なぜ生きるのか、まだ学びの途中で
「なぜ自分は生きているのか」
ふと、そう問いかける人がいる。私もそうだった。そして今もなお、その問いの途上にいる。
正直に言ってしまえば、私はまだ答えを完成させていない。Genesis Vaultで2,200本以上の記事を書いてきて、ありがたいことに「学びになった」「役に立った」と言ってくださる方がいる。本当に感謝している。でも、私自身は全然まだまだだと思っている。まじで。本当に。
なぜなら、最も重要なコアの部分を、まだ学びきれていないからだ。
知っているのに、できない
学んだはずなのに、行動にインストールできない瞬間がある。
口だけが動いて、身体が動かない。頭の中には知識としてあるのに、いざというときに引き出せない。私はこれを「学びがまだ足りていない証拠」だと捉えている。
本当に「知っている」というのは、行動にインストールされた状態のこと。そこに至っていないなら、それはまだ「聞いたことがある」のレベルにすぎない。知恵が、まだ足りていない。
ゴールは「理想のスタイルを手に入れること」だ。でも、そこに到達できていないなら、ゴールを正しく認識すらできていない可能性がある。だから私は、いまも学びの途中にいる。
「生き続けるもの」の三つの条件
その上で、暫定的な答えとして、いま一つだけ思っていることがある。
「なぜあるコンテンツは、思想は、習慣は生き続けるのか」。この問いに対する私の現在地は、こうだ。
一つ、サステナブルであること。
百年、二百年と続けられるか。途絶えないか。その保証があるか。
二つ、面白いこと。
退屈なものは続かない。続けたいと思える魅力があるか。
三つ、みんなやっていること。
自分一人だけのものは、自分が消えれば終わる。多くの人が共有し、引き継いでいける形になっているか。
そして、この三つを束ねるのが「ルーティン」なんだと思う。
祈りでもいい。読書でもいい。朝の散歩でもいい。日々のなかに繰り返される、ある種の儀礼的な行為。これが「生き続けること」を支える骨格になる。
AI時代に残るもの
AIが出てきて、世界が大きく変わろうとしている。
それでも、こうした「ずっと続いてきた、みんながやっている、ルーティン的なもの」は、相変わらず残り続けると私は思う。
宗教的なもの、と言ってもいい。
ただし、日本でこの言葉を使うと誤解されやすい。新興宗教やカルトを連想する人が多いからだ。でも、私が指しているのはそれじゃない。
もっと根源的な、「人類が長く続けてきた、続けることそのものに意味がある営み」のこと。祈り、儀礼、共同体、季節の祝祭。そういうものは、AIが進化しても消えないと思っている。むしろ、AIが進化するからこそ、人間にとっての「変わらないもの」の価値が際立つはずだ。
学びは、まだ途中
だから私は、まだ学びの途中にいる。
ゴールはおぼろげに見えている。でも、そこに到達するためのピースはまだ揃っていない。だから今日も書く。今日も考える。今日も読む。
「ひらめきを真剣に生きる」とは、たぶん、こういうことなのだろう。
来た、見た、勝った。
そう言える日まで、私はまだ歩いている途中だ。
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