浮気は用法容量を守って使用すること。
第一話
社会人二年目の春。
日付はとっくに変わっていた。
○○はネクタイを緩めながら玄関のドアを閉める。
○○:「……疲れた」
思わず声が漏れた。
残業。
上司からの修正。
取引先からの電話。
気付けば終電間際だった。
冷蔵庫を開く。
何もない。
○○:「終わってんな」
棚からカップ麺を取り出す。
お湯だけ沸かそう。
そう思った時だった。
ピンポーン。
部屋にチャイムが鳴った。
○○:「……?」
時計を見る。
午前0時46分。
宅配ではない。
友人とも約束していない。
少しだけ警戒しながらインターホンを覗く。
そして。
固まった。
○○:「は……?」
画面に映る顔。
見間違えるはずがなかった。
慌てて玄関を開ける。
夜風が吹き込む。
街灯の下。
そこに立っていたのは。
武元:「よっ」
武元唯衣だった。
高校時代の同級生。
そして。
人生で一番好きだった人。
○○:「……何してんだ」
武元:「終電逃した」
○○:「嘘つけ」
武元:「即否定やん」
○○:「顔」
武元:「顔?」
○○:「終電逃した奴の顔ちゃう」
武元:「そんなもん顔で分かるか?」
○○:「分かる」
武元:「超能力者か」
○○:「少なくともお前は違う」
武元:「失礼やな」
○○:「お前こそ何年ぶりやと思ってんねん」
武元:「三年?」
○○:「四年近い」
武元:「そんな経った?」
○○:「経った」
武元:「うわぁ……」
○○:「うわぁじゃない」
武元:「社会人怖」
○○:「そこじゃない」
少しだけ笑う。
その顔を見て。
○○は胸の奥がざわついた。
懐かしい。
あまりにも。
懐かしい。
けれど。
昔みたいに笑っているようで。
どこか違った。
○○:「入れよ」
武元:「ええの?」
○○:「ここまで来といて今さら聞くな」
武元:「優しいなぁ」
○○:「知ってる」
武元:「自分で言う?」
○○:「お前が言うからやろ」
武元:「昔から変わらん」
○○:「どっちが」
武元:「そういうとこ」
唯衣は靴を脱ぐ。
部屋へ上がる。
そしてリビングを見回した。
武元:「あー」
○○:「何や」
武元:「○○の部屋や」
○○:「俺の部屋だからな」
武元:「いやなんか」
武元:「想像通り」
○○:「来たことないやろ」
武元:「雰囲気」
○○:「分かるか」
武元:「分かる」
○○:「何で」
武元:「知らん」
○○:「適当やな」
武元:「でも何か○○っぽい」
そう言って。
唯衣はソファへ腰を下ろした。
その姿が妙に自然だった。
まるで昔から知っている場所みたいに。
○○はキッチンへ向かう。
○○:「腹減った」
武元:「急やな」
○○:「お前も食うか」
武元:「食う」
○○:「遠慮しろ」
武元:「お腹空いた」
○○:「何食べた今日」
武元:「朝」
○○:「今何時やと思ってんねん」
武元:「知らん」
○○:「知れ」
武元:「忙しかったんよ」
○○:「だからって食わん理由にならん」
武元:「母親みたいなこと言うな」
○○:「誰のせいや」
武元:「高校の時も言われたなぁ」
○○:「お前昼飯抜くからや」
武元:「懐かしい」
○○:「全然懐かしくない」
お湯を沸かす。
カップ麺を二つ並べる。
その様子を見ながら。
唯衣がふっと笑った。
武元:「まだそれ食べとるんや」
○○:「何が」
武元:「醤油ラーメン」
○○:「うまいからな」
武元:「高校の帰りも食べとった」
○○:「安かったからな」
武元:「夢ないな」
○○:「現実的と言え」
武元:「相変わらずや」
○○:「お前もな」
武元:「どこが」
○○:「人の飯を当然みたいに食うところ」
武元:「ちゃんと許可取ってる」
○○:「取る前から座ってたやろ」
武元:「細かい」
○○:「図々しい」
武元:「褒め言葉やな」
○○:「違う」
思わず吹き出した。
唯衣も笑う。
高校時代みたいに。
本当に。
少しだけ。
