人生の意味って、一旦必要ないんじゃないか
昔は自分がなんで生きているんだろうってよく思ってきたけれど、最近は、生きる意味を必ずしも持つ必要はないのかもしれない、と思っている。
こう書くと、どうもマイナスに捉えられがちなのだが、別に生きる意味がわからなくて無気力だとか、困窮しているとか、そういう話ではない。
むしろ、より希望的な話だ。
ここ最近の私は、以前よりも「自分は大いなる流れの一部である」という感覚が強くなった。諸行無常の中で生きているみたいな。ちょっとちがうかも。
まあ要は、自分が生きる世界に自分の力で与えられる影響なんてたかが知れてるし、自分がどれだけ努力しても結局は環境が結果を決めるから仕方がないという感覚があるのだ。
それなら、あらゆる努力は無駄で報われないから意味が無いのかというと、それはちょっと違う。
努力が意図した結果に辿り着かないことはままあるが、努力がより良い自分に向かったものならば、その「努力をした自分」というものは、努力をしなかったifの私より確実に良い。それはそれで、肯定できるものだと思う。
ただ、世界は自分の行動とは完全に連動せずに結果を返してくる。これは、世界が設計されたものではなくただ結果を反映しているだけにすぎないと認識している。
たとえば、人間の身体ですら、綺麗に設計されたシステムには見えない。糖質は際限なく食べたくなるし、「そこは脳で調整してくれ」と思うこともある。「なんで上手くできていないんだ」と思うが、それはそもそも進化の過程であり完成品では無いからだ。
人間はまだ進化の途中で、猿から人間になったみたいに、この先また別の何かになるのかもしれない。あるいは、その前に滅ぶのかもしれない。
人類の時間軸を数直線に書き出した時、今も私の死も右端に無い、むしろ今は左側3分の1とかにあるような視点が頭の片隅にある。私という存在は人類の単位で見たとき繰り返されるトライアンドエラーの1つの結果に過ぎず、大量のサンプル品の一つである。
そういうことを考えていると、生きる意味についても感覚が変わってきた。
以前は「なぜ生きるのか」という問いに、何か立派な答えが必要だと思っていた。そうあるべし、その方がいいかのような錯覚があった。でもいまは、そんなこと考えるだけ野暮なんじゃ無いかという気がする。
でも今は、死に際に「こういう人生だった」と自分で思えれば、それで十分なのかもしれないと思っている。もしかしたらそれが生きる意味だと言われるかも知れないが、まあそれでも問題はない。
生きていくことは産まれたことの結果でしかなく、意味なんてものは全部後付けで問題ない。だから、自分は自分がいいと思うことを少しずつ続けて、なんとなくいい感じに日常を消化すればいいのだ。
