エスカレーター
エスカレーターを降りた、その一歩先で、世界は意外と無防備となる。
平日の帰り道。
人の流れに乗って、私は下りのエスカレーターに立っていた。
無言の列。
終わりに近づくにつれて、足の裏にわずかな緊張が走る。
あの「降りる」という一瞬は、
誰もが同じタイミングで同じ動きを求められる、
ちょっとした共同作業のようなものだ。
前にいたのは、シルバーカーを引いた人だった。
ゆっくりと、でも確実に終わりへ向かっていく。
そして、問題はその直後に起きた。
その人はエスカレーターを降りた瞬間、
ぴたりと立ち止まり、スマートフォンを取り出して画面を見始めた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
後ろにはまだ人の流れが続いている。
私はそのままぶつかりそうになる。
さらに後ろの人たちも、連鎖的に詰まっていくことが予想される。
危ない。
そう思った瞬間、言葉が口から出ていた。
「そこで立ち止まると危ないですよ。」
少し強かったかもしれない。
自分でもわかるくらいに、反射的で、余白のない言い方だった。
その人は、はっとしたように顔を上げて、
無言でシルバーカーを押して進んでいった。
それで流れは元に戻った。
何事もなかったかのように、また人は歩き出す。
けれど、私の心の中には小さなざらつきが残った。
私は「正しいこと」を言ったのだと思う。
実際、危険だったし、誰かが転んでいてもおかしくなかった。
でも同時に、「言わなくてもよかったかもしれない。」という感覚も残る。
あの人は、もしかしたら急ぎの連絡を確認していたのかもしれない。
あるいは、ただの癖だったのかもしれない。
理由はわからない。
ただ一つ確かなのは、
私はその瞬間、「危険を回避する側」に立ったということだ。
エスカレーターの終点は、誰かの無意識が他の誰かのリスクになる場所だ。
そして、そこに割り込むように発せられる言葉もまた、
別の意味での「強さ」を持っている。
注意することは、時に正しさを伴う。
けれど、その正しさは、鋭い。
あの一言は、必要だったのか。
余計だったのか。
別の言い方があったのか。
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