浮気は用法容量を守って使用すること。
第二話
目が覚めた。
知らない天井。
じゃない。
知っている天井だった。
武元:「……」
数秒。
思考停止。
そして。
昨日の記憶が全部戻ってくる。
武元:「うわぁ……」
布団へ顔を埋めた。
泣いた。
浮気しようと言った。
押し倒した。
断られた。
思い出す度に死にたくなる。
武元:「終わった……」
人として終わった。
社会人としても終わった。
友達としても終わった。
多分終わった。
いや絶対終わった。
しばらく現実逃避していたが。
お腹が鳴った。
武元:「……」
現実は残酷だった。
⸻
リビングへ向かう。
すると。
良い匂いがした。
フライパンの音。
味噌汁の湯気。
そして。
○○:「おぇ?」
振り向いた○○と目が合う。
○○:「起きたな」
武元:「おぇって何」
○○:「起きたなって意味」
武元:「日本語勉強してこい」
○○:「嫌だ」
普通だった。
昨日のことなんて無かったみたいに。
普通だった。
そのことに少しだけ安心してしまう。
少しだけ。
本当に少しだけ。
○○:「あ」
武元:「ん?」
○○:「仕事」
武元:「ん?」
○○:「今日仕事!?」
武元:「今聞く?」
○○:「やば」
武元:「何が」
○○:「有美子に聞くの忘れてた」
武元:「私じゃなくて?」
○○:「お前昨日死にそうだったし」
武元:「死んでない」
○○:「半分死んでた」
武元:「失礼やな」
○○:「で」
○○:「大丈夫なん?」
武元:「有休」
○○:「あー」
明らかに安心した顔をする。
その反応に。
何故だか少しだけ胸が温かくなった。
○○:「良かった」
武元:「そんな心配やった?」
○○:「会社から電話来たら面倒だろ」
武元:「理由そこなん?」
○○:「そこ」
武元:「絶対違うやろ」
○○:「味噌汁冷めるぞ」
武元:「逃げた」
⸻
朝食を食べ終える。
○○は時計を見る。
○○:「やば」
武元:「遅刻?」
○○:「まだ大丈夫」
武元:「大丈夫なんかい」
○○:「ギリギリ」
武元:「それ大丈夫ちゃうやろ」
立ち上がる。
鞄を持つ。
そして。
ポケットから何かを取り出した。
カチャ。
テーブルへ置かれる。
鍵だった。
武元:「?」
○○:「ほい」
武元:「何これ」
○○:「合鍵」
武元:「軽っ!?」
○○:「そうか?」
武元:「そうやろ!」
○○:「しばらく持っとけ」
武元:「いやいやいや」
武元:「もっと何かあるやろ」
○○:「例えば?」
武元:「例えば……」
武元:「人ん家の合鍵やぞ?」
○○:「だから渡してる」
武元:「会話になってへん」
○○:「無くすなよ」
武元:「そこ?」
○○:「あと」
武元:「ん?」
○○:「犯罪組織に売るの禁止な」
武元:「売らんわ!」
○○:「絶対?」
武元:「絶対や!」
○○:「なら良し」
武元:「何が良しや」
呆れる。
本当に。
呆れる。
でも。
鍵を見つめる。
昨日。
私はこの人を利用しようとした。
最低なことも言った。
それなのに。
この人は。
何でもないみたいに合鍵を渡した。
信用しているから。
なんて言葉は使わない。
そんな性格じゃない。
でも。
その軽さが。
逆に痛かった。
○○:「じゃ」
武元:「ん」
○○:「行ってくる」
武元:「……」
手の中の鍵を見る。
少しだけ握る。
武元:「行ってらっしゃい」
○○は少しだけ目を丸くした。
でも。
すぐ笑う。
○○:「おう」
そして。
玄関のドアが閉まった。
玄関のドアが閉まる。
ガチャ。
カチッ。
静寂。
武元:「……」
部屋が静かになる。
さっきまでいた人の気配だけが残っていた。
テーブルの上。
洗い終わった皿。
飲みかけのマグカップ。
少し開いたカーテン。
そして。
手の中の合鍵。
武元:「何なんほんま」
小さく呟く。
返事はない。
分かっている。
分かっているのに。
何となく耳を澄ませてしまう。
キッチンから、
「おー」
と気の抜けた返事が聞こえてきそうで。
廊下から足音が聞こえてきそうで。
でも。
何もない。
当たり前だった。
○○は会社へ行った。
ただそれだけだ。
なのに。
胸の奥が少しだけ空っぽになる。
武元:「変なんは私か」
苦笑する。
昨日まで会ってもいなかった。
四年近く会っていなかった相手だ。
それなのに。
たった一晩でこの部屋に慣れ始めている自分がいた。
ソファへ腰を下ろす。
合鍵を見つめる。
銀色の小さな鍵。
たったそれだけ。
でも。
妙に重かった。
武元:「普通渡さんやろ……」
渡さない。
普通は。
絶対に。
しかも。
昨日の自分は。
最低だった。
泣いて。
縋って。
浮気しようとまで言った。
利用する気だった。
傷付いた自分を肯定してほしかった。
ただそれだけだった。
武元:「ほんま最低やな」
思わず俯く。
それなのに。
