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寛やかな心の前で

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青鳥楓子あおとりふうこだった時代

青鳥楓子は小説用のペンネームだ。学研から『シナモンは愛のスクープ』(90年1月23日刊)という少女小説、いまでいうライトノべルを出すことになってつけた名前だ。

ふざけた名前をつけたものだが、わたしは案外気に入っていた。青い鳥は憧れだったし、青と楓の赤のコントラストがきれいだと思った。

バブル崩壊の直前の異様な好景気で、本は出せば売れるという時代。老舗の集英社コバルト文庫が空前の大ヒット中だったこともあり、各社こぞって中高校生向けの文庫を月何冊、週何冊という単位で出していた。
そんな時代の流れの中でわたしにも「小説書いてみない?」という話が舞い込み、書いたこともなかったのにいきなり小説で文庫本を出すことになった。

ひとつ気がかりなことがあった。
フリーの記者とはいえ、私のいた編集部では他誌の仕事は厳禁という暗黙の了解があったのだ。契約書はなかったが、扱いは契約社員でその不文律は絶対だった。
同じ出版社であっても別の雑誌の仕事は禁止だった。他誌の仕事をしなくとも生活できるギャラを提供しているんだからねという無言の圧力が絶えずあった。よその仕事をするくらいなら、こっちも取材してきてよ、もっと早く原稿をあげてよという圧に、わたしたちフリーランスは誰も逆らおうとはしなかった。
もちろんこっそり仕事をしている人もいたけれど、駆け出しのわたしなどが編集者にばれたら「やめてくれていいよ」ということになりかねない。
そこで本名がばれないように突拍子もない名前を考えた。
それが青鳥楓子だった。

少女小説全盛期

青鳥楓子で小説を書いたのは『シナモンは愛のスクープ』1冊だけ。
知人を通して紹介された編集者と簡単な打ち合わせをした。
「女性記者としての仕事にまつわるお話にしてほしいんですよ」
「なるほど」
「軽めの恋愛ありです。ただ、プラトニックで心理描写中心でお願いします」
「淡い憧れ程度ですか」
「そうですね」
そんな依頼からぼんやりストーリーを考え、プロットなんか出したのかなぁ。そんなものもすっ飛ばしていきなり小説にしちゃった気がする。週刊誌の仕事の合間に一気に書いた。
それでも初版で1万8千部とか刷ってくれたんじゃなかろうか。

1990年1月23日第1刷発行
GAKKENレモン文庫
イラスト 三梨まみ 
装丁 平山貴文

定価370円。本編210ページ、あとがきには当時拾った猫の話が書いてある。表紙も挿絵も漫画家さんが書いてくれた。それが当時の流行りだった。

ここで初めて〝契約‘’というものをしたはずだ。印税率10%。初版1万8千部として、37円×18,000が転がり込んだ。いい時代だった。

ーーあの頃はよかった的な昔語りをする大人にだけは
なりたくないと思っていたはずなのに、
最近のわたしのnoteはそんな話ばかりじゃないか? 嗚呼

高校生の主人公が、フリーライターの姉の代理でケーキ屋さんに取材に行って、、、というお話だ。
それを読んでくれたのか、たしか取り次ぎ店の人から週刊誌記者の苦労話を書いてほしいと言われたのかな。そのあたりの記憶は定かじゃない。
当時は、マスコミの仕事は花形のように言われていた。実像はともかく、フリーは特に派手で華やかな印象を持たれていたように思う。トレンディドラマなるものにオシャレで都会的なフリーライターが主人公の友人として登場してきたものだった。
そんな印象があったのか、女性記者の本音と仕事の実態について書いてほしい、、、というような具体的な指示があったようにも思うし、私自身は当時の雑感を、思いの丈を、とどのつまりは仕事の愚痴を自分勝手に書きつらねてストレスをまき散らしたようにも思う。それが『ゆるやかな心の前で』だった。

先日、女性週刊誌の時代的変遷や役割について現場の記者の話を聞きたいという人があり、インタビューを受けることになった。忘れていることも多く、かつて携わった記事などを見直していたら、あのとき社内誌に掲載された『ゆるやかな心の前に』の切り抜きとコピーが出てきた。
読み直してみると、いきなり涙がこみあげた。
そうだ、こんなことがあったっけね、、、、
すっかり忘れていたけれど、当時の自分を35年ぶりに思い出すことになった。