昔に戻ったみたいだった。
テーブルを挟んで座る。
カップ麺から湯気が立ち上る。
深夜一時過ぎ。
普通ならもう寝ている時間だった。
武元:「いただきます」
○○:「どうぞ」
武元:「どうぞって」
○○:「人の飯だからな」
武元:「ケチ」
○○:「事実」
武元:「高校の時もっと優しかった」
○○:「気のせい」
武元:「気のせいちゃう」
○○:「じゃあ証拠出せ」
武元:「放課後毎回ジュース奢ってくれた」
○○:「お前が勝手についてきてただけやろ」
武元:「でも買ってくれた」
○○:「断ると面倒だった」
武元:「ひど」
○○:「事実だろ」
武元:「今ならハラスメントやな」
○○:「何ハラだよ」
武元:「武元ハラ」
○○:「聞いたことない」
武元:「今作った」
くだらない。
本当にくだらない話だった。
でも。
その時間が妙に心地良かった。
高校の頃もそうだった。
特に意味のない話をして。
気付けば日が暮れていた。
そんなことを思い出す。
武元:「なあ」
○○:「ん?」
武元:「社会人どう?」
○○:「急やな」
武元:「いいから」
○○:「しんどい」
武元:「即答やん」
○○:「お前は?」
武元:「しんどい」
○○:「即答やん」
目が合う。
少しだけ笑う。
けれど。
その笑顔は長く続かなかった。
武元:「高校の時さ」
武元:「大人になったらもっと楽やと思っとった」
○○:「俺も」
武元:「嘘やろ」
○○:「本当」
武元:「夢ないなあ」
○○:「現実知っただけだ」
武元:「嫌やなその言い方」
○○:「大人だからな」
武元:「出た」
○○:「何が」
武元:「社会人ぶるやつ」
○○:「二年目やぞ」
武元:「私もや」
○○:「そうだった」
武元:「忘れんな」
○○:「学生みたいな顔してるから」
武元:「喧嘩売っとる?」
○○:「事実言っただけ」
唯衣が箸を向ける。
○○が避ける。
昔と同じ。
変わらないやり取り。
なのに。
何故だろう。
少しだけ胸が痛かった。
高校の頃は。
こんな時間が当たり前だった。
でも今は違う。
四年。
会わなかった時間がある。
互いの知らない日々がある。
それぞれの人生がある。
武元:「○○はさ」
○○:「ん?」
武元:「彼女おるん?」
少しだけ驚いた。
○○:「いない」
武元:「意外」
○○:「何で」
武元:「モテそうやん」
○○:「お前だけだぞそんなこと言うの」
武元:「付き合ったことは?」
○○:「ある」
武元:「へぇ」
○○:「何だその反応」
武元:「いや」
武元:「ちゃんと恋愛してたんやなって」
○○:「失礼すぎるだろ」
武元:「あはは」
笑う。
笑うけれど。
どこか寂しそうだった。
○○:「お前は」
武元:「ん?」
○○:「どうなん」
その瞬間だった。
ほんの少しだけ。
唯衣の動きが止まる。
本当に一瞬。
でも。
○○は見逃さなかった。
武元:「私?」
○○:「うん」
武元:「まぁ」
武元:「色々やな」
○○:「便利な言葉やな」
武元:「便利やろ」
○○:「便利すぎる」
武元:「大人やからな」
○○:「使い方間違ってる」
笑う。
笑っている。
でも。
何かがおかしい。
高校時代から知っている。
唯衣は。
本当に辛い時ほど笑う。
誤魔化す。
隠す。
冗談にする。
そして。
誰にも頼らない。
だから。
○○もそれ以上聞かなかった。
聞けば話す気がした。
でも。
今はまだ違う気がした。
しばらく沈黙が流れる。
二人とも麺をすする。
深夜の部屋。
エアコンの低い駆動音だけが耳に残る。
その時だった。
ぽた。
小さな音。
最初は気付かなかった。
でも。
二滴目で分かった。
カップの中へ。
透明な雫が落ちていた。
○○:「……唯衣」
返事はない。
ぽた。
また一滴。
落ちる。
湯気の向こうで、唯衣は俯いていた。
長い前髪の隙間から零れた涙が、熱いスープの表面に波紋を広げる。
肩が小さく震えていた。