○○は怒らなかった。
呆れなかった。
見捨てなかった。
ただ。
そこにいてくれた。
思い出す。
『好きなだけおれ』
『頼られるくらいなら出来る』
『今くらい頼れ』
胸の奥が少し痛む。
武元:「何でなん……」
本当に分からない。
優しいから。
それは知っている。
昔からそうだった。
でも。
ここまでされる理由なんてない。
自分だったら出来ない。
少なくとも。
昨日の自分みたいな人間に合鍵なんて渡せない。
だから余計に苦しかった。
スマホが震える。
武元:「ん?」
そういえば。
昨日からほとんど触っていなかった。
手に取る。
ロックを解除する。
そして。
武元:「うわ」
思わず声が漏れた。
通知の数がとんでもなかった。
LINE。
不在着信。
メッセージ。
画面が埋まっている。
武元:「何これ……」
スクロールする。
有美子。
有美子。
有美子。
梨名。
有美子。
梨名。
有美子。
武元:「怖っ」
暇人か。
いや。
心配してくれていたのだろう。
少しだけ申し訳なくなる。
その時だった。
指が止まる。
お気に入り登録された名前。
ずっと一番上にいた名前。
昨日まで。
見れば安心していた名前。
今は。
見るだけで胸が苦しくなる名前。
武元:「……」
不在着信。
二十件以上。
メッセージも大量だった。
謝罪。
言い訳。
説明。
会いたい。
話したい。
そんな文字が通知欄に並んでいる。
開いていない。
開けなかった。
胸の奥がざわつく。
呼吸が少し浅くなる。
昨日の夜が蘇る。
泣いたこと。
苦しかったこと。
全部。
蘇る。
武元:「……」
スマホを伏せた。
見なかったことにするみたいに。
まだ無理だった。
まだ。
向き合えなかった。
その瞬間。
着信画面が光る。
武元:「っ」
一瞬肩が跳ねる。
またあの名前かと思った。
違った。
有美子。
武元:「……」
数秒迷う。
でも。
気付けば通話ボタンを押していた。
武元:「もしもし」
有美子:『武元唯衣ぃぃぃぃぃ!!』
武元:「うわっ!?」
有美子:『生きてたぁぁぁぁ!!』
武元:「死んでへんわ!!」
有美子:『昨日から何件連絡したと思ってんの!?』
武元:「知らん!」
有美子:『三十七件!!』
武元:「多っ!」
有美子:『当たり前やろ!!』
耳が痛い。
でも。
その勢いが少しだけ嬉しかった。
心配してくれていたのが分かるから。
有美子:『今どこ!?』
武元:「家」
有美子:『嘘つけ!!』
武元:「いや本当や」
有美子:『○○の家やろ!?』
武元:「……」
有美子:『図星やん』
武元:「誰や漏らしたん」
有美子:『本人』
武元:「あいつか……」
思わず額を押さえる。
あまりにも予想通りだった。
有美子:『で?』
武元:「ん?」
有美子:『何で○○の家おんの?』
武元:「それは……」
有美子:『それは?』
武元:「色々あって」
有美子:『便利な言葉使うな』
武元:「昨日○○にも言われた」
有美子:『そりゃ言われるでしょ』
ため息が聞こえる。
そして。
向こうで何か揉める音がした。
梨名:『代われ』
有美子:『痛い痛い痛い!』
梨名:『代われ』
有美子:『暴力反対!』
数秒後。
電話の向こうの声が変わった。
梨名:『もしもし』
武元:「おう」
梨名:『何してんの』
武元:「それ私も聞きたい」
梨名:『違う』
梨名:『何で○○の家おんの』
武元:「そこか」
梨名:『そこ』
即答だった。
流石に誤魔化せない。
武元:「色々あったんよ」
梨名:『便利な言葉使うな』
武元:「もうわかったって」
梨名:『当たり前』
しばらく沈黙。
やがて。
梨名が小さく息を吐く。
梨名:『泣いたん?』
武元:「……」
梨名:『あー』
武元:「何やその反応」
梨名:『いや』
梨名:『そりゃ○○の家行くわ』
武元:「どういう意味」
梨名:『そのまま』
意味が分からない。
本当に。
分からない。
武元:「何で」
梨名:『だって』
梨名:『あんたら昔からそうじゃん』
武元:「どれ」
梨名:『どっちも困ったら相手んとこ行く』
武元:「そんなことない」
梨名:『ある』
有美子:『ある』
武元:「何で戻ってきたん」
有美子:『スピーカーだから』
武元:「最悪や」
有美子:『私も話したいもん』
少しだけ笑う。
その笑い声に。
二人とも少し安心したようだった。
有美子:『でもさ』
武元:「ん?」
有美子:『○○ん家かぁ……』
梨名:『よりによって過ぎる』
武元:「何が」
梨名:『何も』
有美子:『何も』
武元:「絶対何かあるやろ」
梨名:『いや』
梨名:『だって』
梨名:『○○はあんたと絡むと馬鹿になるし』
武元:「は?」
思わず聞き返した。
有美子:『あー』
有美子:『それはある』
武元:「待て待て待て」
武元:「何の話」
梨名:『知らんかったん?』
