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浮気は用法容量を守って使用すること。

第五話

「好きだから」

 月曜日。

 朝。

○○:「唯衣」

武元:「……」

○○:「唯衣」

武元:「……」

○○:「起きろ」

武元:「……」

○○:「会社」

武元:「休む」

○○:「有給残ってへんやろ」

武元:「ちっ」

○○:「舌打ちすな」

 布団を頭まで被る。

 現実逃避だった。

 目を閉じてしまえば、昨日のこともなかったことになる気がした。

 でも。

 そんな都合のいいことがあるはずもない。

 昨日。

 気付いてしまった。

 認めてしまった。

 自分が○○を好きだということを。

 だから顔を見たくなかった。

 見たらまた好きになる。

 声を聞いたら。

 笑った顔を見たら。

 きっともっと好きになる。

 そんなの分かりきっていた。

 朝食。

 テーブル。

○○:「今日雨やで」

武元:「ふーん」

○○:「傘」

武元:「持ってる」

○○:「絶対忘れる」

武元:「忘れへん」

○○:「ほい」

 玄関へ置いてあった傘を渡される。

武元:「……」

○○:「何」

武元:「子供ちゃうぞ」

○○:「高校の時めっちゃ忘れてたやん」

武元:「覚えてんの?」

○○:「そら、毎回取られてましたからね傘」

 当たり前みたいに言う。

 何でもないことみたいに。

 でも。

 胸がぎゅっと締め付けられた。

 高校の頃のことなんて。

 そんな細かいことまで覚えているんだ。

 自分は覚えているだろうか。

 ○○が何回傘を忘れたか。

 どんな授業で寝ていたか。

 どんな顔で笑っていたか。

 ――覚えている。

 全部ではないけれど。

 覚えている。

 好きだったから。

 ずっと見ていたから。

 だから余計に苦しかった。

 そんな顔しないでほしい。

 そんな風に優しくしないでほしい。

 期待してしまうから。

 勘違いしてしまうから。

 好きになってしまうから。

 会社。

 昼休み。

 スマホが震える。


○○

『牛乳無くなってた』


武元

『知ってる』


○○

『帰り買っとく』


武元

『自分で買う』


○○

『どうせスーパー寄るし』


武元

『了解』


 短いやり取り。

 たったそれだけ。

 なのに。

 画面を見つめたまま動けなくなる。

 牛乳が無くなったことを知っている。

 帰りに買うつもりだった。

 でも○○は先に気付いていた。

 そして当然みたいに買ってくると言う。

 まるで。

 一緒に暮らしているのが当たり前みたいに。

 これからもそうするつもりみたいに。

武元:「……」

 駄目だ。

 本当に駄目だ。

 こんなの。

 好きになるに決まっている。

 でも分かっている。

 ○○は何も考えていない。

 特別な意味なんてない。

 昔からそうだった。

 困っていたら助ける。

 気付いたら動いている。

 誰に対しても優しい。

 そういう人だ。

 だから好きになった。

 だから苦しい。

 もしこれが特別だったなら。

 少しは期待できたのに。

 夜。

○○:「ただいま」

武元:「おかえり」

○○:「牛乳」

武元:「ありがとう」

○○:「あとヨーグルト」

武元:「頼んでない」

○○:「食うやろ」

武元:「食う」

