

武元:「……」

○○:「俺彼女おらんし、部屋も余っとる」

武元:「……」

○○:「飯も一人分も二人分も大して変わらん」

武元:「雑な理由やな」

○○:「洗い物は増えるけどな」

武元:「やっぱ追い出される?」

○○:「その時は皿洗い担当になれ」

 唯衣が吹き出す。

 本当に少しだけ。

 さっきより自然に。

○○:「だから」

○○:「好きなだけおれ」

武元:「……」

○○:「立ち直るまででもいいし」

○○:「次の部屋見つかるまででもいい」

○○:「何なら追い出されるまででもいい」

武元:「ここ○○の家やろ」

○○:「そうだった」

 沈黙。

 静かな時間。

 唯衣は俯く。

 その横顔は見えない。

 でも。

 肩が少しだけ震えていた。

○○:「唯衣」

武元:「ん」

○○:「一人で抱えんなよ」

 説教じゃない。

 励ましでもない。

 ただの本音。

○○:「正直何が出来るか分からん」

○○:「でも、頼られるくらいなら出来る」

 唯衣は何も言わない。

○○:「昔から散々世話になったし」

武元:「……なったっけ」

○○:「なった」

武元:「覚えてへん」

○○:「俺は覚えてる」

 それだけ言う。

 本当は。

 放課後も。

 帰り道も。

 何気ない会話も。

 全部覚えている。

 でも。

 今は言わない。

 そんな話をする時じゃない。

○○:「だから」

○○:「今くらい頼れ」

○○:「それでチャラにしてくれ」

 唯衣はしばらく黙ったままだった。

 やがて。

 小さく笑う。

 泣きそうな顔で。

 でも。

 さっきより少しだけ温かい顔で。

武元:「……何それ」

○○:「恩返し」

武元:「恩なんかないやろ」

○○:「ある」

武元:「まだ言うんか」

○○:「認めるまでな」

武元:「めんどくさ」

○○:「お前が始めたんだろ」

 そのやり取りが。

 少しだけ。

 高校の頃みたいだった。

 戻れないはずの時間が、ほんの一瞬だけそこにあった気がした。

浴室のドアが閉まる。

 シャワーの音が聞こえ始めた。

 ○○は一人、リビングに残る。

 深夜二時過ぎ。

 さっきまで騒がしかった部屋が妙に静かだった。

○○:「……」

 ため息をつく。

 正直。

 何が正解だったのか分からない。

 あれで良かったのかも分からない。

 でも。

 あのまま頷くのだけは違うと思った。

 それだけだった。



 温かいお湯が肩を流れる。

 武元唯衣は俯いたまま目を閉じた。

 静かだ。

 さっきまであれだけ泣いていたのに。

 今は不思議なくらい静かだった。

武元(最低やな)

 思う。

 何度も。

 何度も。

 頭の中で繰り返す。

 ○○なら受け入れてくれると思った。

 ○○なら否定しないと思った。

 ○○なら一緒に落ちてくれると思った。

 そんなことを考えていた。

 最低だ。

 本当に。

 最低だと思う。

武元(何してるんやろな私)

 目を閉じる。

 熱いお湯が頬を流れていく。

 泣いているのか。

 シャワーなのか。

 もう分からなかった。

 でも。

 一つだけ分かる。

 ○○は怒らなかった。

 見捨てなかった。

 馬鹿にもしなかった。

 ただ。

 そこにいてくれた。

武元(何でなん)

