浮気は用法容量を守って使用すること。
第五話
「好きだから」
月曜日。
朝。
○○:「唯衣」
武元:「……」
○○:「唯衣」
武元:「……」
○○:「起きろ」
武元:「……」
○○:「会社」
武元:「休む」
○○:「有給残ってへんやろ」
武元:「ちっ」
○○:「舌打ちすな」
布団を頭まで被る。
現実逃避だった。
目を閉じてしまえば、昨日のこともなかったことになる気がした。
でも。
そんな都合のいいことがあるはずもない。
昨日。
気付いてしまった。
認めてしまった。
自分が○○を好きだということを。
だから顔を見たくなかった。
見たらまた好きになる。
声を聞いたら。
笑った顔を見たら。
きっともっと好きになる。
そんなの分かりきっていた。
⸻
朝食。
テーブル。
○○:「今日雨やで」
武元:「ふーん」
○○:「傘」
武元:「持ってる」
○○:「絶対忘れる」
武元:「忘れへん」
○○:「ほい」
玄関へ置いてあった傘を渡される。
武元:「……」
○○:「何」
武元:「子供ちゃうぞ」
○○:「高校の時めっちゃ忘れてたやん」
武元:「覚えてんの?」
○○:「そら、毎回取られてましたからね傘」
当たり前みたいに言う。
何でもないことみたいに。
でも。
胸がぎゅっと締め付けられた。
高校の頃のことなんて。
そんな細かいことまで覚えているんだ。
自分は覚えているだろうか。
○○が何回傘を忘れたか。
どんな授業で寝ていたか。
どんな顔で笑っていたか。
――覚えている。
全部ではないけれど。
覚えている。
好きだったから。
ずっと見ていたから。
だから余計に苦しかった。
そんな顔しないでほしい。
そんな風に優しくしないでほしい。
期待してしまうから。
勘違いしてしまうから。
好きになってしまうから。
⸻
会社。
昼休み。
スマホが震える。
○○
『牛乳無くなってた』
武元
『知ってる』
○○
『帰り買っとく』
武元
『自分で買う』
○○
『どうせスーパー寄るし』
武元
『了解』
短いやり取り。
たったそれだけ。
なのに。
画面を見つめたまま動けなくなる。
牛乳が無くなったことを知っている。
帰りに買うつもりだった。
でも○○は先に気付いていた。
そして当然みたいに買ってくると言う。
まるで。
一緒に暮らしているのが当たり前みたいに。
これからもそうするつもりみたいに。
武元:「……」
駄目だ。
本当に駄目だ。
こんなの。
好きになるに決まっている。
でも分かっている。
○○は何も考えていない。
特別な意味なんてない。
昔からそうだった。
困っていたら助ける。
気付いたら動いている。
誰に対しても優しい。
そういう人だ。
だから好きになった。
だから苦しい。
もしこれが特別だったなら。
少しは期待できたのに。
⸻
夜。
○○:「ただいま」
武元:「おかえり」
○○:「牛乳」
武元:「ありがとう」
○○:「あとヨーグルト」
武元:「頼んでない」
○○:「食うやろ」
武元:「食う」
○○:「せやろ?さすが俺」
袋から取り出されたヨーグルト。
いつも自分が買うやつだった。
何も言っていないのに。
何も頼んでいないのに。
ちゃんと分かっている。
自然だった。
あまりにも自然だった。
まるで夫婦みたいだと。
一瞬そんな言葉が頭をよぎって。
武元:「っ……」
慌てて打ち消す。
何考えてるんやろ。
そんなわけないのに。
そんな関係じゃないのに。
でも。
こういう何気ない瞬間ほど。
幸せだと思ってしまう。
だから怖かった。
失うのが怖かった。
⸻
洗濯物を畳む。
休日。
リビング。
テレビの音。
ソファの上には○○。
ゲームをしている。
○○:「あ」
武元:「ん?」
○○:「それ俺の」
武元:「知ってる」
シャツを渡す。
一瞬。
指が触れた。
たったそれだけ。
本当にそれだけなのに。
心臓が跳ねる。
武元:「っ」
○○:「?」
武元:「何でもない」
○○:「そうか」
何でもない顔。
本当に何でもない顔。
触れたことすら気にしていない。
こっちだけだ。
こんなに意識しているのは。
こんなに苦しいのは。
前までは平気だった。
隣に座るのも。
肩が触れるのも。