○○:「せやろ?さすが俺」

 袋から取り出されたヨーグルト。

 いつも自分が買うやつだった。

 何も言っていないのに。

 何も頼んでいないのに。

 ちゃんと分かっている。

 自然だった。

 あまりにも自然だった。

 まるで夫婦みたいだと。

 一瞬そんな言葉が頭をよぎって。

武元:「っ……」

 慌てて打ち消す。

 何考えてるんやろ。

 そんなわけないのに。

 そんな関係じゃないのに。

 でも。

 こういう何気ない瞬間ほど。

 幸せだと思ってしまう。

 だから怖かった。

 失うのが怖かった。

 洗濯物を畳む。

 休日。

 リビング。

 テレビの音。

 ソファの上には○○。

 ゲームをしている。

○○:「あ」

武元:「ん?」

○○:「それ俺の」

武元:「知ってる」

 シャツを渡す。

 一瞬。

 指が触れた。

 たったそれだけ。

 本当にそれだけなのに。

 心臓が跳ねる。

武元:「っ」

○○:「?」

武元:「何でもない」

○○:「そうか」

 何でもない顔。

 本当に何でもない顔。

 触れたことすら気にしていない。

 こっちだけだ。

 こんなに意識しているのは。

 こんなに苦しいのは。

 前までは平気だった。

 隣に座るのも。

 肩が触れるのも。

 同じ空間にいるのも。

 全部普通だった。

 なのに今は違う。

 全部が特別になってしまった。

 全部が嬉しくて。

 全部が苦しい。

 夜。

 ベランダ。

 洗濯物が揺れる。

 ○○のシャツ。

 自分の服。

 並んでいる。

 その光景を見て。

 胸が締め付けられた。

 生活が混ざっている。

 当たり前みたいに。

 自然に。

 いつからだろう。

 帰れば○○がいるのが普通になったのは。

 ご飯を作るのが普通になったのは。

 おかえりと言うのが普通になったのは。

武元:「……」

 出て行かなあかん。

 ぽつりと思う。

 このままは駄目だ。

 好きだから。

 好きになってしまったから。

 これ以上ここにいたら。

 もっと好きになる。

 もっと離れられなくなる。

 だから。

 ちゃんと出て行かなきゃいけない。

 ○○は悪くない。

 何も悪くない。

 むしろ助けてもらった。

 失恋して。

 行き場がなくなって。

 そんな自分を受け入れてくれた。

 優しくしてくれた。

 支えてくれた。

 なのに。

 その優しさに甘えて。

 今度は○○を好きになっている。

 そんな自分が嫌だった。

 昨日まで別の人を好きだったくせに。

 振られて。

 傷付いて。

 泣いていたくせに。

 今度は○○を見て胸を高鳴らせている。

 そんなの。

 あまりにも都合が良すぎる。

 あまりにも勝手すぎる。

 だから。

 この気持ちは言えない。

 言ってはいけない。

 そう思った。

 その日の夜。

 晩ご飯を食べ終えた後。

 食器を片付けながら。

 何度も迷った。

 言うべきか。

 やめるべきか。

 でも。

 言わなければ前に進めない気がした。

武元:「なぁ」

○○:「ん?」

武元:「そろそろ」

 一度言葉が詰まる。

 喉の奥が苦しい。

 言いたくない。

 本当はずっとここにいたい。

 でも。

 それじゃ駄目だから。

武元:「部屋探そうと思う」

 箸を置く音。

 静かな部屋に小さく響いた。

 ○○が顔を上げた。

 