箸を握る指先にも力が入っていて、白くなっている。
泣いている。
声も出さずに。
必死に堪えながら。
ただ。
静かに。
けれどその静けさが、胸を締め付けるほど痛かった。
エアコンの音に混じって、かすかな息を飲む音が聞こえる。
震える呼吸。
押し殺された嗚咽。
○○の喉も、急に詰まったように苦しくなる。
何かあったのだと分かっていた。
辛かったのだと気付いていた。
それなのに、自分はずっと見ないふりをしていたのかもしれない。
笑っているから大丈夫だと。
いつもの唯衣だから平気だと。
勝手に思い込んでいた。
違った。
目の前の唯衣はずっと限界だったのだ。
その事実が、遅れて胸の奥に突き刺さる。
四年の空白。
知らなかった日々。
知らなかった想い。
知らなかった涙。
こんなにも近くにいるのに、何一つ分かっていなかった。
胸の奥が熱くなり、指先がわずかに震える。
○○は何か言おうとして、言葉を失った。
ただ、唯衣から目を離せなかった。
○○はゆっくり立ち上がった。
何か言わなきゃと思った。
大丈夫か。
何があった。
話せよ。
そんな言葉はいくらでも浮かぶ。
でも。
どれも違う気がした。
高校の頃から知っている。
唯衣は。
話したくない時に聞かれるのが嫌いだ。
話したい時は勝手に話す。
だから。
○○は何も聞かなかった。
ただ。
唯衣の隣へ移動する。
ソファに腰を下ろす。
肩が触れそうな距離。
でも。
何も言わない。
数秒。
数十秒。
静かな時間が流れる。
重たい沈黙の中で、唯衣の浅い呼吸だけがかすかに耳に届く。
ぽた。
また涙が落ちる。
今度は隠しもしなかった。
武元:「……っ」
小さく息を吸う音。
肩が細かく震えている。
握り締めた指先は白くなり、体温が逃げていくように冷えていた。
そして。
限界だった。
武元:「ぅ……」
嗚咽が漏れる。
一度漏れたらもう止まらなかった。
武元:「っ……」
武元:「ぁ……」
涙が溢れる。
必死に口元を押さえる。
それでも。
抑えきれない。
呼吸は乱れ、喉の奥で詰まるような音がする。
○○は黙ったまま背中へ手を置いた。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
昔と同じように。
高校の頃。
唯衣が部活で負けた日も。
受験で落ち込んでいた日も。
こうして背中をさすった。
言葉なんてなかった。
ただ隣にいただけだった。
掌越しに伝わる背中は強張っていて、震えが止まらない。
唯衣の肩が大きく震える。
武元:「……ごめん」
やっと出た言葉。
かすれた声。
○○:「謝るな」
武元:「でも……」
○○:「謝るなよ」
それ以上は言わせなかった。
唯衣は唇を噛む。
震える息を何度も飲み込もうとして。
そして。
ぽろりと零した。
武元:「しんどかってん」
その一言だった。
たったそれだけ。
でも。
○○の胸は締め付けられた。
高校時代。
唯衣は滅多に弱音を吐かなかった。
負けず嫌いで。
意地っ張りで。
笑って誤魔化す人だった。
そんな唯衣が。
しんどい。
そう言った。
それだけで十分だった。
○○:「うん」
武元:「頑張ったんよ」
○○:「うん」
武元:「ちゃんと頑張った」
○○:「そうだろうな」
武元:「仕事も」
武元:「恋愛も」
武元:「ちゃんとやってた」
○○:「うん」
武元:「なのになぁ……」
そこで言葉が切れる。
また涙が溢れる。
熱い雫が頬を伝い、膝の上へ落ちていく。
○○は何も聞かない。
聞けない。
多分。
今の唯衣が欲しいのは答えじゃない。
吐き出す場所だ。
それだけは分かった。
武元:「私な」
武元:「大人になったらもっと上手くやれると思っとった」
武元:「高校の時みたいに失敗せんと思っとった」
武元:「ちゃんと幸せになれると思っとった」
震える声。
切れ切れの言葉。
それでも。
息を継ぐたびに胸が苦しそうに上下しながら。