同じ空間にいるのも。
全部普通だった。
なのに今は違う。
全部が特別になってしまった。
全部が嬉しくて。
全部が苦しい。
⸻
夜。
ベランダ。
洗濯物が揺れる。
○○のシャツ。
自分の服。
並んでいる。
その光景を見て。
胸が締め付けられた。
生活が混ざっている。
当たり前みたいに。
自然に。
いつからだろう。
帰れば○○がいるのが普通になったのは。
ご飯を作るのが普通になったのは。
おかえりと言うのが普通になったのは。
武元:「……」
出て行かなあかん。
ぽつりと思う。
このままは駄目だ。
好きだから。
好きになってしまったから。
これ以上ここにいたら。
もっと好きになる。
もっと離れられなくなる。
だから。
ちゃんと出て行かなきゃいけない。
○○は悪くない。
何も悪くない。
むしろ助けてもらった。
失恋して。
行き場がなくなって。
そんな自分を受け入れてくれた。
優しくしてくれた。
支えてくれた。
なのに。
その優しさに甘えて。
今度は○○を好きになっている。
そんな自分が嫌だった。
昨日まで別の人を好きだったくせに。
振られて。
傷付いて。
泣いていたくせに。
今度は○○を見て胸を高鳴らせている。
そんなの。
あまりにも都合が良すぎる。
あまりにも勝手すぎる。
だから。
この気持ちは言えない。
言ってはいけない。
そう思った。
⸻
その日の夜。
晩ご飯を食べ終えた後。
食器を片付けながら。
何度も迷った。
言うべきか。
やめるべきか。
でも。
言わなければ前に進めない気がした。
武元:「なぁ」
○○:「ん?」
武元:「そろそろ」
一度言葉が詰まる。
喉の奥が苦しい。
言いたくない。
本当はずっとここにいたい。
でも。
それじゃ駄目だから。
武元:「部屋探そうと思う」
箸を置く音。
静かな部屋に小さく響いた。
○○が顔を上げた。
○○:「急やな」
武元:「まぁ」
○○:「何で」
武元:「何でって」
○○:「まだ探さんでもええやろ」
あっさりと言う。
本当に。
何でもないことみたいに。
その言葉に。
胸の奥がじくりと痛んだ。
探したい訳じゃない。
むしろ探したくない。
ここを出たい訳でもない。
出たくないから困っているのだ。
武元:「でも」
○○:「追い出してへんし」
武元:「……」
○○:「家賃もまだ払わせてへんし」
武元:「それは払うって言うてるやん」
○○:「いや、なんかダサいやん漢だか…」
武元:「聞け」
○○:「はいっ。」
いつもの調子。
いつもの会話。
いつもの○○。
高校の頃から変わらない。
気付けば隣にいて。
気付けば助けてくれて。
気付けば笑わせてくれる。
だから。
好きになった人に振られた時も。
真っ先に頼ってしまった。
そして今。
その優しさに甘え続けた結果。
別の意味で好きになってしまった。
最低だ。
そう思う。
昨日まで別の人を見ていたくせに。
今度は○○を見ている。
そんな自分が嫌だった。
○○:「別に焦る理由ないやろ」
武元:「……」
○○:「……そしたら来週の休みでええか?」
○○:「その時一緒に探そうや」
一緒に。
その言葉が妙に嬉しくて。
嬉しいと思ってしまった自分に。
また嫌気が差した。
自然だった。
あまりにも自然だった。
まるで。
来週も一緒にいるのが当たり前みたいに。
来月も。
その先も。
ずっと。
そんな未来を想像してしまう自分がいた。
⸻
そして。
翌週の土曜日。
不動産屋。
駅前。
快晴。
○○:「暑い」
武元:「五月やぞ」
○○:「暑いもんは暑い」
武元:「子供か」
○○:「大人やもん」
武元:「自分で言うな」
相変わらずだった。
不動産屋へ向かう途中も。
内見の間も。
ずっと。
隣を歩く距離感も。
話すテンポも。
何も変わらない。
変わってしまったのは。
自分だけだった。
前なら何とも思わなかった横顔を。
今は無意識に見てしまう。
笑う顔を見るだけで。
胸が少しだけ温かくなる。
そんな自分が怖かった。
⸻
最初の物件。
○○:「ええやん」
武元:「そう?」
○○:「駅近い」
武元:「うん」
○○:「会社近い」
武元:「うん」
○○:「スーパーある」
武元:「うん」
○○:「何が不満なん」
