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私と依存。

私の人生は「依存」とのお付き合いの歴史と言ってもいい。

たばこ、喫茶店、人、缶コーヒー、演劇、演劇部、等々。

かつてカウンセラーに、「あなたの脳は依存脳です」と言われた事がある。言われたときはピンと来なかったけれど、50才を越えて「確かにな」と、言わざるを得ない。依存への入り方はそれぞれだし、止め方もそれぞれだ。

人と依存していた時は、こちらから難癖(?)を吹っかけて、距離をとることになって、「あぁ、近づきすぎていたんだな」と分かるも、もう元の関係には戻れない。いや、元の関係が依存の関係で、今の方が正常に近いのだ。ちょっとだけ苦しさもあるけれど、今の方が健康だ。

今、卒業しようとしているのは、ノンアルコールビールだ。朝でも、昼でも、夕でも、夜でも、飲みたさがあった。どれだけお金を費やしたことか。何度も卒業に挑戦したが、何度も失敗した。しかし今度は10日が経った。もう元に戻るのは、もったいないと思い始めている。この思いが定着すれば一山越えたと言える。それまでは、1日1日、こらえるのだ。

ただ依存症になりやすい人は、
依存を止めればそれで完了というわけではないという事も分かってきた。
依存を止めるだけでは、次の依存先を探し始めるだけなのだ。

先日、ある例えを知った。

「例えば、泳げない人がいたとします。彼は、今、浮き輪につかまって、海を漂っています。浮き輪だけが頼りと思って必死につかまっています。しかし、別のある人が強引に浮き輪を奪ってしまったとしたら、どうでしょう。その人は、溺れてしまうかもしれません。その人は、必死に、別の浮き輪を探すことでしょう。浮いた流木につかまるかもしれません。これが依存症者です」。

私は、ノンアルコールビールという浮き輪を、今手放している。最初は苦しかったが、10日経って、その苦しさはやわらぎつつある。しかし気を抜くと飲みたさは顔を出す。一本飲んだら元通り。ノンアルコールの味を思い出してしまう。忘れることが肝。今はまだ浮き輪を探してあがいている状態だ

ゴールはもうお分かりかと思う。浮き輪を探すのではなく、自分が泳げる、浮くことができる事を全身で納得することだ。具体的に言うと生活を整えることだ。溺れていることは苦しい。しかし自分は浮けるのだ。ある程度、人の手助けを借りながらではあるけれど、基本自分の手足で生活することだ。

今、私はサイゼリヤにも依存している。ここも金食い虫だ。毎日のサイゼリヤから抜ける準備もしている。何度目かの自炊の挑戦だ。

読んでくださって、ありがとうございました。
自分の手足で生きられるようになる事は、自尊心を取り戻す事。

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