一つずつ零れていく。
武元:「でも」
武元:「全然上手くいかへん」
武元:「何でなんやろ」
武元:「何が悪かったんやろ」
○○は目を閉じる。
分からない。
何があったかも。
何を失ったのかも。
何に傷付いたのかも。
でも。
一つだけ分かった。
この人は。
本当に限界だった。
だから。
○○は静かに言う。
○○:「唯衣」
名前を呼ぶ。
高校以来かもしれない。
自然に名前を呼んだのは。
唯衣が少しだけ顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
目元は赤く腫れ、呼吸はまだ不安定だった。
それでも。
○○は目を逸らさなかった。
○○:「今日はもう頑張らなくていい」
その瞬間だった。
唯衣の表情が崩れた。
堪えていたものが。
全部。
壊れた。
武元:「っ……」
武元:「ぅあ……」
泣き声が漏れる。
子供みたいに。
みっともなく。
ぐしゃぐしゃに。
肩を震わせ、息もまともに吸えないまま。
泣き続ける。
○○は何も言わない。
ただ隣にいる。
背中をさする。
それだけだった。
でも。
今の唯衣には。
それだけで十分だった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気付けば。
唯衣は泣き疲れていた。
肩から力が抜ける。
荒れていた呼吸も少しずつ落ち着いていく。
泣いたせいで体温が上がったのか、もたれかかる身体はほんのり温かかった。
そして。
○○の肩にもたれかかったまま。
静かに目を閉じた。
寝息が聞こえる。
眠ってしまったらしい。
○○:「……」
○○は動かなかった。
動けなかった。
肩越しに伝わる穏やかな呼吸のリズムを感じながら。
眠る唯衣を見る。
高校時代から。
ずっと特別だった人。
でも。
もう終わったと思っていた人。
その人が今。
自分の肩で眠っている。
視線を落とす。
髪が頬にかかっていた。
そっと払おうとして。
途中で手を止めた。
静かな部屋に、規則正しい寝息だけが残る。
時計の針が進む音がやけに大きく聞こえた。
この夜が明けたら。
何かが変わるのか。
それとも何も変わらないのか。
答えはどこにもなかった。
○○はただ、眠る唯衣の重みを肩に感じながら。
窓の向こうの暗闇を見つめていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気付けば時計は二時を回っていた。
肩にもたれたままの唯衣は完全に眠っている。
泣き疲れたのだろう。
目元は少し赤い。
それでも。
さっきまでの苦しそうな表情は消えていた。
○○:「……困ったな」
小さく呟く。
当然返事はない。
昔からだった。
泣く時は派手に泣くくせに。
まるで世界の終わりみたいに声を上げて、息ができなくなるまで泣く。
泣きながら「もう無理や」「全部終わりや」なんて大げさなことを言って。
それでも。
泣き終わった途端、糸が切れたみたいに眠る。
高校の頃もそうだった。
文化祭の準備で揉めた時も。
部活で負けた時も。
声が枯れるまで泣いて。
最後はどこかで寝落ちしていた。
変わらない。
本当に。
昔から何も変わっていない。
けれど今は、その変わらなさが妙に胸に引っかかった。
○○:「起きろ」
武元:「……」
○○:「唯衣」
武元:「んぅ……」
○○:「風呂」
武元:「やだ」
○○:「子供か」
武元:「眠い」
○○:「知ってるけど、風邪ひくぞ」
武元:「五分」
○○:「信用できんな」
武元:「十五分」
○○:「さらに増えたな」
少しだけ笑う。
唯衣も目を擦りながら起き上がる。
武元:「……ごめん」
○○:「何が」
武元:「泣いたこと」
○○:「気にせんでええ」
武元:「迷惑かけた」
○○:「そんなもんじゃない」
武元:「怒ってる?」
○○:「怒ってない」
武元:「ほんま?」
○○:「ほんまや。怒る理由もないし」