武元:「何を」
梨名:『大学時代』
梨名:『あいつ何回彼女と別れたと思う?』
武元:「知らん」
有美子:『三回』
武元:「そんな付き合ってたんや」
有美子:『付き合ってたよ』
武元:『へぇ』
有美子:『でも長続きしなかった』
梨名:『全員』
武元:「何で」
そこで。
電話の向こうが少し静かになる。
有美子:『さ、さぁ?』
梨名:『ほ、本人に聞けばええんとちゃう?』
武元:「何それ」
有美子:『でも』
有美子:『毎回同じだった』
武元:「?」
有美子:『良い子なんだけど』
有美子:『何か違う、相性が噛み合ってない感じ』
武元:「……」
梨名:『意味分からんよな』
有美子:『本人も分かってなかったし』
何となく。
胸のどこかが引っ掛かった。
でも。
理由は分からない。
知らない四年間。
知らない恋愛。
知らない○○。
その存在を初めて実感した気がした。
有美子:『まぁ今はどうでもいい』
武元:「おい」
有美子:『それより』
梨名:『飯食った?』
武元:「食った」
有美子:『寝た?』
武元:「寝た」
梨名:『泣いた?』
武元:「……」
有美子:『泣いたなこれは』
梨名:『泣き虫唯衣ちゃんやからな』
武元:「うるさい」
久しぶりだった。
こんな風に笑ったのは。
少なくとも。
昨日よりは少しだけ。
楽になっていた。
有美子:『まぁ』
有美子:『正直安心した』
武元:「何が」
有美子:『○○の家にいること』
武元:「……」
梨名:『それはある』
武元:「何でや」
有美子:『あいつ変なことせんし』
梨名:『というか出来んし』
武元:「ひど」
有美子:『いや事実』
梨名:『事実』
思わず笑ってしまう。
でも。
確かにそうだった。
昨日。
あれだけ滅茶苦茶なことを言ったのに。
○○は何もしなかった。
何も求めなかった。
何も聞かなかった。
ただ。
そこにいてくれた。
有美子:『だからさ』
武元:「ん?」
有美子:『今は甘えとき』
武元:「……」
梨名:『珍しく有美子がまともなこと言ってる』
有美子:『失礼すぎん?』
梨名:『事実やし』
有美子:『殴るぞ』
梨名:『怖』
また笑う。
自然と。
肩の力が抜けていた。
有美子:『でも』
有美子:『無理はしないでね!』
梨名:『そうそう』
有美子:『何かあったら電話して』
梨名:『何もなくてもしてきて』
武元:「暇人か」
梨名:『暇人や』
有美子:『認めるんかい』
くだらない。
本当にくだらない。
でも。
そのくだらなさが少しだけ嬉しかった。
武元:「……ありがと」
数秒。
電話の向こうが静かになる。
有美子:『うん!』
梨名:『珍しい』
武元:「何が」
梨名:『素直』
武元:「うるさい」
有美子:『じゃあまた連絡する』
梨名:『生存報告忘れんで』
武元:「了解」
通話が切れる。
静かな部屋。
でも。
さっきまでの静けさとは違った。
孤独じゃない。
そんな感じだった。
武元:「……さて」
ゆっくり立ち上がる。
視線が部屋を見回す。
昨日は気付かなかった。
余裕なんてなかったから。
でも。
改めて見る。
○○の家。
○○の生活。
○○の時間。
武元:「暇やな」
有休。
予定なし。
行く場所なし。
やることなし。
だから。
少しだけ部屋を歩く。
棚。
本棚。
テレビ。
観葉植物。
知らない四年間がそこにあった。
武元:「あいつこんなん置くんや」
小さく笑う。
高校時代の○○なら絶対買わなかっただろう。
そういう物も増えていた。
知らない時間。
知らない日々。
その事実は少し寂しかった。
でも同時に。
少しだけ知りたいと思った。
どんな社会人になったのか。
どんな毎日を送っていたのか。
どんな風に笑っていたのか。
そして。
どんな恋愛をしていたのか。
武元:「……」
そこで。
ふと昨日の言葉を思い出す。
⸻
『俺は覚えてる』
⸻
たったそれだけ。
何気ない言葉。
でも。
何故だろう。
ずっと耳に残っていた。
武元:「ほんま変な奴」
そう呟いて。
唯衣は少しだけ笑った。
昨日より。
ほんの少しだけ。
前を向きながら。
一方その頃。
昼休み。
会社近くのカフェ。
有美子はスマホをテーブルへ置いた。
有美子:「切れた」
梨名:「そっか」
少しだけ。
二人とも安堵する。
昨日からずっと連絡が取れなかった。
既読も付かない。
電話も出ない。
流石に心配だった。
有美子:「声聞けて良かったぁ……」
梨名:「それはそう」
有美子:「正直ちょっと泣きそうだった」
梨名:「重い」
有美子:「うるさい」
コーヒーを飲む。
少しだけ沈黙。
やがて。
梨名が口を開いた。
梨名:「で」
有美子:「うん」
梨名:「調べた」
有美子:「私も」
二人とも表情が少し曇る。
楽しい話ではなかった。
有美子:「会社の子に聞いた」
梨名:「うん」
有美子:「結構有名だったみたい」