武元:「……別に」
決められない。
理由は分かっている。
部屋が悪いんじゃない。
立地でもない。
家賃でもない。
問題は。
そこに○○がいないことだった。
仕事から帰っても。
リビングに灯りはない。
おかえりと言う相手もいない。
休日に洗濯物を畳みながら。
くだらない話をする相手もいない。
そんな生活を想像すると。
妙に寂しかった。
たった数週間。
一緒に暮らしただけなのに。
もうそれが当たり前になり始めている。
⸻
二件目。
三件目。
四件目。
どこも悪くない。
むしろ良い。
でも。
決められない。
○○:「難航しとるな」
武元:「そうやな」
○○:「珍しい」
武元:「何が」
○○:「唯衣優柔不断やったっけ」
武元:「失礼やな」
○○:「即決タイプやろ」
武元:「まぁ」
○○:「じゃあ何でや」
聞かないでほしかった。
そんなこと。
答えられるはずがない。
言える訳がない。
あなたと離れたくないから。
そんな理由。
絶対に言えない。
⸻
昼。
駅前のカフェ。
休憩。
○○:「俺は二件目」
武元:「早」
○○:「普通に良かったやん」
武元:「まぁ」
○○:「会社近いし」
武元:「うん」
○○:「俺ん家からも近いし」
その言葉に。
胸が跳ねる。
反射みたいに。
期待してしまう。
○○:「飯食い来るのも楽やろ」
武元:「……」
○○:「あそこラーメン屋も近いし」
武元:「……」
○○:「何なら洗濯機壊れたら来ればええし」
笑う。
何でもない顔で。
○○:「困ったらまた来ればええやん」
○○:「今まで通り」
今まで通り。
その言葉が。
胸に刺さる。
今まで通りなんて。
出来る訳ないのに。
私は。
もう。
今まで通りじゃないのに。
あなたの家に行く理由を探してしまう。
連絡が来るだけで嬉しくなる。
隣にいるだけで安心する。
そんな状態で。
どうやって今まで通りでいられるのだろう。
○○は知らない。
知らないから言える。
その無邪気さが。
少しだけ恨めしかった。
⸻
帰り道。
夕方。
並んで歩く。
長く伸びた影が。
道路の上で重なっていた。
○○:「まぁ急がんでもええんちゃう」
武元:「……」
○○:「物件なんか逃げへんし」
○○:「また探せばええやろ」
優しい声だった。
いつもの声だった。
その優しさが。
今は苦しい。
もし○○が冷たかったら。
もっと簡単だった。
早く出て行けと言われたら。
こんなに悩まなかった。
でも。
○○は優しい。
昔からずっと。
だから離れられない。
苦しくて。
苦しくて。
どうしようもなかった。
だって。
離れようとしているのは自分なのに。
引き留めてほしいと思ってしまっているから。
このまま一緒にいてもいいと。
そう言ってほしいと思ってしまっているから。
そんな自分が。
一番嫌だった。
どちらも同じ方向を向いているのに。
もうすぐ離れる。
そんな気がした。
隣を歩く○○はいつも通りだった。
くだらないことを言って。
笑って。
何も変わらない顔をしている。
その横顔を見るたびに苦しくなる。
この時間が好きだった。
この距離が好きだった。
朝起きたらいて。
仕事から帰ったらいて。
ご飯を食べて。
テレビを見て。
どうでもいい話をして。
そんな毎日が。
いつの間にか当たり前になっていた。
当たり前になりすぎていた。
だから怖かった。
失うことが。
⸻
家に着く。
靴を脱ぐ。
リビングへ入る。
いつも通り。
本当にいつも通りだった。
○○:「疲れた」
武元:「おっさんやん」
○○:「暑かった」
武元:「それはそう」
○○:「アイス食う?」
武元:「食う」
○○:「買っといてよかった」
冷凍庫からアイスを取り出す。
いつものやつ。
自分が好きなやつ。
何も言わなくても分かっている。
コンビニで見つけたら買ってきてくれる。
なくなったら補充してくれる。
そんな小さなこと。
本当に小さなことなのに。
嬉しかった。
誰かが自分を気にかけてくれることが。
誰かが自分を覚えていてくれることが。
失恋して。
ボロボロだった自分を。
何も聞かずに受け入れてくれたことが。
また胸が痛くなった。
⸻
夜。
夕飯を食べ終える。
