見出し画像

エピクテトスの二分法と仏教の無我|同じ基準で、なぜ逆の結論になるのか

割引あり

「変えられるものと、変えられないものを見分けなさい」

エピクテトスの言葉として、最もよく知られたものです。自己啓発の本にも、経営の本にも出てきます。コントロールの二分法、という名前で呼ばれることもあります。

この考え方は、実際に効きます。今日から使えます。使うべきだと思います。

ただ、原典を開くと、流通している要約とは少し違うことが書かれています。そして、エピクテトス自身が使った判定基準を、もう一歩だけ先に進めると、立っていた足場のほうが消えます。

その一歩を進めた人が、五百年前のインドにいました。

この記事では、エピクテトスの『提要』第一章と、ブッダがサールナートで説いた無我相経を並べます。二人は驚くほど似た問いを立て、ほとんど同じ判定基準を使い、そして正反対の結論に達しています。

同じ内容をYouTube「原典で読む哲学と仏教」でも公開しています。


エピクテトスが、実際に挙げた四つ

まず、この人が誰だったかを少しだけ。

エピクテトスは、奴隷の身分から出発した人です。名前そのものが「獲得されたもの」を意味すると言われます。つまり、所有物としての名前です。そして足が不自由でした。主人に脚を折られたという逸話が伝わっていますが、これは後世の伝聞で、確かな裏づけがありません。足が不自由だったこと自体には記録がありますが、その原因は分からない、というのが正確なところです。

いずれにせよ、この人は自分の身体を他人に支配される立場から始めました。「身体は自分次第ではない」という一文は、机の上で考えられたものではありません。

『提要』(ギリシャ語でエンケイリディオン)は、弟子のアリアノスがまとめた小さな本です。エピクテトス自身は何も書き残していません。講義を聞いた弟子が記録した。その点は、ブッダと同じです。

第一章は、こう始まります。存在するもののうち、あるものは我々次第であり、あるものはそうではない。ギリシャ語で、エプ・ヘーミン。直訳すれば「我々にかかっている」「我々の側にある」。

我々次第のものとして、エピクテトスは四つ挙げます。

判断。衝動。欲求。忌避。そして、ひとことで言えば、我々自身の行いであるもの。

我々次第でないものも、四つ。

身体。財産。評判。地位。そして、ひとことで言えば、我々自身の行いでないもの。

ここで気づいてほしいのは、身体が「自分次第でない」側に入っていることです。自分の体なのに、自分次第ではない。病気になるかどうか、老いるかどうかは決められません。

そして続けてエピクテトスは、我々次第のものは本性上自由であり、妨げられることも束縛されることもない、と言います。これはかなり強い主張です。判断や欲求は完全に自由だと述べている。

流通版では、ここが少しずれます。「自分の反応はコントロールできる」と要約されることが多い。方向は合っています。ですがエピクテトスが言っているのは反応一般ではなく、判断を下す働きそのものです。何かの印象がやってくる。それに同意するか、しないか。そこが自分の領域だ、と。

この考え方は第五章ではっきりした形になります。人を悩ませるのは物事そのものではなく、物事についての判断である。死そのものは恐ろしくない、恐ろしいという判断が恐ろしいのだ、と。

なお、この線引きは西洋の内部でも問われてきました。現代のストア派研究者のなかには、欲求や忌避は完全には制御できないのではないか、と考える人がいます。だから二分法ではなく三分法にすべきだ、という提案です。完全に自分次第のもの、まったくそうでないもの、そして部分的にしか自分次第でないもの。これはエピクテトスの原典そのものではなく現代の再解釈ですが、線引きが揺れていること自体は覚えておいてください。

ブッダは、同じ基準を心にも当てた

場所はインドのサールナート。鹿野苑と呼ばれ、ブッダが最初の説法をした土地として知られています。その二番目の説法が、ここでの主題です。

相応部の第二十二篇、五十九番。無我相経(アナッタラッカナ・スッタ)。

ブッダの論証を、そのまま追ってみます。

形あるもの、つまり身体は、自己ではない。なぜか。もし身体が自己であるなら、身体は苦しみをもたらさないはずだ。そして「私の身体はこうあれ、こうあるな」と言えるはずだ。しかし実際には言えない。だから身体は自己ではない。

構造だけ取り出すと、こうです。自分のものであるなら、思い通りになるはずだ。思い通りにならない。だから自分のものではない。

エピクテトスと、まったく同じ基準です。支配できるかどうかで、自分の領域を決めている。二人のあいだには五百年の時間と六千キロの距離がありますが、判定の道具が同じです。思想史のなかでも珍しい一致だと思います。

問題はこの先です。

エピクテトスは、身体のところで線を引いて止まりました。身体は自分次第ではない、判断は自分次第だ、と。

ブッダは止まりません。同じ論証を、心に対しても走らせます。

感受、表象、意志のはたらき、意識。この四つに、一つずつ同じ形で問いを立てます。もし感受が自己であるなら「私の感じ方はこうあれ」と言えるはずだ。言えない。だから自己ではない。もし意志のはたらきが自己であるなら「私の衝動はこうあれ」と言えるはずだ。言えない。だから自己ではない。