梨名:「だろうね」
有美子:「忙しくなってから荒れたらしい」
梨名:「噂は聞いてた」
有美子:「女関係も」
梨名:「聞いてた」
ため息。
二人とも。
全く驚いてはいなかった。
有美子:「唯衣には言わなかったけど」
梨名:「言えるわけない」
有美子:「本人楽しそうだったしね」
梨名:「うん」
幸せそうだった。
本当に。
だから。
言わなかった。
言えなかった。
有美子:「結果論だけど」
有美子:「言っとけば良かったかな」
梨名:「それは違う」
有美子:「……」
梨名:「どうせ信じなかった」
即答だった。
有美子も否定しない。
多分。
その通りだった。
恋をしていたから。
信じていたから。
だから傷付いた。
有美子:「まぁ」
有美子:「今はそれより」
梨名:「○○だな」
有美子:「○○だね」
また沈黙。
そして。
二人同時にため息を吐く。
有美子:「よりによって」
梨名:「よりによって」
被った。
また同時だった。
有美子:「何であいつなんだろ」
梨名:「唯衣だから」
有美子:「それはそう」
高校時代から知っている。
困った時。
迷った時。
泣いた時。
何故かあの二人は。
最終的に相手の所へ行く。
梨名:「本人達気付いてないけど」
有美子:「周りはみんな知ってたよね」
梨名:「うん」
有美子:「付き合うと思ってた」
梨名:「私も」
文化祭。
体育祭。
放課後。
帰り道。
いつも一緒だった。
だから。
誰もが思っていた。
いつか付き合うと。
でも。
付き合わなかった。
有美子:「青春ってやつ?」
梨名:「知らん」
有美子:「雑」
梨名:「事実」
そして。
梨名は少しだけ真面目な顔になる。
梨名:「でも」
有美子:「ん?」
梨名:「○○大丈夫かな」
有美子が苦笑する。
有美子:「そっち?」
梨名:「そっち」
即答だった。
梨名:「唯衣は大丈夫」
梨名:「今はあいついるから」
有美子:「うん」
梨名:「問題は○○」
有美子:「あー……」
納得する。
してしまう。
大学時代。
何度も見てきた。
恋愛が上手くいかない理由。
本人も分かっていない理由。
その答えを。
二人だけは知っていた。
有美子:「言わない?」
梨名:「言わない」
有美子:「だよね」
それは。
本人が決めることだから。
そして何より。
今はそんな話をする時じゃない。
梨名:「まぁ」
有美子:「うん」
梨名:「しばらく様子見」
有美子:「賛成」
そう言いながら。
二人とも同じことを思っていた。
頼むから。
今度こそ。
誰も傷付かないでくれと。
○○:「っくしゅん!」
後輩:「風邪ですか?」
○○:「いや、大丈夫大丈夫」
○○:「今日、鼻がすっごいムズムズする。」
帰りに薬かってかえろうかなぁ…
スマホが震える。
また有美子からだった。
有美子
『そういえば』
武元
『ん?』
有美子
『今何着てるん?』
武元
『服』
有美子
『当たり前やろ』
梨名
『○○の服?』
武元
『……』
有美子
『あっ』
梨名
『あっ』
武元
『うるさい』
有美子
『着てるんや』
武元
『着替えないんやからしゃーないやろ』
梨名
『高校の頃なら顔真っ赤やったのに』
武元
『高校生と一緒にすんな』
有美子
『いやでも面白い』
武元
『何が』
有美子
『あんたが○○の服着てるん』
武元
『ほんまうるさい』
思わずため息を吐く。
でも。
少しだけ笑ってしまった。
昔もこんな感じだった。
くだらないことでからかわれて。
反論して。
結局笑う。
そんな毎日だった。
有美子
『そういえば』
有美子
『大学二年くらいからやったよね』
武元
『何が』
梨名
『あんたが○○と遊ばんくなったん』
武元
『……』
指が止まる。
有美子
『彼氏出来てから』
梨名
『彼氏優先やったし』
武元
『うるさい』
有美子
『事実』
梨名
『事実』
否定出来なかった。
その頃は。
本当に彼氏中心だった。
楽しかった。
好きだった。
だから。
何も考えていなかった。
気付いたら。
○○との連絡は減っていた。
有美子
『そういえば』
有美子
『○○怒ってた?』
武元
『え?』
有美子
『連絡減ったこと』
武元
『……』
少し考える。
思い返す。
最後にまともに会ったのはいつだっただろう。
最後に電話したのは。
最後に二人で話したのは。
思い出せない。
それくらい前だった。
武元
『分からん』
梨名
『怒るわけないやろ』
武元
『でも』
梨名
『あいつやぞ』
それだけだった。
妙に説得力があった。
有美子
『まぁ寂しそうではあったけど』
武元
『え』
有美子
『大学の時』
梨名
『あー』
武元
『何それ』
有美子
『いや』
有美子
『急にあんたの話せんくなったから』
武元
『……』
梨名
『そのくせ連絡来たら普通に嬉しそうやったし』
武元
『何それ』