食器を片付ける。
静かな時間。
そして。
○○:「結局決まらんかったな」
武元:「……うん」
○○:「まぁしゃあない」
武元:「そうやな」
○○:「来週また見ればええやろ」
来週。
また。
当たり前みたいに言う。
何も知らないから。
そんな顔で笑える。
私はずっと考えていたのに。
部屋を探している間も。
ご飯を食べている間も。
隣を歩いている間も。
ずっと。
離れたくないって。
思っていたのに。
○○:「焦らんでええって」
○○:「住む場所なんか妥協したらあかんし」
武元:「……」
○○:「別に」
○○:「俺は困らんし」
その言葉だった。
最後に背中を押したのは。
○○:「今まで通りおったらええやん」
静かだった。
本当に。
何でもない一言だった。
でも。
唯衣の中では違った。
積み重なっていた。
この数週間。
全部。
全部。
積み重なっていた。
今まで通り。
そんなのできるわけない。
私はもう。
今まで通りじゃない。
朝起きて顔を見るだけで嬉しくて。
帰ってくる音がしたら安心して。
隣に座られるだけで意識して。
そんな自分になってしまったのに。
今まで通りなんて。
できるわけがなかった。
⸻
武元:「何で」
○○:「ん?」
武元:「何でそんな平気なん」
初めてだった。
少しだけ声が震えた。
○○:「何が」
武元:「何がちゃうやろ」
○○:「いや」
武元:「私」
武元:「出て行くんやで」
○○:「うん」
武元:「もう一緒に住まんのやで」
○○:「そらそうやろ」
武元:「何でそんな普通なん」
○○が目を瞬かせる。
本当に分かっていない顔だった。
その顔が。
余計に苦しかった。
武元:「何で」
武元:「何でそんな簡単に言えるん」
○○:「唯衣」
武元:「何で」
涙が溢れる。
止まらない。
もう無理だった。
ずっと我慢していた。
好きになった瞬間から。
気付いた瞬間から。
ずっと。
言ったら終わると思っていた。
言ったら迷惑になると思っていた。
だから離れようとした。
好きなまま。
何も言わずに。
でも。
もう限界だった。
⸻
武元:「私は嫌やのに」
沈黙。
○○が固まる。
唯衣も止まれない。
もう止められない。
武元:「嫌やのに」
武元:「離れたくないのに」
武元:「出て行きたくないのに」
武元:「もっと一緒におりたいのに」
武元:「朝も夜も」
武元:「くだらん話も」
武元:「一緒にご飯食べるんも」
武元:「全部好きやのに」
全部出てくる。
隠していたものが。
押し込めていたものが。
全部。
武元:「気付いたら」
武元:「帰る場所になってたんや」
武元:「○○の隣が」
武元:「一番落ち着く場所になってたんや」
涙で視界が滲む。
情けない。
本当に情けない。
でも止まらない。
武元:「好きやからやん」
○○:「……」
武元:「好きになってしもたからやん」
武元:「友達のままでおらなあかんのに」
武元:「助けてもらっただけやのに」
武元:「勘違いしたらあかんのに」
武元:「それでも好きになってしもたんや」
静まり返る部屋。
時計の音だけが聞こえる。
もう駄目だった。
終わったと思った。
最低だと思った。
失恋したばかりなのに。
助けてもらった相手なのに。
友達なのに。
全部壊したと思った。
⸻
武元:「ごめん」
武元:「ごめん……」
武元:「こんなん言うつもりやなかった」
武元:「だから出て行こうと思ったんや」
武元:「離れたら忘れられると思ったんや」
武元:「会わんようにしたら」
武元:「元に戻れると思ったんや」
でも無理だった。
部屋を探していても。
新しい生活を想像しても。
そこに○○がいないだけで苦しかった。
武元:「迷惑やろ」
武元:「重いやろ」
武元:「最低やろ」
武元:「こんなん」
武元:「困るやろ……」
涙が止まらない。
俯く。
顔を見られない。
怖かった。
拒絶されるのが。
本当に怖かった。
好きになればなるほど。
失うのが怖くなった。
⸻
そして。
長い沈黙の後。
小さく。
○○が息を吐いた。
○○:「……あほやな」
武元:「……」
○○:「ほんま」
困ったような声だった。
優しい声だった。
昔から知っている声だった。