身体とこの四つ、合わせて五つで人間のすべてを見る。これを五蘊と呼びます。

二つの一覧が、重なる場所

ここで、二つの一覧を並べてみてください。

エピクテトスが「我々次第」とした四つ。判断、衝動、欲求、忌避。

ブッダが「自己ではない」とした心のはたらき。感受、表象、意志のはたらき、意識。

重なっています。衝動と、欲求。この二つは両方の一覧に入っていて、しかも正反対の側に置かれている。

エピクテトスは、欲求は我々次第だと言う。ブッダは、思い通りにならないから自己ではないと言う。同じものを見て、逆の結論に達しています。

試すことができます。いま嫌いなものを一つ思い浮かべて、それを好きになってください。命令として、今すぐ。できないはずです。行動なら変えられます。嫌いなものに近づくことも、笑顔で接することもできる。ですが欲求そのものを、命令で入れ替えることはできない。

ブッダの論証はこの一点を突いています。君は自分の心の王ではない。王であるなら、領土は命令に従うはずだ。

なお、この経には続きがあります。ブッダは弟子たちに問いの形で確認していきます。身体は常か無常か。無常です。無常であるものは安楽か苦か。苦です。では無常であり変化するものを「これは私のものだ、これは私だ、これは私の自己である」と見なすのはふさわしいか。ふさわしくありません。

つまり二本の道から同じ結論に来ています。一本目は、支配できないから自分のものではない。二本目は、移り変わるから自分のものではない。支配と、無常。この二つが同じ場所を指しています。

どちらが正しい、という話ではない

ここまで読むと、ブッダのほうが正しかった、という話に見えるかもしれません。そうではありません。二人は違う問題を解こうとしています。

エピクテトスの二分法は、行動のための道具です。朝、無数の心配ごとが押し寄せる。そのうちどれに手をかけるべきか。この問いに極めて強力に答えます。天気は自分次第ではない、だから考えない。準備は自分次第だ、だからやる。実際に効きます。

では、ブッダの議論は何のためか。二分法を実行した、そのあとに起きることのためです。

こういう経験があると思います。これは自分次第ではない、と正しく判定した。それなのに、まだ気になっている。考えるなと決めたのに、考えている。判定は正しいのに、心が従わない。

このとき、通俗化されたストア派はこう言います。まだ努力が足りない、もっと自分を律しなさい。

ブッダの答えは違います。前提のほうが間違っていた、と言う。君は最初からその心の持ち主ではなかった。持ち主でないものをうまく支配できないことを、自分の失敗だと思う必要はない。

これは諦めではありません。無我という教えは「何もできない」という意味ではない。仏教は修行という膨大な実践の体系を持っています。もし何も変えられないのなら、八正道も瞑想も意味を失います。

言われているのはもっと狭いことです。心は、王に対する領土のようには、あなたのものではない。働きかけることはできる。所有することはできない。この二つは違います。

だから、問いが一つ増えます。エピクテトスの問いは「これは自分次第か」でした。ブッダはその手前にもう一つ置きます。「いま、そう問うている自分とは何か」。

実践に落とす

今日いらだったときに、二段階でやってみてください。

第一段階。これは自分次第か、と問う。自分次第でないなら、手を離す。ここまではエピクテトスです。

第二段階は、手を離せなかったときです。そこで自分を責めない。代わりに観察に切り替える。

具体的には、言い方を変えます。「私がいらだっている」ではなく「いらだちが起きている」。主語を自分から外してみる。たったこれだけですが、やってみると距離が変わります。自分がいらだっている、と言うとそれを止める責任が自分に来ます。いらだちが起きている、と言うと、それは観察の対象になります。

この二段階目があるかどうかで、うまくいかなかった日の意味が変わります。失敗の記録ではなく、観察の材料になる。

ここから先に収録しているもの

ここまでで、二人の論証と実践の要点はすべてお伝えしました。無料部分だけでも、明日から二段階の問いは使えます。

有料部分に置いているのは、この記事を「自分で原典に当たって検証できる」ようにするための資料です。ギリシャ語とパーリ語の用語まで含めて整理したものは、日本語では他にほとんどありません。

収録内容は六つです。

一、『提要』第一章の全項目と、ギリシャ語原語の対照表。「判断」「衝動」「欲求」「忌避」がそれぞれどの語で、訳者によってどう訳し分けられるか。誤読しやすい箇所の注記つき。

二、無我相経の論証構造の完全な図解。五蘊それぞれに同じ論証が適用される様子を、パーリ語の定型句とともに一覧化。後半の無常・苦・無我の三段も含みます。

三、ギリシャ語・パーリ語・日本語の三言語用語対照表。エプ・ヘーミン、プロハイレシス、五蘊の各語について、原語、直訳、通用訳、そして「この訳語だと誤読する」注意点をまとめています。

四、支配のテスト・14日間ワークシート。日々の出来事に二段階の問いを当てて記録する形式。何が実際に自分次第だったかを、感覚ではなくデータで確認します。

五、反論と留保。この記事の対比に対して成り立つ反論を、こちら側から先に挙げています。ストア派の側からの応答(第一次的動きの理論、三分法の提案)、仏教学の側からの論点(無我は「自己は存在しない」を意味するのか)、そして両者を比較すること自体の限界。ここが最も分量を割いている部分です。

六、読書ガイド。どの翻訳から入るべきか、それぞれの版の特徴と注意点。原典に当たるための具体的な入口です。

ここから先は

4,654字

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?