有美子
『知らん』
梨名
『知らん』
胸の奥が少しだけざわつく。
知らなかった。
本当に。
そんなこと考えたこともなかった。
その頃の自分は。
彼氏のことで頭がいっぱいだったから。
有美子
『まぁでも』
有美子
『あいつ普通にモテてたし』
武元
『は?』
梨名
『モテてた』
武元
『○○が?』
有美子
『失礼』
武元
『いや』
武元
『良い奴やとは思うけど』
梨名
『だからモテるんやろ』
武元
『そういうもんなん?』
有美子
『そういうもん』
梨名
『大学でも告白されてたし』
有美子
『社会人なってからもあった』
武元
『へぇ』
本当に知らなかった。
そんな話。
聞いたこともなかった。
有美子
『本人全然気付いてないけど』
梨名
『重症やったな』
武元
『それは分かる』
有美子
『毎回』
有美子
『え、そうなん?』
有美子
『って顔してた』
武元
『あー』
梨名
『あー』
三人とも同じ顔が思い浮かんだ。
少しだけ笑う。
でも。
笑いながら。
唯衣は部屋を見回した。
整理された棚。
綺麗なキッチン。
作り置きの入った冷蔵庫。
観葉植物。
高校時代には無かったものばかりだった。
武元:「……」
知らない四年間。
いや。
正確には。
大学二年から今までの四年間。
自分が知らなかった時間。
その間に。
○○もちゃんと大人になっていた。
当たり前のことなのに。
何だか少しだけ不思議だった。
そして。
少しだけ。
知りたいと思った。
残業はなかった。
それでも。
気付けば外は薄暗くなっていた。
○○:「疲れた……」
首を鳴らしながらマンションへ入る。
エレベーター。
廊下。
足は自然と早くなる。期待していないつもりなのに、胸のどこかが落ち着かなかった。
見慣れた玄関。
ポケットから鍵を取り出す。
そこでふと思う。
○○:「……」
いるかな。
いや。
いないかもしれない。
昨日はあんな状態だった。
でも。
今日は少し落ち着いていた。
なら。
実家に帰ったかもしれない。
有美子達の所へ行ったかもしれない。
その方が普通だ。
だから。
鍵を開けながらも。
特に期待はしていなかった。
ガチャ。
ドアを開く。
○○:「ただいまー」
何となく言う。
返事は無いと思っていた。
武元:「おかえり」
○○:「っ」
返事が来た。
思わず固まる。
リビングから聞こえてきた声。
聞き慣れた声。
でも。
この家で聞くのは初めてだった。
武元:「何その顔」
○○:「いや」
武元:「何」
○○:「いるんだなって」
武元:「失礼やな」
○○:「帰ってるかと思ってた」
武元:「追い出された覚えないけど」
○○:「それもそう」
少しだけ笑う。
その瞬間。
ふわりと匂いがした。
○○:「……ん?」
顔を上げる。
キッチンを見る。
そして。
嫌な予感がした。
○○:「唯衣」
武元:「ん?」
○○:「何した」
武元:「何も?」
○○:「疑問形やめろ」
⸻
○○:「唯衣」
武元:「ん?」
○○:「何した?」
武元:「何もしてないけど?」
○○:「その言い方やめろ」
嫌な予感しかしなかった。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
そして。
恐る恐るリビングへ向かう。
テーブルの上。
皿が二枚。
味噌汁。
サラダ。
そして。
何か。
何かだった。
○○:「……」
武元:「……」
○○:「これ何?」
武元:「ハンバーグ」
○○:「そうか」
武元:「その反応やめて」
○○:「いや」
○○:「頑張ったんやなって」
武元:「今絶対違うこと考えてたやろ」
○○:「考えてない」
武元:「考えてた」
○○:「ちょっとだけ」
武元:「正直やな」
思わず笑ってしまう。
久しぶりだった。
こんな風に笑ったのは。
○○:「でも何で急に?」
武元:「ん?」
○○:「料理」
武元:「……」
少しだけ視線が逸れる。
武元:「世話になってるし」
○○:「そんなことないやろ」
武元:「あるって」
○○:「まぁ、そういうことにしとくか」
武元:「何それ」
また笑う。
でも。
今度はすぐに言葉が続かなかった。
武元:「何か」
武元:「返したかったんよ」
静かな声だった。
○○は何も言わない。
武元:「合鍵も」
武元:「家も」
武元:「飯も」
武元:「全部」
武元:「私、何も返せてへんし」
そこで。
少しだけ沈黙が落ちる。
○○はテーブルを見る。
焦げ気味のハンバーグ。
不揃いなサラダ。
少し濁った味噌汁。
正直。
見た目はひどかった。
でも。
それだけだった。
○○:「いただきます」
武元:「いや待って」
○○:「何で?」
武元:「覚悟決める時間ちょうだい」
○○:「作ったのお前やろ」
武元:「それはそう」
椅子へ座る。
一口食べる。
数秒。
沈黙。
武元:「……」