でも。
次の言葉だけは。
唯衣の知らない声だった。
○○:「何で先に言わへんねん」
そこで初めて。
○○も泣きそうに笑った。
唯衣は俯いたまま動けない。
怖かった。
次に来る言葉が。
拒絶だったら。
困った顔をされたら。
優しく諭されたら。
きっと立ち直れない。
でも。
○○は違った。
○○:「俺な」
○○:「ずっと我慢しとったんやぞ」
武元:「……え」
○○:「元彼のとこ行く言うた時も」
○○:「嫌やったし」
○○:「部屋探す言うた時も」
○○:「嫌やったし」
○○:「出て行くって話になる度に」
○○:「嫌やった」
唯衣が顔を上げる。
○○は笑っていなかった。
真っ直ぐだった。
逃げていなかった。
○○:「でも」
○○:「唯衣が決めることやと思ったから」
○○:「黙っとった」
○○:「我慢しとった」
静かな声だった。
だけど。
一言一言が重かった。
今までずっと飲み込んできた言葉だから。
○○:「いなくならんといてほしかった」
胸が止まる。
○○:「ほんまは」
○○:「ずっと」
○○:「ここにおってほしかった」
涙が溢れる。
駄目だった。
そんなこと言われたら。
もう。
本当に駄目だった。
⸻
○○:「恩とか言うてたやろ」
武元:「……うん」
○○:「あれも本音や」
○○:「高校の頃」
○○:「お前とおる時間」
○○:「めちゃくちゃ楽しかったし」
○○:「今でも宝物や」
文化祭。
体育祭。
放課後。
帰り道。
コンビニ。
他愛もないLINE。
全部思い出す。
○○:「でもな」
○○:「一番の理由は違う」
武元:「……」
○○が少しだけ視線を逸らす。
珍しく照れたように。
でも。
逃げない。
ちゃんと続きを言う。
○○:「俺」
○○:「唯衣には笑っててほしかった」
武元:「……」
○○:「ずっと」
○○:「高校の時から」
○○:「今までずっと」
喉が鳴る。
息が苦しい。
心臓が痛い。
○○:「だって」
○○:「笑ってる顔が一番好きやったから」
武元:「……っ」
○○:「怒っとる時も可愛いし」
○○:「拗ねとる時も可愛いし」
○○:「泣き顔も反則やけど」
少しだけ笑う。
そして。
観念したみたいに。
言った。
○○:「でも」
○○:「笑っとる時が一番や」
○○:「世界で一番可愛いから」
唯衣の思考が止まる。
武元:「……は?」
○○:「何や」
武元:「今何て言った」
○○:「聞こえとるやろ」
武元:「もう一回」
○○:「嫌や」
武元:「言え」
○○:「命令すな」
武元:「言え」
○○:「嫌や」
武元:「言え」
○○:「……」
数秒。
沈黙。
そして。
○○:「世界で一番可愛い」
唯衣の涙が決壊した。
武元:「ばか……」
○○:「知っとる」
武元:「大ばか……」
○○:「それも知っとる」
⸻
○○が一歩近付く。
逃げない。
もう逃げない。
○○:「唯衣」
武元:「……」
○○:「好きや」
空気が震える。
心臓が止まりそうになる。
○○:「高校の時から好きやった」
○○:「大学でも忘れられんかった」
○○:「社会人なっても」
○○:「たまに思い出しとった」
情けないくらい真っ直ぐだった。
飾らない。
格好付けない。
でも。
全部本音だった。
○○:「元彼のとこ行くって聞いた時」
○○:「正直めちゃくちゃ嫌やった」
武元:「……」
○○:「帰ってくるなって思っとった」
武元:「最低やな」
○○:「最低や」
○○:「でも」
○○:「幸せになってほしかったから」
○○:「行かせた」
それが○○だった。
優しい。
不器用。
損ばっかりする。
でも。
誰よりも誠実。
○○:「けどな」
○○:「もう我慢せん」
その瞬間。
初めて。
○○が唯衣の手を握った。
震えていた。
○○も。
同じくらい。
怖かったのだ。
○○:「好きや」
○○:「武元唯衣が好きや」
○○:「だから」
息を吸う。
覚悟を決める。
○○:「付き合ってください」
世界が静かになる。
何も聞こえない。
ただ。
目の前の人だけが見えた。
⸻
武元:「……今さら」
○○:「うん」
武元:「遅い」
○○:「知っとる」
武元:「ほんまに遅い」
○○:「ごめん」
武元:「もっと早く言えや」