唯衣は少しだけ黙る。
そして。
ぽつりと言った。
武元:「優しいな」
○○:「今さらか」
武元:「今さらや」
○○:「昔からそうやろ」
武元:「せやったな」
少しだけ。
本当に少しだけ。
唯衣が笑った。
さっきまでの無理した笑顔じゃない。
力の抜けた笑顔だった。
それを見て。
○○は胸の奥で安堵する。
良かった。
そう思った。
少なくとも。
少しは吐き出せたのだろうと。
そう考えていた。
だから。
次の言葉は完全に予想外だった。
武元:「なあ」
○○:「ん?」
武元:「私と浮気せぇへん?」
思考が止まった。
数秒。
本当に数秒。
意味が分からなかった。
耳がおかしくなったのかと思った。
聞き間違いだと。
そうであってくれと。
一瞬、本気で願った。
○○:「……は?」
武元:「だから」
武元:「浮気」
○○:「言葉の意味は分かる」
○○:「分かるけど」
○○:「何言い出してんだ」
心臓が嫌な音を立てる。
冗談なら笑って流せる。
酔った勢いなら叱ればいい。
けれど、今の唯衣は酒も入っていない。
泣き疲れて、弱っていて、それでも妙に落ち着いていた。
そのことが逆に怖かった。
武元:「そのままやん」
○○:「そのまま言うな」
武元:「嫌?」
嫌かどうか。
そんな単純な話じゃない。
頭の中に様々な考えが一気に押し寄せる。
ここで強く否定したらどうなる。
突き放したら。
傷付けたら。
逆に曖昧な返事をしたら。
受け止めるような態度を見せたら。
どちらも駄目な気がした。
何を選んでも間違える予感がして、喉がひどく乾く。
○○:「そういう話じゃない」
武元:「ほな、どういう話?」
唯衣は笑っていた。
でも。
その笑顔を見た瞬間。
○○は理解する。
違う。
これは冗談じゃない。
恋愛でもない。
誘惑でもない。
もっと危うい何かだ。
崖の縁に立ちながら。
平気な顔で手を振っているような。
そんな危うさ。
今まで見たことがないくらい。
唯衣が壊れかけている。
背筋が冷えた。
もしここで言葉を間違えたら。
もし目の前のSOSを見誤ったら。
唯衣は本当に戻れない場所まで落ちてしまうかもしれない。
そんな根拠のない恐怖が胸を締め付ける。
武元:「私さ」
武元:「もう疲れたんよ」
静かな声だった。
泣いていた時より。
むしろ静かだった。
静かすぎて。
かえって嫌な予感がした。
武元:「頑張るの」
武元:「ちゃんとするの」
武元:「期待するの」
武元:「信じるのも」
武元:「全部」
笑う。
でも。
目だけが笑っていない。
その目はどこか遠くを見ていた。
武元:「だからさ」
武元:「一緒に落ちぶれへん?」
武元:「どうせもうあかんのやったら」
武元:「誰かの一番じゃなくてもええから」
武元:「都合のええ女でもええから」
武元:「もう傷付かん場所に行きたいねん」
ぞっとした。
浮気の誘いなんかじゃない。
自分を投げ捨てるための言葉だった。
価値がないと決めつけて。
傷付く前に自分から壊れようとしている。
○○は何も言えなかった。
胸の奥が冷たくなる。
高校時代から知っている。
唯衣は強い。
強い人だ。
だから。
本当に限界になると。
誰より危ない。
何もかも投げ捨てる覚悟だけは。
昔から妙に早かった。
今目の前にいるのは。
失恋した武元唯衣じゃない。
全部に疲れ切った武元唯衣だった。
そして。
○○はようやく気付く。
この人は今。
慰めが欲しいんじゃない。
必死に誰かへ手を伸ばしている。
それも。
誰にも気付かれないように。
笑いながら。
だから。
ここで絶対に間違えちゃいけない。
一歩踏み外せば。
取り返しがつかない気がした。
どう答えるべきか分からない。
優しくするだけでは駄目だ。
突き放すだけでも駄目だ。
助けたい。
でも、助け方を間違えれば傷を深くする。
その迷いが胸の中で渦を巻く。
それでも。
逃げるわけにはいかなかった。