○○:「……」
武元:「……どう?」
○○:「死なへん、ウェルダンのその先なだけ」
武元:「最低」
○○:「生きてるから大丈夫」
武元:「基準低すぎるやろ」
○○:「でも」
そこで。
○○は少しだけ笑う。
○○:「ありがとな」
唯衣が固まる。
○○:「普通に嬉しい」
武元:「……」
○○:「作ってくれたんやろ」
武元:「まぁ」
○○:「じゃあ十分」
それだけだった。
大袈裟なことは言わない。
ただ。
その一言に、唯衣は小さく目を伏せた。
返したかっただけだった。
なのに。
食卓には、少しだけ柔らかい空気が残る。
焦げたハンバーグを挟んで。
二人は静かに笑った。
食事が終わる。
正直。
ハンバーグは酷かった。
でも。
全部食べた。
○○は何も言わなかった。
文句も。
嫌味も。
味について触れることすらなくて、その優しさが逆に胸に刺さった。高校の頃なら、きっともっと意地を張っていただろう。
気まずくなるはずの時間なのに、責められないことがこんなにも救いになるなんて思わなかった。一度も言わなかった。
武元:「ごちそうさま」
○○:「おう」
立ち上がる。
皿を持つ。
すると。
○○が手を伸ばした。
○○:「置いとけ」
武元:「何で」
○○:「洗うから」
武元:「私がやる」
○○:「やらんでいい」
武元:「……」
○○:「頑固やな」
武元:「そっちやろ」
数秒。
睨み合う。
そして。
○○:「じゃあ拭く係」
武元:「子供扱いされた」
○○:「皿割られたら困るし」
武元:「失礼やな」
○○:「否定出来る?」
武元:「出来へん」
少しだけ笑う。
並んでキッチンへ立つ。
水の音。
皿の音。
静かな時間。
不思議だった。
高校の頃は。
こんな時間なかったから。
放課後はあった。
帰り道もあった。
でも。
こうして並ぶことはなかった。
あの頃は、ただ一緒にいるだけで満足していた気がする。近くにいるのが当たり前で、その当たり前がどれほど特別かなんて考えもしなかった。
○○:「そういや」
武元:「ん?」
○○:「有美子から連絡来た」
武元:「あー」
○○:「めちゃくちゃ怒られた」
武元:「私も」
○○:「だろうな」
武元:「だろうな」
また笑う。
自然と。
本当に自然と。
会話が続く。
沈黙も苦じゃない。
それが少しだけ不思議だった。
四年近く連絡も取っていなかったのに。
まるで昨日まで話していたみたいだった。
そう感じるたびに安心して、同時に少しだけ戸惑う。失った時間は確かに長かったはずなのに、その距離がふと消えてしまう瞬間がある。
違うのは。
高校生じゃないこと。
それだけだった。
武元:「……」
いや。
違う。
それだけじゃない。
目の前の○○は。
自分の知らない時間を生きてきた。
知らない恋愛をして。
知らない失敗をして。
知らない毎日を過ごしてきた。
それなのに。
変わらない部分もある。
昔と今が重なって見えるたびに、懐かしさと寂しさが胸の奥で静かに揺れた。
だから。
少しだけ。
知りたいと思った。
失われた時間を埋めたいのか、それとも今の○○を知りたいのか、自分でもまだ分からないまま。
武元:「なぁ」
○○:「ん?」
武元:「大学ん時さ」
その瞬間。
流れていた水音だけがやけに大きく聞こえた。
○○の手が止まる。
ほんの一瞬。
それだけなのに。
胸が妙にざわついた。
大学。
たった一言。
けれどそこには。
二人が知らなかった四年間がある。
会えなかった時間。
聞けなかった話。
知らない誰かと過ごした日々。
知らない痛みも。
知らない幸せも。
全部。
そこにある。
今まで避けていたわけじゃない。
ただ。
踏み込めなかった。
踏み込めばもう、昔みたいな懐かしい再会だけではいられなくなる気がしたから。
○○がゆっくり顔を上げる。
武元も息を飲む。
ここから先は。
失われた四年間の話だ。
空白だった時間が。
ようやく動き始める。
○○がゆっくり顔を上げる。
一瞬だけ手が止まる。視線が合った途端、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
久しぶりにまともに目が合った気がした。
たったそれだけなのに、思っていたより嬉しい自分がいて、武元は少しだけ戸惑う。
○○:「大学?」
武元:「うん」
○○:「急やな」
武元:「今更やけど」
○○:「まぁ確かに」
蛇口を閉める。
最後の皿を流し終える。
静かなキッチン。
さっきまで聞こえていた水音が消えると。
耳の奥が妙に静かになった。
その静けさに押されるように、指先が少しだけ落ち着かなくなる。
せっかく二人きりなのに。
何を聞けばいいのか分からない。
聞きたいことはたくさんあるはずなのに、時間が空きすぎてしまった。
武元:「何してたん?」
○○:「大学で?」
