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浦島太郎が可哀想だったから、私は優しい時間旅行を書きたいと思っている 〈エッセイ〉

 今日は、以前あらすじを公開した物語『無限トラベル』について、なぜこの構想を思いついたのかを書いてみたい。

本編はまだ創作途中だが、この物語の出発点には、子供の頃に感じたある違和感がある。

子供の頃、浦島太郎の話を聞いて、少し可哀想だと思った。

浦島太郎は、悪いことをしたわけではない。 いじめられていたカメを助けたのだ。

それは、小さな子供にもわかる良い行いだった。

ところがその結果、竜宮城で楽しい時間を過ごし、地上に戻った時には、長い年月が過ぎていた。

知っている人はいなくなり、自分の居場所もない。 最後には玉手箱を開けて、老人になってしまう。

子供の頃の私は、そこに納得できなかった。

カメを助けたのに、なぜ浦島太郎は幸せになれなかったのだろう。

これでは、助けなかった方がよかったようにも思えてしまう。

そう感じるほど、あの結末は可哀想だった。

もちろん大人になれば、昔話に込められた教訓もわかる。

開けるなと言われた箱を開けてしまったこと。

知らない世界へ行く危うさ。

楽しい時間と現実とのずれ。

そして、時間は戻らないということ。

けれど子供の私は、もっと単純に思っていた。

良いことをした人が、なぜこんな結末を迎えなければならないのか。

誰かを助けた人が、自分の時間と居場所を失うのは、あまりに可哀想ではないか。

その感覚が、たぶん私の中にずっと残っていた。

時間を超える物語は、昔からたくさんある。

過去や未来へ行く話。 時間が止まる話。 未来から誰かが来る話。

私も、そういう物語が好きだった。

けれど自分で時間を扱う物語を考えた時、ふと思った。

浦島太郎のように、時間のずれで帰る場所を失う物語でなくてもいいのではないか。

行った人も、待っている人も、できるだけ不幸にならない時間旅行を書けないだろうか。

そこで考えたのが、時間が完全に止まる世界ではなく、時間が10倍になる世界だった。

完全に止めると、少し都合が良すぎる。

逆に大きくずらしすぎると、浦島太郎のように切なくなる。

ちょうど良い時間差にしたかった。

現実の1時間が、向こうでは10時間。

3時間なら30時間、1日と6時間。 6時間なら60時間、2日半。

現実の世界で長めの外出が許されるのは、せいぜいこのくらいだ。

家族に、行方不明になったのではないかと心配されるほどではない。

社会から消えるわけでもない。

それでいて本人には、学び、旅をし、歴史を知るための十分な時間が生まれる。

帰る場所を失う時間差ではなく、新しい自分に出会うための時間差である。

時間を得た人間は、何をするのか。

遊ぶこともできる。 眠ることもできる。

何もしないこともできる。

けれど私が描きたいのは、時間を得た人間が、自分の中に眠っていた可能性を少しずつ発揮していく物語である。

人はもともと才能がないのではなく、それを試す時間が足りないだけなのかもしれない。

語学を学びたい。 世界を旅したい。 歴史を知りたい。

本を読みたい。

そう思いながらも、現実には仕事があり、生活があり、年齢があり、時間の制限がある。

「いつかやりたい」と思っているうちに、いつかは遠くなっていく。

もしその「いつか」を、少しだけ近づけることができたら。

人生の中に、もう一つの時間を持つことができたら。 人はどこまで変われるのだろう。

もちろん現実の私たちは、時間を10倍にはできない。

けれど、時間の使い方は変えられる。

何となく過ぎていく1時間と、目的を持って使う1時間は、同じ1時間でも意味が違う。

『無限トラベル』で描きたいのは、ただ便利な時間旅行ではない。

時間を得た人間が、過去から学び、今の自分を見つめ直し、未来を変えていく物語である。

過去に戻って人生を都合よくやり直すのではなく、過去を知ることで、今の選択を変える物語を。

私は、浦島太郎の結末を可哀想だと思った子供の頃の感覚を、今でもどこかで覚えている。

だから私は、別の時間旅行を書きたい。 カメを助けた人が、すべてを失う物語ではなく。

旅に出た人が、成長して帰ってこられる物語を。

待っている人が、ちゃんとそこにいてくれる物語を。

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『無限トラベル』のあらすじは↓こちらで読めます。

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