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第5話:NICU、退院・・そして現在

産科とNICUは隣接していて、24時間、いつでも息子に会いに行けた。
最初の2日は検査があり、授乳や抱っこができない状態だったが、夫に車いすを押してもらって2人でNICUに行き、息子の顔を眺めていた。そして夫が帰った後も、また一人でNICUに行き、何時間もただただ息子の横に座っていた。

NICUには他の赤ちゃんとその親もいるけれど、話したりすることはない。それぞれの状況がまるでわからないし、症状を聞くことも、遠慮してできない。私だって、もし赤ちゃんの状態を聞かれたとしても、「私にも分からないんですよ」と答えるしかなかったと思う。
一方、私のベッドのある産科では、産後のお母さんたちが自分の子供を抱っこしながら、出産や赤ちゃんについて和気あいあいと話している。まるで別世界だった。

私のベッドのある4人部屋は、NICUに赤ちゃんがいる母親でまとめられていた。母子同室の病院だったが、その部屋に新生児が来ることはなく、母親同士がしゃべることもない。私たちの病室は静かだった。

授乳という名の格闘

その翌日から、授乳指導が始まった。

初産で、かつ赤ちゃんに力強く吸ってもらうこともできない状態では、なかなかおっぱいが出ない。それでも絞り出してください、と言われ、数10分かけて10ミリを絞り出していた。おっぱいはいつも真っ赤になっていた。

NICUで息子におっぱいを吸わせてみるが、小さくて哺乳力がなく、体力もないためすぐに眠ってしまう。起こしながら、1時間ほどかけても、飲む前と飲んだ後で体重を測ると、増えていても2グラム、減っていることもあった。当然それだけでは足りないので、そのあとにミルクをあげる。でもそれも15ミリ飲ませるのに1時間ほどかかった。

病室に戻ると次は搾乳。搾乳しているとベッドにあるマイクが鳴る。「NICUです。赤ちゃんが泣いているのですが、抱っこしに来ますか?」

1時間授乳して、1時間ミルクを飲ませ、数十分の搾乳。その合間にシャワーやトイレ、自分の食事——気付けば次の授乳時間になっている。15分以上のまとまった睡眠がとれない日が続いた。

搾乳室という別世界

搾乳は、始めは自分のベッドの上でしていたが、少しおっぱいが出てくると搾乳機を使うため、新生児室の横の搾乳室で行うようになった。搾乳機は元気に生まれた新生児のお母さんたちも使うため、搾乳室はとてもにぎやかだった。

私はすみっこで、誰とも話さずに搾乳していた。「どの赤ちゃんのお母さんですか?」と話しかけられるのが怖かった。

隣の新生児室で赤ちゃんが泣くと、看護師さんが明るい声で搾乳室に入ってきて「○○くんのお母さん、泣いてますよ~」と声をかける。そのやりとりは朗らかで、NICUから呼ばれる緊張感とはまるで違った。

そんな日が何日か続いたころ、睡眠不足に限界を感じた私は、産科の看護師さんに「次の搾乳はスキップしたい」と申し出た。朦朧としている私を見たNICUの看護師さんが「次のミルクは代わりますから、しばらく寝てください」と言ってくれたからだ。

その時、産科の看護師さんに言われた一言が、今でも忘れられない。

「え~。24時間母子同室だと、そんなこと言ってられないですよ?」

この言葉はナイフのように突き刺さった。
このころの私は、家族のだれにも責められていなかったけれど、私が私のことを責めていた。だからこそ、この言葉はキツかった。
私だって、出来ることなら予定日通りに元気に生んで、母子同室したかったよ!と叫びたかった。でも現実には、疲労と睡眠不足で、反論する気力もない。今の状況が母子同室よりもラクだなんてことは絶対にない、と確信はしていた。そもそも比べるものではないはずだ。でも、初産の私は、こう言われても、ただ黙ってうなだれることしかできなかった。

——3年後、第二子を出産した。元気に生まれた赤ちゃんと24時間母子同室。赤ちゃんは十分に大きくて哺乳力もあり、15分も授乳すれば体重が増えた。追加ミルクも必要ない。ゴクゴク飲んで、スヤスヤ眠る。それも3時間近く眠る。他の用事を済ませても、母の私は2時間は寝られる。毎回2時間まとまって寝られたら十分だ。日中は赤ちゃんが寝たらヒマすぎたくらいだった。このラクさは何だろう。驚きとともに、あの時の看護師さんの言葉が蘇る。もちろん私のケースは、一人目が人一倍大変で、二人目が人一倍ラクだった、という自覚はある。それでも、あの、傷付けられたあの日のあの言葉、あの時の打ちのめされた自分に声をかけてあげたい。「そんなことないよ!この人は全然わかってないよ!睡眠不足、辛いよね。ものすごく頑張ってるよ!」