武元:「うん」
○○:「授業」
武元:「そういうこと聞いてへん」
○○:「バレたか」
少し笑う。
口元は昔と同じなのに、その笑い方だけ少し余裕がある気がした。
高校の頃と変わらない。
こういう時だけ妙にふざける。
けれど昔なら、そのあと自分から話を広げていた。
聞いてもいないことまで楽しそうに話していた。
そんな記憶があるからこそ、今の淡白な返しが少しだけ寂しい。
武元:「ちゃんと答えて」
○○:「何やろな」
○○は少し考える。
視線が宙を泳ぐ。
そして肩を竦めた。
○○:「バイトしてた」
武元:「何の?」
○○:「居酒屋」
武元:「似合うな」
○○:「めちゃくちゃ働かされた」
武元:「それも似合う」
○○:「失礼やな」
また笑う。
でも。
唯衣は気付いていた。
高校の頃なら。
きっともっと話していた。
自分のことを。
楽しかったことも。
大変だったことも。
話し始めたら止まらないくらいに。
でも今の○○は違う。
話さないわけじゃない。
ただ。
言葉の手前でそっと蓋を閉じるみたいに、必要以上に語らない。
その横顔が少し遠く見えて。
知らない時間の長さを思い出した。
自分が知らない四年間を、○○はもう当たり前のように抱えている。
その事実が、思った以上に胸に引っ掛かった。
武元:「サークルとか?」
○○:「野球」
武元:「やっぱり」
○○:「やっぱりとは」
武元:「好きやもん」
○○:「まぁな」
あっさり認める。
その迷いのなさが何だか可笑しい。
同時に、その短い返事だけで会話が終わってしまうことに少しだけ物足りなさも覚えた。
武元:「じゃあ大学生活楽しんでたんや」
○○:「それなりに」
武元:「ふーん」
○○:「何やその反応」
武元:「別に」
少しだけ視線を逸らす。
シンクの縁を指でなぞる。
聞きたいことは別にある。
誰と過ごしていたのか。
好きな人はいたのか。
自分がいなくなったあと、何か変わったのか。
でも。
喉元まで出かかった言葉が、そのまま引っ掛かる。
何となく。
踏み込めば何かが変わってしまう気がした。
○○:「唯衣は?」
武元:「ん?」
○○:「大学」
武元:「普通」
○○:「絶対嘘や」
武元:「何で」
○○:「普通の奴はそんな即答せん」
武元:「失礼やな」
○○:「当たってるやろ」
当たっていた。
少なくとも。
大学二年からは。
普通ではなかった。
楽しかった。
講義の帰り道も、休日も。
気付けば誰かのことばかり考えていた。
だから。
夢中だった。
スマホの通知欄から名前が少しずつ下へ流れていっても。
その時は何も思わなかった。
そして。
気付けば。
連絡しなくなっていた。
返さなかったメッセージも。
後回しにした連絡も。
今になって思い出せるのに、その時は振り返りもしなかった。
武元:「……」
胸の奥がきゅっと縮む。
飲み込んだ息が少し重い。
○○:「どうした」
武元:「いや」
少し迷う。
言わなくてもいい。
そう思ったのに。
そして。
ぽつりと呟いた。
武元:「ごめんな」
○○:「何が?」
武元:「連絡」
その一言で。
空気が少しだけ変わる。
自分の声だけがやけに大きく聞こえた。
武元:「大学二年くらいから」
武元:「全然せんかったし」
武元:「私から離れたし」
言ってしまった。
ずっと引っ掛かっていたこと。
有美子達との話で思い出してしまったこと。
胸の奥に残っていた小さな棘。
本当はずっと気になっていた。
○○がどう思っていたのか。
少しくらいは寂しかったのか。
怒っていたのか。
でも。
○○は少し首を傾げるだけだった。
○○:「そんなこと?」
武元:「そんなことちゃうやろ」
○○:「いや」
○○:「彼氏出来たんやろ?」
武元:「……」
○○:「普通やん」
あっさり。
本当にあっさり言う。
拍子抜けするほど自然で。
責める気配も。
引き留める気配もない。
その淡白さに救われるはずなのに、胸のどこかが少しだけ痛んだ。
○○:「むしろ連絡してきたら怖いわ」
武元:「何でや」
○○:「彼氏泣くやろ」
武元:「確かに」
思わず笑ってしまう。
肩から少し力が抜ける。
でも。
それだけじゃなかった。
○○:「別に気にしてへんよ」
静かな声。
何でもないみたいに。
本当に何でもないみたいに。
言うから。
余計に胸の奥がざわついた。
少しくらい責めてほしかったのかもしれない。
少しくらい寂しかったと言ってほしかったのかもしれない。
そんな身勝手な期待に気付いて、武元は小さく息を飲む。
自分だけが。
勝手に距離を作った気がして。
自分だけが。
勝手に終わらせた気がして。
それなのに。
○○の表情には責める色がどこにもない。
そして。
そんな自分を責めることもなく。
○○は今も目の前で笑っていた。
その事実が。
目を細めたくなるくらい。