今ここで目を逸らしたら、一生後悔する気がした。
そう思った。
そして静かに息を吐く。
目の前の彼女から。
もう目を逸らさないと決めた。
静かに息を吐く。
何が正解かなんて分からなかった。
励ませる自信もない。
上手い言葉も知らない。
昔からそうだ。
梨名みたいに器用じゃない。
有美子みたいに人の心を読むのも得意じゃない。
でも。
放っておけなかった。
それだけだった。
○○:「浮気はせん」
武元:「即答やん」
○○:「する理由がない」
武元:「私傷付いてるんやけど」
○○:「知るか」
武元:「ひど」
少しだけ。
唯衣が笑う。
その顔を見て。
少しだけ安心する。
○○:「でもさ」
武元:「ん?」
○○:「別に急いで出ていかんでええぞ」
武元:「……」
○○:「俺彼女おらんし、部屋も余っとる」
武元:「……」
○○:「飯も一人分も二人分も大して変わらん」
武元:「雑な理由やな」
○○:「洗い物は増えるけどな」
武元:「やっぱ追い出される?」
○○:「その時は皿洗い担当になれ」
唯衣が吹き出す。
本当に少しだけ。
さっきより自然に。
○○:「だから」
○○:「好きなだけおれ」
武元:「……」
○○:「立ち直るまででもいいし」
○○:「次の部屋見つかるまででもいい」
○○:「何なら追い出されるまででもいい」
武元:「ここ○○の家やろ」
○○:「そうだった」
沈黙。
静かな時間。
唯衣は俯く。
その横顔は見えない。
でも。
肩が少しだけ震えていた。
○○:「唯衣」
武元:「ん」
○○:「一人で抱えんなよ」
説教じゃない。
励ましでもない。
ただの本音。
○○:「正直何が出来るか分からん」
○○:「でも、頼られるくらいなら出来る」
唯衣は何も言わない。
○○:「昔から散々世話になったし」
武元:「……なったっけ」
○○:「なった」
武元:「覚えてへん」
○○:「俺は覚えてる」
それだけ言う。
本当は。
放課後も。
帰り道も。
何気ない会話も。
全部覚えている。
でも。
今は言わない。
そんな話をする時じゃない。
○○:「だから」
○○:「今くらい頼れ」
○○:「それでチャラにしてくれ」
唯衣はしばらく黙ったままだった。
やがて。
小さく笑う。
泣きそうな顔で。
でも。
さっきより少しだけ温かい顔で。
武元:「……何それ」
○○:「恩返し」
武元:「恩なんかないやろ」
○○:「ある」
武元:「まだ言うんか」
○○:「認めるまでな」
武元:「めんどくさ」
○○:「お前が始めたんだろ」
そのやり取りが。
少しだけ。
高校の頃みたいだった。
戻れないはずの時間が、ほんの一瞬だけそこにあった気がした。
浴室のドアが閉まる。
シャワーの音が聞こえ始めた。
○○は一人、リビングに残る。
深夜二時過ぎ。
さっきまで騒がしかった部屋が妙に静かだった。
○○:「……」
ため息をつく。
正直。
何が正解だったのか分からない。
あれで良かったのかも分からない。
でも。
あのまま頷くのだけは違うと思った。
それだけだった。
⸻
温かいお湯が肩を流れる。
武元唯衣は俯いたまま目を閉じた。
静かだ。
さっきまであれだけ泣いていたのに。
今は不思議なくらい静かだった。
武元(最低やな)
思う。
何度も。
何度も。
頭の中で繰り返す。
○○なら受け入れてくれると思った。
○○なら否定しないと思った。
○○なら一緒に落ちてくれると思った。
そんなことを考えていた。
最低だ。
本当に。
最低だと思う。
武元(何してるんやろな私)
目を閉じる。
熱いお湯が頬を流れていく。
泣いているのか。
シャワーなのか。
もう分からなかった。
でも。
一つだけ分かる。
○○は怒らなかった。
見捨てなかった。
馬鹿にもしなかった。
ただ。
そこにいてくれた。
武元(何でなん)
分からない。
本当に。
分からなかった。
⸻
風呂から上がる。
髪を拭きながらリビングへ戻る。
