はじめまして、東雲です|哲学と仏教を原典で読み比べるチャンネルを始めました
はじめまして。東雲(しののめ)と申します。
ストア派やエピクロス派といった西洋哲学と、初期仏教。この二つを、原典に当たって読み比べるYouTubeチャンネル「原典で読む哲学と仏教」を始めました。この記事では、なぜこのチャンネルを作ったのか、何を扱っているのかをお伝えします。
YouTubeチャンネルはこちらです。
きっかけは、ある一つの疑問でした
「怒りを抱えるのは、熱い石炭を掴むようなものだ」
こういう言葉を、ブッダの名言として見かけたことがあるかもしれません。実は、これを説いたのはブッダではありません。五世紀の注釈者です。原典を開くと、石炭ではなく燃えさしと汚物という、まったく違う比喩が出てきます。
こうした例は、一つや二つではありません。
「今この瞬間に、判断を加えず、意図的に注意を向けること」というマインドフルネスの定義。これが訳している元の語、サティは、文字どおりには記憶を意味します。1881年に英語へ訳した学者自身が、そう書き残しています。
「痛みは避けられない、苦しみは選べる」という言葉。ブッダの言葉ともダライ・ラマの言葉とも言われますが、最初の出典は確認できていません。
哲学や仏教の名言、あるいは「よく言われる解釈」には、こうした食い違いが驚くほどたくさんあります。そして厄介なのは、その食い違いに気づいても、原典を実際に開いて確認する人は、ほとんどいないということです。
私自身、最初はただの興味から、こうした言葉の出典を一つずつ調べ始めました。調べていくうちに、驚くことに何度も出会いました。通説が丸ごと間違っているというより、大事な部分が抜け落ちている。そういうケースが大半でした。
このチャンネルは、その調べる作業を、動画と記事の形にしたものです。
「原典で読む哲学と仏教」というチャンネルについて
コンセプトは、西洋哲学と仏教を、原典に当たって読み比べることです。
ストア派のエピクテトス、マルクス・アウレリウス、セネカ。エピクロス派のエピクロス。そして初期仏教のパーリ経典、法句経、ダンマパダ。これらを、章節番号まで確認できる形で扱います。
なぜ二つを並べるのか。理由は、両者がしばしば似た言葉で語られながら、前提となる世界観がまったく違うからです。
たとえば、ストア派には「変えられるものと変えられないものを見分けよ」という有名な考え方があります。仏教にも、支配できないものは自分のものではない、という論証があります。判定の基準はほとんど同じです。ですが、その基準を心そのものにまで及ぼすかどうかで、二人はまったく逆の結論に達しています。
こういう「近づいたと思ったら、途中で分かれる」瞬間を、毎回一つずつ確認していくのが、このチャンネルです。
このチャンネルの3つの方針
出典のない名言は、扱いません。誰の言葉か分からないもの、章節番号を示せないものは、扱いの対象にしません。
解釈が分かれる箇所は、分かれていると述べます。断定できないことを、断定して話すことはしません。
特定の宗派や団体とは関係がなく、信仰を勧めることもしません。
書き手である私自身も、研究者でも僧職者でもありません。原典を読んで、確認しているだけの一個人です。ですから、誤りに気づいた際はぜひ教えてください。確認のうえ、訂正します。
最初の10本について
チャンネル開設にあたって、まず10本の動画を用意しました。すべて15分前後で、YouTubeで無料公開しています。
第1回 ブッダの名言は、ほとんどが本人の言葉ではありません 冒頭で触れた、熱い石炭の比喩の出典を追います。
第2回 エピクテトスの「コントロールの二分法」は、途中で止まっています ストア派の有名な二分法を、仏教の無我の議論まで一歩進めるとどうなるか。
第3回 一の矢と二の矢|矢の経とセネカの怒り論 仏典の痛みの分析と、セネカの怒りの三段階が、珍しく一致する回です。
第4回 マインドフルネスの語源は「記憶」だった サティという語が、1881年にどう訳され、何が抜け落ちたのか。
第5回 メメント・モリと諸行無常は、目的が違います 死を思うという実践が、西洋・仏教・そして日本の無常観で、それぞれ何を目指しているか。
第6回 エピクロスは快楽主義者です。ただし彼が考えた快は違いました 「快には上限がある」という、エピクロスの意外な主張。
第7回 業(カルマ)は過去の報いではありません。そして運命愛はニーチェの言葉です 二つの誤解を、原典で正します。
第8回 悪いことを予め想像しておく実践と、その危険 ストア派の予めの想定と、仏教の不浄観。効く条件とやってはいけない条件。
第9回 非難されない人は存在しません|自省録と八風が説く、他人の評価の扱い方 マルクス・アウレリウスと仏教の八風、そして法句経の三つの答え。
第10回 アパテイアと無執着は別物です ストア派の不動心と仏教の無執着。二重の誤解と、シリーズ全体の結論です。
この10本で、シリーズの基礎が一通りそろっています。どこから見ていただいても構いませんが、第2回と第10回を続けてご覧いただくと、このチャンネルが伝えたいことの骨格がいちばん早く掴めると思います。
noteとYouTubeの使い分け
動画では扱いきれない出典の詳細、原語の逐語対訳、実践用のシートなどは、このnoteに置いています。動画は「聞いて分かる」、noteは「手元に残して確認する」という役割分担です。
更新は週2本、月曜と木曜です。YouTubeで動画をご覧になったあと、詳しい典拠が気になったときに、noteを覗いていただければと思います。
さいごに
このチャンネルは、名言や通説を「間違っている」と切り捨てる場所ではありません。むしろ、なぜその通説が生まれたのか、どこで何が抜け落ちたのかを、丁寧に追いかける場所です。多くの場合、通説にもそれなりの理由があり、原典にはそれ以上の理由があります。
出典を一つ確認するたびに、言葉が少し軽くなります。減らした分だけ、残ったものが効いてきます。そんな感覚を、これからも共有していけたらと思っています。
YouTubeチャンネルはこちらです。よろしければ、ご覧ください。
過去の記事の一覧は、下記のマガジンにまとめています。