○○:「それはお互い様やろ」
思わず笑ってしまう。
泣きながら。
笑ってしまう。
そして。
次の瞬間。
唯衣は○○へ飛び付いていた。
武元:「好き」
○○:「うん」
武元:「好き」
○○:「うん」
武元:「ずっと好き」
○○:「うん」
武元:「離れたくない」
○○:「離さん」
抱き締める腕に力が入る。
強く。
優しく。
絶対に壊さないように。
でも。
絶対に離さないように。
⸻
しばらくして。
ようやく落ち着いた頃。
武元:「……なぁ」
○○:「ん?」
武元:「帰らんでええ?」
○○:「帰れ」
武元:「どっちや」
○○:「帰れ」
武元:「だからどっちやねん」
○○が笑う。
昔から変わらない。
優しい笑顔で。
少しだけ照れながら。
言った。
○○:「俺んとこに帰ってこい」
その言葉に。
武元唯衣は。
この先何度も泣いて。
何度も笑って。
何度も幸せになるのだろうと思った。
ようやく見つけた。
自分の帰る場所で。
――完。
エピローグ
「おかえり」
半年後。
冬。
土曜日。
昼過ぎ。
○○宅。
⸻
インターホンが鳴る。
○○:「出て」
武元:「自分で出ろ」
○○:「今手離されへん」
武元:「何しとん」
○○:「鍋」
武元:「鍋は離せるやろ」
文句を言いながら玄関へ向かう。
ドアを開ける。
有美子:「お邪魔します」
梨名:「お邪魔します」
武元:「帰れ」
有美子:「何で!?」
梨名:「開口一番酷い」
笑いながら入ってくる。
相変わらずだった。
⸻
リビング。
鍋。
四人。
高校時代みたいな空気。
有美子:「で?」
武元:「何が」
有美子:「結婚の話どうなん?」
武元:「してない」
梨名:「してるやろ」
武元:「してない」
有美子:「住所ここやろ」
武元:「そうやけど」
梨名:「してるやんそれは」
武元:「ぐぬぬ」
反論出来なかった。
⸻
○○:「白菜取って」
武元:「はい」
皿へ入れる。
自然な動作。
その瞬間。
有美子:「あ」
梨名:「あ」
武元:「何」
有美子:「今の見た?」
梨名:「見た」
武元:「何」
有美子:「夫婦や」
武元:「違う」
○○:「違う」
有美子:「揃うな」
梨名:「息ぴったりやな」
○○:「帰れ」
半年経っても。
この二人には勝てなかった。
⸻
鍋が終わる頃。
有美子がぽつりと呟く。
有美子:「でも良かったな」
空気が少しだけ変わる。
有美子:「ほんまに」
梨名:「うん」
武元が顔を上げる。
有美子は笑っていた。
優しい顔で。
有美子:「正直」
有美子:「もう無理やと思ってた」
梨名:「私も」
○○:「失礼やな」
有美子:「だってお前鈍いし」
梨名:「鈍いし」
○○:「悪口大会やめろ」
笑い声が上がる。
でも。
有美子は続けた。
有美子:「高校から何年やと思っとんねん」
梨名:「長かったなぁ」
○○:「……」
武元:「……」
有美子:「でも」
梨名:「遠回りしたな」
その言葉に。
誰も否定しなかった。
遠回りだった。
本当に。
びっくりするくらい。
遠回りだった。
⸻
夕方。
二人が帰る。
有美子:「じゃあな」
梨名:「また来る」
武元:「来るな」
有美子:「来る」
梨名:「来る」
ドアが閉まる。
静かになる。
⸻
○○:「賑やかやったな」
武元:「そうやな」
窓の外を見る。
夕暮れ。
オレンジ色の空。
何気ない景色。
でも。
幸せだった。
○○:「なぁ」
武元:「ん?」
○○:「帰ってきて良かった?」
ふと聞かれる。
少しだけ笑う。
答えなんて。
とっくに決まっていた。
武元:「うん」
○○:「そか」
武元:「帰ってきて良かった」
○○が少しだけ笑う。
安心したみたいに。
嬉しそうに。
そして。
当たり前みたいに言う。
○○:「おかえり」
何度も聞いた言葉。
何度も救われた言葉。
今では。
一番好きな言葉。
武元:「ただいま」
人生は物語みたいにはいかない。
運命の再会も。
奇跡も。
劇的な出会いもない。
ただ。
少し遠回りした。
それだけだ。
だから。
これで良かった。
好きだった人が。
好きな人になった。
そして。
帰りたい場所が。
帰る場所になった。
そんな。
少しだけ遠回りした恋の話。
――おしまい。