○○:「終わったか」
武元:「うん」
○○:「ドライヤーそこ」
武元:「お母さんかな?」
○○:「違う」
武元:「じゃあ何」
○○:「管理人」
武元:「家主やろ」
少し笑う。
○○も少しだけ笑う。
その空気が。
少しだけ心地良かった。
髪を乾かし終えた頃。
○○が立ち上がる。
○○:「寝るか」
武元:「せやな」
そして。
当然のように○○がソファへ向かう。
唯衣が眉をひそめた。
武元:「待て」
○○:「ん?」
武元:「何でそっち」
○○:「我が家の最高級ソファ。一個しかないけどソファ」
武元:「見たら分かる」
○○:「じゃあ聞くな」
武元:「ベッドあるやん」
○○:「あるな」
武元:「使えや」
○○:「乙女をソファはまずいやろ」
武元:「いやいや」
○○:「いやいやじゃない」
数秒。
睨み合う。
そして。
唯衣がふっと笑った。
武元:「なあ」
○○:「何や」
次の瞬間。
ぐいっと胸元を掴まれた。
不意を突かれた○○がバランスを崩す。
そのままベッドへ倒れ込んだ。
○○:「うおっ!?」
武元:「……」
顔が近い。
呼吸が聞こえる距離。
唯衣は黙ったまま見下ろしていた。
でも。
その目は挑発じゃない。
どこか不安そうだった。
武元:「ほんまに?」
○○:「何が」
武元:「ほんまにダメなん?」
静かな声。
試しているようで。
助けを求めているようでもあった。
○○は数秒黙る。
そして。
小さく笑った。
○○:「ダメだって言ってるだろ」
怒らない。
呆れない。
ただ。
優しく言う。
○○:「お前明日絶対後悔するぞ」
武元:「……」
○○:「だからダメ」
そう言って。
胸元を掴んでいた手をそっと外す。
無理矢理じゃない。
優しく。
本当に優しく。
○○:「ほら」
○○:「今日はそこで寝ろ」
武元:「……」
○○:「おやすみ」
そう言って立ち上がる。
ドアの前まで歩く。
そして。
振り返る。
○○:「唯衣」
武元:「ん?」
○○:「おやすみ」
それだけ言って。
静かにドアが閉まった。
⸻
暗くなった部屋。
ベッドに横になる。
天井を見つめる。
武元(最低やな)
また思う。
利用しようとした。
傷付けようとした。
それなのに。
あの人は優しい。
武元(ほんま最低や)
胸が痛かった。
でも。
不思議だった。
さっきまであんなに苦しかったのに。
今は少しだけ安心している。
その事実が。
余計に苦しかった。
疲れが一気に押し寄せる。
瞼が重い。
気付けば意識が沈み始めていた。
⸻
一方その頃。
リビング。
ソファへ腰を下ろした○○はスマホを開く。
迷った末。
あるグループを開いた。
『梨名』
『有美子』
そして。
短く送る。
○○
『起きてるか?』
数秒後。
梨名
『起きてる』
有美子
『珍しいね』
即返信だった。
○○
『唯衣に何かあったか知ってるか?』
既読が付く。
少し間が空く。
有美子
『何かって?』
梨名
『どういうこと?』
○○
『今うちにいる』
既読。
既読。
そして。
梨名
『は?』
有美子
『は?』
完全に同時だった。
○○:「だろうな……」
思わず苦笑する。
そこから事情を簡単に説明する。
泣いていたこと。
かなり精神的に参っていること。
詳しいことは話していないこと。
数分後。
梨名
『知らん』
有美子
『私も知らない』
梨名
『明日調べる』
有美子
『会社で聞いてみる』
○○
『頼むわ』
送信する。
スマホを閉じる。
静かな部屋。
視線は自然と廊下へ向いた。
閉じられたドア。
その向こうで。
唯衣は眠っている。
○○(何があったんだよ)
小さく息を吐く。
知らない四年間。
知らない恋愛。
知らない人生。
その全部は分からない。
でも。
今日見た顔だけは忘れられなかった。
あんな顔。
高校の頃ですら見たことがなかった。
○○(頼むから)
○○(もう少しだけ笑ってくれ)
その願いだけを胸に。
○○は静かに目を閉じた。