○○:「急やな」

武元:「まぁ」

○○:「何で」

武元:「何でって」

○○:「まだ探さんでもええやろ」

 あっさりと言う。

 本当に。

 何でもないことみたいに。

 その言葉に。

 胸の奥がじくりと痛んだ。

 探したい訳じゃない。

 むしろ探したくない。

 ここを出たい訳でもない。

 出たくないから困っているのだ。

武元:「でも」

○○:「追い出してへんし」

武元:「……」

○○:「家賃もまだ払わせてへんし」

武元:「それは払うって言うてるやん」

○○:「いや、なんかダサいやん漢だか…」

武元:「聞け」

○○:「はいっ。」

 いつもの調子。

 いつもの会話。

 いつもの○○。

 高校の頃から変わらない。

 気付けば隣にいて。

 気付けば助けてくれて。

 気付けば笑わせてくれる。

 だから。

 好きになった人に振られた時も。

 真っ先に頼ってしまった。

 そして今。

 その優しさに甘え続けた結果。

 別の意味で好きになってしまった。

 最低だ。

 そう思う。

 昨日まで別の人を見ていたくせに。

 今度は○○を見ている。

 そんな自分が嫌だった。

○○:「別に焦る理由ないやろ」

武元:「……」

○○:「……そしたら来週の休みでええか?」

○○:「その時一緒に探そうや」

 一緒に。

 その言葉が妙に嬉しくて。

 嬉しいと思ってしまった自分に。

 また嫌気が差した。

 自然だった。

 あまりにも自然だった。

 まるで。

 来週も一緒にいるのが当たり前みたいに。

 来月も。

 その先も。

 ずっと。

 そんな未来を想像してしまう自分がいた。

 そして。

 翌週の土曜日。

 不動産屋。

 駅前。

 快晴。

○○:「暑い」

武元:「五月やぞ」

○○:「暑いもんは暑い」

武元:「子供か」

○○:「大人やもん」

武元:「自分で言うな」

 相変わらずだった。

 不動産屋へ向かう途中も。

 内見の間も。

 ずっと。

 隣を歩く距離感も。

 話すテンポも。

 何も変わらない。

 変わってしまったのは。

 自分だけだった。

 前なら何とも思わなかった横顔を。

 今は無意識に見てしまう。

 笑う顔を見るだけで。

 胸が少しだけ温かくなる。

 そんな自分が怖かった。

 最初の物件。

○○:「ええやん」

武元:「そう?」

○○:「駅近い」

武元:「うん」

○○:「会社近い」

武元:「うん」

○○:「スーパーある」

武元:「うん」

○○:「何が不満なん」

武元:「……別に」

 決められない。

 理由は分かっている。

 部屋が悪いんじゃない。

 立地でもない。

 家賃でもない。

 問題は。

 そこに○○がいないことだった。

 仕事から帰っても。

 リビングに灯りはない。

 おかえりと言う相手もいない。

 休日に洗濯物を畳みながら。

 くだらない話をする相手もいない。

 そんな生活を想像すると。

 妙に寂しかった。

 たった数週間。

 一緒に暮らしただけなのに。

 もうそれが当たり前になり始めている。

 二件目。

 三件目。

 四件目。

 どこも悪くない。

 むしろ良い。

 でも。

 決められない。

○○:「難航しとるな」

武元:「そうやな」

○○:「珍しい」

武元:「何が」

○○:「唯衣優柔不断やったっけ」

武元:「失礼やな」

○○:「即決タイプやろ」

武元:「まぁ」

○○:「じゃあ何でや」

 聞かないでほしかった。

 そんなこと。

 答えられるはずがない。

 言える訳がない。

 あなたと離れたくないから。

 そんな理由。

 絶対に言えない。

 昼。

 駅前のカフェ。

 休憩。

○○:「俺は二件目」

武元:「早」

○○:「普通に良かったやん」

武元:「まぁ」

○○:「会社近いし」

武元:「うん」

○○:「俺ん家からも近いし」

 その言葉に。

 胸が跳ねる。

 反射みたいに。

 期待してしまう。

○○:「飯食い来るのも楽やろ」

武元:「……」

○○:「あそこラーメン屋も近いし」

武元:「……」

○○:「何なら洗濯機壊れたら来ればええし」

 笑う。

 何でもない顔で。

○○:「困ったらまた来ればええやん」

○○:「今まで通り」

 今まで通り。

 その言葉が。

 胸に刺さる。

 今まで通りなんて。

 出来る訳ないのに。

 私は。

 もう。

 今まで通りじゃないのに。

 あなたの家に行く理由を探してしまう。

 連絡が来るだけで嬉しくなる。

 隣にいるだけで安心する。

 そんな状態で。

 どうやって今まで通りでいられるのだろう。

 ○○は知らない。

 知らないから言える。

 その無邪気さが。

 少しだけ恨めしかった。

 帰り道。

 夕方。

 並んで歩く。

 長く伸びた影が。

 道路の上で重なっていた。

○○:「まぁ急がんでもええんちゃう」

武元:「……」

○○:「物件なんか逃げへんし」

○○:「また探せばええやろ」

 優しい声だった。

 いつもの声だった。

 その優しさが。

 今は苦しい。

 もし○○が冷たかったら。

 もっと簡単だった。

 早く出て行けと言われたら。

 こんなに悩まなかった。

 でも。

 ○○は優しい。

 昔からずっと。

 だから離れられない。

 苦しくて。

 苦しくて。

 どうしようもなかった。

 だって。

 離れようとしているのは自分なのに。

 引き留めてほしいと思ってしまっているから。

 このまま一緒にいてもいいと。

 そう言ってほしいと思ってしまっているから。

 そんな自分が。

 一番嫌だった。

 