 分からない。

 本当に。

 分からなかった。



 風呂から上がる。

 髪を拭きながらリビングへ戻る。

○○:「終わったか」

武元:「うん」

○○:「ドライヤーそこ」

武元:「お母さんかな?」

○○:「違う」

武元:「じゃあ何」

○○:「管理人」

武元:「家主やろ」

 少し笑う。

 ○○も少しだけ笑う。

 その空気が。

 少しだけ心地良かった。

 髪を乾かし終えた頃。

 ○○が立ち上がる。

○○:「寝るか」

武元:「せやな」

 そして。

 当然のように○○がソファへ向かう。

 唯衣が眉をひそめた。

武元:「待て」

○○:「ん?」

武元:「何でそっち」

○○:「我が家の最高級ソファ。一個しかないけどソファ」

武元:「見たら分かる」

○○:「じゃあ聞くな」

武元:「ベッドあるやん」

○○:「あるな」

武元:「使えや」

○○:「乙女をソファはまずいやろ」

武元:「いやいや」

○○:「いやいやじゃない」

 数秒。

 睨み合う。

 そして。

 唯衣がふっと笑った。

武元:「なあ」

○○:「何や」

 次の瞬間。

 ぐいっと胸元を掴まれた。

 不意を突かれた○○がバランスを崩す。

 そのままベッドへ倒れ込んだ。

○○:「うおっ!?」

武元:「……」

 顔が近い。

 呼吸が聞こえる距離。

 唯衣は黙ったまま見下ろしていた。

 でも。

 その目は挑発じゃない。

 どこか不安そうだった。

武元:「ほんまに?」

○○:「何が」

武元:「ほんまにダメなん?」

 静かな声。

 試しているようで。

 助けを求めているようでもあった。

 ○○は数秒黙る。

 そして。

 小さく笑った。

○○:「ダメだって言ってるだろ」

 怒らない。

 呆れない。

 ただ。

 優しく言う。

○○:「お前明日絶対後悔するぞ」

武元:「……」

○○:「だからダメ」

 そう言って。

 胸元を掴んでいた手をそっと外す。

 無理矢理じゃない。

 優しく。

 本当に優しく。

○○:「ほら」

○○:「今日はそこで寝ろ」

武元:「……」

○○:「おやすみ」

 そう言って立ち上がる。

 ドアの前まで歩く。

 そして。

 振り返る。

○○:「唯衣」

武元:「ん?」

○○:「おやすみ」

 それだけ言って。

 静かにドアが閉まった。



 暗くなった部屋。

 ベッドに横になる。

 天井を見つめる。

武元(最低やな)

 また思う。

 利用しようとした。

 傷付けようとした。

 それなのに。

 あの人は優しい。

武元(ほんま最低や)

 胸が痛かった。

 でも。

 不思議だった。

 さっきまであんなに苦しかったのに。

 今は少しだけ安心している。

 その事実が。

 余計に苦しかった。

 疲れが一気に押し寄せる。

 瞼が重い。

 気付けば意識が沈み始めていた。



 一方その頃。

 リビング。

 ソファへ腰を下ろした○○はスマホを開く。

 迷った末。

 あるグループを開いた。

『梨名』

『有美子』

 そして。

 短く送る。

○○
『起きてるか?』

 数秒後。

梨名
『起きてる』

有美子
『珍しいね』

 即返信だった。

○○
『唯衣に何かあったか知ってるか?』

 既読が付く。

 少し間が空く。

有美子
『何かって?』

梨名
『どういうこと?』

○○
『今うちにいる』

 既読。

 既読。

 そして。

梨名
『は?』

有美子
『は?』

 完全に同時だった。

○○:「だろうな……」

 思わず苦笑する。

 そこから事情を簡単に説明する。

 泣いていたこと。

 かなり精神的に参っていること。

 詳しいことは話していないこと。

 数分後。

梨名
『知らん』

有美子
『私も知らない』

梨名
『明日調べる』

有美子
『会社で聞いてみる』

○○
『頼むわ』

 送信する。

 スマホを閉じる。

 静かな部屋。

 視線は自然と廊下へ向いた。

 閉じられたドア。

 その向こうで。

 唯衣は眠っている。

○○(何があったんだよ)

 小さく息を吐く。

 知らない四年間。

 知らない恋愛。

 知らない人生。

 その全部は分からない。

 でも。

 今日見た顔だけは忘れられなかった。

 あんな顔。

 高校の頃ですら見たことがなかった。

○○(頼むから)

○○(もう少しだけ笑ってくれ)

 その願いだけを胸に。

 ○○は静かに目を閉じた。

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