NICUで見た光景

NICUに通ううちに、気になる保育器があった。他の赤ちゃんより、たくさんのおもちゃが置いてあった。入院が長いのだろう、生まれるのを楽しみに買いそろえていたものを全部持ってきている感じだった。メリーやぬいぐるみ、ベビーカーもあった。

ある日、その赤ちゃんのそばにご両親とお医者さんが立っていた。お母さんが「諦めたくありません」と言って泣いていた。

胸がギュッと締め付けられた。私には彼らの状況を知る由もない。そちらに顔を向けることもない。静かなNICUの中で響く声を聞きながら、私はただただうつむいて、息子を抱っこしていた。

退院、そして通院の日々

帝王切開から1週間以上が経ち、私自身は退院できる状態になった。通常であれば、親子で退院するのだけれど、息子の入院は続く。退院後は術後の体でお見舞いにくることになるため、2週間までは入院を延長できる、とのことだった。その時たまたま産科のベッドに空きがあったのもラッキーだった。この2週間の間に、私の体はさらに回復し、入院中だと24時間息子に会いに行けたので、本当によかった。

退院後は、毎日、搾乳した母乳を持って病院に通った。面会時間に合わせて自分で運転していたので、運転できるまでに回復できた、あの延長入院期間があってよかった、と改めて思った。赤ちゃんが家にいないのに、夜も3時間毎に起きて搾乳するのは悲しかったけれど、それでも、毎日母乳を届けているうちに、息子は少しずつふっくらとしていった。

しばらくして息子はNICUからGCUに移った。GCUには窓があり、日の光が入る。重篤ではなくなったという証拠だった。日の光が入るだけで、NICUとはまるで別世界のように明るく感じた。陽だまりの中、面会時間の許す限り、一日中抱っこしていた。このころようやく、私自身も幸せを感じれるようになっていた。

何度か小児科の先生と面談があった。その時の内容を備忘録として書いておきたいと思う。まず、1600グラムは36週にしては非常に小さいけれど、36週まで胎内にいたことで臓器が完成していたのは非常によかった。ただ、肺から少し雑音が聞こえる。これは慎重に見ていきましょう。免疫力が通常より弱いので風邪を引いただけで重篤化してしまったケースもあります。特にRSウィルスには気を付けてください。

息子を連れて帰った日

出産から1か月ほどが経ったころ、息子の体重がようやく2500グラムを超え、ついに退院できることになった。

息子を連れて帰る日、私はドキドキしていた。初めて太陽の下を抱っこで歩いた。泣きたいくらいに幸せだった。これからはこの子を一生守るんだ—そんなことを思いながら、家路についた。

慌ただしくも幸せな日々

そのあとは、他の新米ママと同じく、初めての子育てに悪戦苦闘の日々を過ごした。

何をしても泣き止まない赤ちゃん。置いたら泣く、を繰り返し、気づいたら朝日を拝んでいた朝が何度あったかわからない。昼間にふと見せる天使のような寝顔。はじめて笑った日、はじめて寝返りした日、はじめて立った日、はじめて歩いた日。息子のことだけを考えて、息子の顔だけを見て過ごす毎日だった。

体がしんどい瞬間はあった。でも、いつでも一緒にいられるという安心感が、すべてを上回っていた。息子と一緒に見る景色は、同じ景色でもまるで違って見えた。すべてがきらきらと輝いていた。

市が行っている検診とは別に、息子を生んだ病院でも3か月毎に一度の検診があった。流れ作業ではなく、息子の成長を一つ一つ丁寧に確認してくれた。「今回も大丈夫ですね」と言われるたびに、私も一歩ずつ、前に進んでいる感覚があった。

気がつけば、半年が経っていた。ある日、必要な書類に名前を記入しようとして、文字がうまく書けないことに気がついた。読むことも、書くことも、ほとんどしていなかったからだ。それほどまでに、あの頃の私は息子との生活に没頭していた。

そして今

小さく生まれた息子は、母子手帳にある成長曲線の枠外ではあったものの、順調に、少しずつ、大きくなっていった。小学校低学年の時、ようやく成長曲線の一番下に入ったことを覚えている。
そのあともすくすくと成長し、現在は中学1年生。母子手帳を見ることもなくなったが、いつの間にか成長曲線の真ん中あたりに入り、人並みに思春期を迎え、いろいろ悩みながらも、運動部に入って毎日活き活きと、生きている。

1656グラムで生まれた息子は、みんなに愛され、今、元気でいます。

もちろん、妊娠・出産は千差万別、これはただの我が家のケースで、他の誰にも当てはまらないことは百も承知です。それでも、同じような状況で、今夜も検索しているお母さんへ。この経験が、その誰かに届いて、少しでも参考になれば嬉しいです。

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