 どちらも同じ方向を向いているのに。

 もうすぐ離れる。

 そんな気がした。

 隣を歩く○○はいつも通りだった。

 くだらないことを言って。

 笑って。

 何も変わらない顔をしている。

 その横顔を見るたびに苦しくなる。

 この時間が好きだった。

 この距離が好きだった。

 朝起きたらいて。

 仕事から帰ったらいて。

 ご飯を食べて。

 テレビを見て。

 どうでもいい話をして。

 そんな毎日が。

 いつの間にか当たり前になっていた。

 当たり前になりすぎていた。

 だから怖かった。

 失うことが。

 家に着く。

 靴を脱ぐ。

 リビングへ入る。

 いつも通り。

 本当にいつも通りだった。

○○:「疲れた」

武元:「おっさんやん」

○○:「暑かった」

武元:「それはそう」

○○:「アイス食う?」

武元:「食う」

○○:「買っといてよかった」

 冷凍庫からアイスを取り出す。

 いつものやつ。

 自分が好きなやつ。

 何も言わなくても分かっている。

 コンビニで見つけたら買ってきてくれる。

 なくなったら補充してくれる。

 そんな小さなこと。

 本当に小さなことなのに。

 嬉しかった。

 誰かが自分を気にかけてくれることが。

 誰かが自分を覚えていてくれることが。

 失恋して。

 ボロボロだった自分を。

 何も聞かずに受け入れてくれたことが。

 また胸が痛くなった。

 夜。

 夕飯を食べ終える。

 食器を片付ける。

 静かな時間。

 そして。

○○:「結局決まらんかったな」

武元:「……うん」

○○:「まぁしゃあない」

武元:「そうやな」

○○:「来週また見ればええやろ」

 来週。

 また。

 当たり前みたいに言う。

 何も知らないから。

 そんな顔で笑える。

 私はずっと考えていたのに。

 部屋を探している間も。

 ご飯を食べている間も。

 隣を歩いている間も。

 ずっと。

 離れたくないって。

 思っていたのに。

○○:「焦らんでええって」

○○:「住む場所なんか妥協したらあかんし」

武元:「……」

○○:「別に」

○○:「俺は困らんし」

 その言葉だった。

 最後に背中を押したのは。

○○:「今まで通りおったらええやん」

 静かだった。

 本当に。

 何でもない一言だった。

 でも。

 唯衣の中では違った。

 積み重なっていた。

 この数週間。

 全部。

 全部。

 積み重なっていた。

 今まで通り。

 そんなのできるわけない。

 私はもう。

 今まで通りじゃない。

 朝起きて顔を見るだけで嬉しくて。

 帰ってくる音がしたら安心して。

 隣に座られるだけで意識して。

 そんな自分になってしまったのに。

 今まで通りなんて。

 できるわけがなかった。

武元:「何で」

○○:「ん?」

武元:「何でそんな平気なん」

 初めてだった。

 少しだけ声が震えた。

○○:「何が」

武元:「何がちゃうやろ」

○○:「いや」

武元:「私」

武元:「出て行くんやで」

○○:「うん」

武元:「もう一緒に住まんのやで」

○○:「そらそうやろ」

武元:「何でそんな普通なん」

 ○○が目を瞬かせる。

 本当に分かっていない顔だった。

 その顔が。

 余計に苦しかった。

武元:「何で」

武元:「何でそんな簡単に言えるん」

○○:「唯衣」

武元:「何で」

 涙が溢れる。

 止まらない。

 もう無理だった。

 ずっと我慢していた。

 好きになった瞬間から。

 気付いた瞬間から。

 ずっと。

 言ったら終わると思っていた。

 言ったら迷惑になると思っていた。

 だから離れようとした。

 好きなまま。

 何も言わずに。

 でも。

 もう限界だった。

武元:「私は嫌やのに」