少しだけ眩しかった。
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまで流れていた会話が止まる。
でも。
嫌な沈黙じゃなかった。
○○:「何やその顔」
武元:「別に」
○○:「嘘つけ」
武元:「失礼やな」
○○:「分かりやすいねん」
そう言って笑う。
昔と同じ顔。
でも。
どこか違う。
その違和感の正体がまだ分からない。
武元:「なぁ」
○○:「ん?」
武元:「有美子達がさ」
○○:「うん」
武元:「モテてたって言うてた」
その瞬間。
○○の顔が露骨に歪んだ。
○○:「誰が」
武元:「あんた」
○○:「嘘や」
武元:「即否定やん」
○○:「いや嘘やろ」
武元:「本人やのに?」
○○:「だからや」
真顔だった。
本気で言っている。
唯衣は思わず吹き出した。
武元:「有美子達も同じこと言うてた」
○○:「何て」
武元:「自覚ないって」
○○:「ないやろ」
武元:「あるんやって普通」
○○:「ない」
即答。
迷いゼロ。
昔からそうだった。
褒められても。
評価されても。
どこか他人事みたいな顔をする。
武元:「彼女おったんやろ」
○○:「おったな」
武元:「複数回」
○○:「おったな」
武元:「モテてるやん」
○○:「違うやろ」
武元:「何が」
○○:「たまたまや」
武元:「その理論初めて聞いた」
また笑う。
でも。
少しだけ気になった。
武元:「楽しかった?」
○○:「ん?」
武元:「恋愛」
初めて。
その話題へ踏み込む。
○○は少し考えた。
本当に少しだけ。
○○:「どうやろ」
武元:「曖昧やな」
○○:「楽しかったよ」
そこで言葉が切れる。
唯衣は続きを待つ。
でも。
続かない。
○○:「普通に」
それだけだった。
何となく分かる。
この人は今。
話したくないんじゃない。
上手く言葉に出来ないんだ。
武元:「別れたんは?」
○○:「まぁ」
武元:「まぁ?」
○○:「合わんかったというより、恋人じゃなくても良かったってなった」
短い返事。
でも。
その言葉の奥に何かある気がした。
大学のことも。
恋愛のことも。
仕事のことも。
きっと色々あったんだろう。
自分が知らない四年間で。
それでも。
○○は愚痴を言わない。
誰かの悪口も言わない。
それが少しだけ不思議だった。
武元:「大人になったな」
○○:「誰が」
武元:「あんた」
○○:「失礼やな」
武元:「高校の時もっと子供やった」
○○:「お互い様やろ」
武元:「まぁな」
笑う。
自然と。
本当に自然と。
その笑顔を見ながら。
唯衣は思う。
知らなかった四年間は。
もう戻らない。
でも。
これから知ることは出来るのかもしれない。
今の○○を。
少しずつ。
その後も。
二人は他愛もない話をした。
大学のこと。
仕事のこと。
有美子の愚痴。
梨名の変わらなさ。
話題はころころ変わって。
気付けば時計の針は随分進んでいた。
○○:「そろそろ寝るか」
武元:「あ」
反射的に時計を見る。
思ったより遅い。
○○:「風呂入るなら先どうぞ」
武元:「ん」
立ち上がる。
でも。
部屋へ戻ろうとして。
少しだけ足が止まった。
○○:「どうした」
武元:「いや」
何でもない。
そう言おうとして。
言えなかった。
代わりに出てきたのは。
武元:「ありがと」
○○:「ん?」
武元:「色々」
静かな声だった。
○○は少しだけ目を丸くする。
そして。
困ったように笑った。
○○:「気にすんな」
武元:「そういうとこやぞ」
○○:「何が」
武元:「別に」
言わない。
言えるわけがない。
自分でもまだ整理出来ていない。
ただ。
昨日の自分なら。
こんな風に笑えていなかった。
それだけは確かだった。
○○:「じゃあおやすみ」
武元:「おやすみ」
部屋のドアが閉まる。
静かな夜。
昨日と同じ部屋。
昨日と同じベッド。
なのに。
全然違った。
天井を見上げる。
胸の奥にあった重たいものが。
少しだけ軽くなっている。
全部解決したわけじゃない。
彼のことも。
仕事のことも。
何一つ終わっていない。
それでも。
今だけは。
少しだけ休んでもいい気がした。
スマホが震える。
画面を見る。
有美子。
梨名。
グループLINE。
有美子
『生きてる?』
梨名
『生存確認』
武元
『生きてる』
有美子
『よかった』
梨名
『明日も報告』
武元
『親か』
有美子
『保護者や』
梨名
『保護者や』
思わず吹き出す。
そのままスマホを胸の上へ置く。
ふと。
視線が合鍵へ向いた。
テーブルの上。
昼間受け取った銀色の鍵。
返そうと思えば返せる。
明日にでも。
すぐにでも。
でも。
武元は手を伸ばさなかった。
ただ。
静かに目を閉じる。
明日も。
ここにいる。
そのことに。
もう理由はいらなかった。