 沈黙。

 ○○が固まる。

 唯衣も止まれない。

 もう止められない。

武元:「嫌やのに」

武元:「離れたくないのに」

武元:「出て行きたくないのに」

武元:「もっと一緒におりたいのに」

武元:「朝も夜も」

武元:「くだらん話も」

武元:「一緒にご飯食べるんも」

武元:「全部好きやのに」

 全部出てくる。

 隠していたものが。

 押し込めていたものが。

 全部。

武元:「気付いたら」

武元:「帰る場所になってたんや」

武元:「○○の隣が」

武元:「一番落ち着く場所になってたんや」

 涙で視界が滲む。

 情けない。

 本当に情けない。

 でも止まらない。

武元:「好きやからやん」

○○:「……」

武元:「好きになってしもたからやん」

武元:「友達のままでおらなあかんのに」

武元:「助けてもらっただけやのに」

武元:「勘違いしたらあかんのに」

武元:「それでも好きになってしもたんや」

 静まり返る部屋。

 時計の音だけが聞こえる。

 もう駄目だった。

 終わったと思った。

 最低だと思った。

 失恋したばかりなのに。

 助けてもらった相手なのに。

 友達なのに。

 全部壊したと思った。

武元:「ごめん」

武元:「ごめん……」

武元:「こんなん言うつもりやなかった」

武元:「だから出て行こうと思ったんや」

武元:「離れたら忘れられると思ったんや」

武元:「会わんようにしたら」

武元:「元に戻れると思ったんや」

 でも無理だった。

 部屋を探していても。

 新しい生活を想像しても。

 そこに○○がいないだけで苦しかった。

武元:「迷惑やろ」

武元:「重いやろ」

武元:「最低やろ」

武元:「こんなん」

武元:「困るやろ……」

 涙が止まらない。

 俯く。

 顔を見られない。

 怖かった。

 拒絶されるのが。

 本当に怖かった。

 好きになればなるほど。

 失うのが怖くなった。

 そして。

 長い沈黙の後。

 小さく。

 ○○が息を吐いた。

○○:「……あほやな」

武元:「……」

○○:「ほんま」

 困ったような声だった。

 優しい声だった。

 昔から知っている声だった。

 でも。

 次の言葉だけは。

 唯衣の知らない声だった。

○○:「何で先に言わへんねん」

 そこで初めて。

 ○○も泣きそうに笑った。

 唯衣は俯いたまま動けない。

 怖かった。

 次に来る言葉が。

 拒絶だったら。

 困った顔をされたら。

 優しく諭されたら。

 きっと立ち直れない。

 でも。

 ○○は違った。

○○:「俺な」

○○:「ずっと我慢しとったんやぞ」

武元:「……え」

○○:「元彼のとこ行く言うた時も」

○○:「嫌やったし」

○○:「部屋探す言うた時も」

○○:「嫌やったし」

○○:「出て行くって話になる度に」

○○:「嫌やった」

 唯衣が顔を上げる。

 ○○は笑っていなかった。

 真っ直ぐだった。

 逃げていなかった。

○○:「でも」

○○:「唯衣が決めることやと思ったから」

○○:「黙っとった」

○○:「我慢しとった」

 静かな声だった。

 だけど。

 一言一言が重かった。

 今までずっと飲み込んできた言葉だから。

○○:「いなくならんといてほしかった」

 胸が止まる。

○○:「ほんまは」

○○:「ずっと」

○○:「ここにおってほしかった」

 涙が溢れる。

 駄目だった。

 そんなこと言われたら。

 もう。

 本当に駄目だった。

○○:「恩とか言うてたやろ」

武元:「……うん」

○○:「あれも本音や」

○○:「高校の頃」

○○:「お前とおる時間」

○○:「めちゃくちゃ楽しかったし」

○○:「今でも宝物や」

 文化祭。

 体育祭。

 放課後。

 帰り道。

 コンビニ。

 他愛もないLINE。

 全部思い出す。

○○:「でもな」

○○:「一番の理由は違う」

武元:「……」

 ○○が少しだけ視線を逸らす。

 珍しく照れたように。

 でも。

 逃げない。

 ちゃんと続きを言う。

○○:「俺」

○○:「唯衣には笑っててほしかった」

武元:「……」

○○:「ずっと」

○○:「高校の時から」

○○:「今までずっと」

 喉が鳴る。

 息が苦しい。

 心臓が痛い。

○○:「だって」

○○:「笑ってる顔が一番好きやったから」

武元:「……っ」

○○:「怒っとる時も可愛いし」

○○:「拗ねとる時も可愛いし」

○○:「泣き顔も反則やけど」

 少しだけ笑う。

 そして。

 観念したみたいに。

 言った。

○○:「でも」

○○:「笑っとる時が一番や」

○○:「世界で一番可愛いから」

 唯衣の思考が止まる。

武元:「……は?」

○○:「何や」

武元:「今何て言った」

○○:「聞こえとるやろ」

武元:「もう一回」

○○:「嫌や」

武元:「言え」

○○:「命令すな」

武元:「言え」

○○:「嫌や」

武元:「言え」

○○:「……」

 数秒。

 沈黙。

 そして。

○○:「世界で一番可愛い」

 唯衣の涙が決壊した。

武元:「ばか……」

○○:「知っとる」

武元:「大ばか……」

○○:「それも知っとる」

 ○○が一歩近付く。

 逃げない。

 もう逃げない。

○○:「唯衣」

武元:「……」

○○:「好きや」

 空気が震える。

 心臓が止まりそうになる。

○○:「高校の時から好きやった」

○○:「大学でも忘れられんかった」

○○:「社会人なっても」

○○:「たまに思い出しとった」

 情けないくらい真っ直ぐだった。

 飾らない。

 格好付けない。

 でも。

 全部本音だった。

○○:「元彼のとこ行くって聞いた時」

○○:「正直めちゃくちゃ嫌やった」

武元:「……」

○○:「帰ってくるなって思っとった」

武元:「最低やな」

○○:「最低や」

○○:「でも」

○○:「幸せになってほしかったから」

○○:「行かせた」

 それが○○だった。

 優しい。

 不器用。

 損ばっかりする。

 でも。

 誰よりも誠実。

○○:「けどな」

○○:「もう我慢せん」

 その瞬間。

 初めて。

 ○○が唯衣の手を握った。

 震えていた。

 ○○も。

 同じくらい。

 怖かったのだ。

○○:「好きや」

○○:「武元唯衣が好きや」

○○:「だから」

 息を吸う。

 覚悟を決める。

○○:「付き合ってください」

 世界が静かになる。

 何も聞こえない。

 ただ。

 目の前の人だけが見えた。

武元:「……今さら」

○○:「うん」

武元:「遅い」

○○:「知っとる」

武元:「ほんまに遅い」

○○:「ごめん」

武元:「もっと早く言えや」

○○:「それはお互い様やろ」

 思わず笑ってしまう。

 泣きながら。

 笑ってしまう。

 そして。

 次の瞬間。

 唯衣は○○へ飛び付いていた。

武元:「好き」

○○:「うん」

武元:「好き」

○○:「うん」

武元:「ずっと好き」

○○:「うん」

武元:「離れたくない」

○○:「離さん」

 抱き締める腕に力が入る。

 強く。

 優しく。

 絶対に壊さないように。

 でも。

 絶対に離さないように。

 しばらくして。

 ようやく落ち着いた頃。

武元:「……なぁ」

○○:「ん?」

武元:「帰らんでええ?」

○○:「帰れ」

武元:「どっちや」

○○:「帰れ」

武元:「だからどっちやねん」

 ○○が笑う。

 昔から変わらない。

 優しい笑顔で。

 少しだけ照れながら。

 言った。

○○:「俺んとこに帰ってこい」

 その言葉に。

 武元唯衣は。

 この先何度も泣いて。

 何度も笑って。

 何度も幸せになるのだろうと思った。

 ようやく見つけた。

 自分の帰る場所で。

 ――完。


エピローグ

「おかえり」

 半年後。

 冬。

 土曜日。

 昼過ぎ。

 ○○宅。

 インターホンが鳴る。

○○:「出て」

武元:「自分で出ろ」

○○:「今手離されへん」

武元:「何しとん」

○○:「鍋」

武元:「鍋は離せるやろ」

 文句を言いながら玄関へ向かう。

 ドアを開ける。

有美子:「お邪魔します」

梨名:「お邪魔します」

武元:「帰れ」

有美子:「何で!?」

梨名:「開口一番酷い」

 笑いながら入ってくる。

 相変わらずだった。

 リビング。

 鍋。

 四人。

 高校時代みたいな空気。

有美子:「で?」

武元:「何が」

有美子:「結婚の話どうなん?」

武元:「してない」

梨名:「してるやろ」

武元:「してない」

有美子:「住所ここやろ」

武元:「そうやけど」

梨名:「してるやんそれは」

武元:「ぐぬぬ」

 反論出来なかった。

○○:「白菜取って」

武元:「はい」

 皿へ入れる。

 自然な動作。

 その瞬間。

有美子:「あ」

梨名:「あ」

武元:「何」

有美子:「今の見た?」

梨名:「見た」

武元:「何」

有美子:「夫婦や」

武元:「違う」

○○:「違う」

有美子:「揃うな」

梨名:「息ぴったりやな」

○○:「帰れ」

 半年経っても。

 この二人には勝てなかった。

 鍋が終わる頃。

 有美子がぽつりと呟く。

有美子:「でも良かったな」

 空気が少しだけ変わる。

有美子:「ほんまに」

梨名:「うん」

 武元が顔を上げる。

 有美子は笑っていた。

 優しい顔で。

有美子:「正直」

有美子:「もう無理やと思ってた」

梨名:「私も」

○○:「失礼やな」

有美子:「だってお前鈍いし」

梨名:「鈍いし」

○○:「悪口大会やめろ」

 笑い声が上がる。

 でも。

 有美子は続けた。

有美子:「高校から何年やと思っとんねん」

梨名:「長かったなぁ」

○○:「……」

武元:「……」

有美子:「でも」

梨名:「遠回りしたな」

 その言葉に。

 誰も否定しなかった。

 遠回りだった。

 本当に。

 びっくりするくらい。

 遠回りだった。

 夕方。

 二人が帰る。

有美子:「じゃあな」

梨名:「また来る」

武元:「来るな」

有美子:「来る」

梨名:「来る」

 ドアが閉まる。

 静かになる。

○○:「賑やかやったな」

武元:「そうやな」

 窓の外を見る。

 夕暮れ。

 オレンジ色の空。

 何気ない景色。

 でも。

 幸せだった。

○○:「なぁ」

武元:「ん?」

○○:「帰ってきて良かった?」

 ふと聞かれる。

 少しだけ笑う。

 答えなんて。

 とっくに決まっていた。

武元:「うん」

○○:「そか」

武元:「帰ってきて良かった」

 ○○が少しだけ笑う。

 安心したみたいに。

 嬉しそうに。

 そして。

 当たり前みたいに言う。

○○:「おかえり」

 何度も聞いた言葉。

 何度も救われた言葉。

 今では。

 一番好きな言葉。

武元:「ただいま」

 人生は物語みたいにはいかない。

 運命の再会も。

 奇跡も。

 劇的な出会いもない。

 ただ。

 少し遠回りした。

 それだけだ。

 だから。

 これで良かった。

 好きだった人が。

 好きな人になった。

 そして。

 帰りたい場所が。

 帰る場所になった。

 そんな。

 少しだけ遠回りした恋の話。

 ――おしまい。

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