辛かったな。きつかったな。でも、いま思えばこういうキツイ体験がわたしのその後のキャリアを決定づけたように思う。

ほんとうによく頑張った、わたし。
自画自賛からここに再掲載したいと思います。


ゆるやかな心の前で

週刊誌特派記者  青鳥 楓子

『特派記者』というのが現在のわたしの肩書である。
取材で名刺を渡すと「なんですか?」と聞かれる。「特派員のモジリ
じゃないでしょうか」と、答えることにしている。本当かどうか知らない。フリーライターなんて言うと気恥ずかしい。実際のわたしはオシャレでもカッコ良くもないんだもの。

駆出しの頃、アポ取りの電話をかけるのが恐かった。見ず知らずの人に突然、電話して取材を申し込むのだ。職業、年齢など、その方に関する資料からあれこれと想像を巡らす。何時ごろに電話するのが失礼でないのか。
どんな風に言ったら良いだろうか。考えているうちに夜になる。

そんな夜は夢のなかで電話している。取材まで済ませてしまうこともある。スッキリして目が覚める。しかし、仕事は進んでいるはずもなく、電話の前で再び暗い気分になる。

正座をし、ダイヤルに向かって手を合わす。
「神さま、どうか上手くいきますように」

必死に思いは神さまでなく、受話器の向こうの相手に伝わるようだ。慢心してかけた電話につれない返事が返ってくることは多い。
この仕事を始めて9年半。電話の前の緊張はいまだに続いている。

アポを取らずに訪ねることも。事件の現場ではほとんどが
“いきなりピンポ~ン”作戦だ。なまじ電話を入れたおかげで相手に逃げられてしまう恐れもある。事件の場合、加害者であれ被害者であれ「今のお気持ちは?」なんて聞かれたくないに決まっている。ガチャンと切られるの関の山だ。

鉛のような足を引きずって、例えば被害者の家へ行く。家の作り、庭木などを眺めながら、心はまだ迷っている。家の周りをグルグル歩き回る。インターホンに手が伸びない。

やっと思いでベルを押し、相手が留守だったりするとホッとする。よかったァ!!  と叫びたくなる‥‥なんて書いたら編集に叱られるかなぁ。それでも出かけなければならないときは胃がキリキリ言い出し、神経性の下痢を併発する。汚い話でごめんなさい。

行った早々、怒鳴られることもある。
「あんた達はね、言論の自由、真実の報道とか言って、引きの迷惑を考えないのか!!」
ごもっともです。この言葉と共に思い出すのは60代半ばの男性のギラギラ光る目だ。

3年ほど前(87年)、大島の三原山が噴火し、島の人たちが避難したことがあった。わたしは都内の避難所に出かけていき、天災の怖ろしさ、避難の顛末を取材していた。

被災者のひとりZさんは毛布にくるまって涙をギラギラ光らせながら、大きな目をむいてこう言った。
「あんた等は人間じゃないよ。わたしはね、長年住んできた経験から島はまだ安全だと判断したから残ったんだ。それをまるで罪人のように追いかけ回して‥‥」

大島の住民が全員、島から脱出するなかで、Zさんは最後まで島に残った。失礼を顧みず言えば、マスコミにとっては格好のネタである。ドッと大挙して大島へ渡った報道陣は、誰もいなくなったはずの島にただ一家族だけで残ったZさんを追いかけ回した。
Zさんは困り果てた。家に潜んでいると記者やレポーターが縁側の戸をそっと開けて覗き込み「いたぞぉ」と叫びながら家のなかに侵入してくる。なかには夢中で土足のまま畳の部屋に上がり込んだ不届者もいたらしい。

「非常識にもほどがあるよ。あんたもね、今にああなるんだよ。女だってひどいもんだ」
Zさんの握りしめた拳に青い筋が浮かび上がり、細いひざの上でブルブルと震えた。

他紙、他局に遅れじと一分一秒を争う事件取材の場合、取材対象となる方は大変だ。取材陣が大挙して押しかけるだけではない。たったひと言の質問が相手を傷つけることもある。
苦しい心で吐露された言葉が記事を光り輝くものに仕上げる答えだった場合、質問が良かったと喜んで良いものだろうか。
ジャーナリズムって何だろう。
少なくともわたしは天国にはいけないだろう。

これも3年前になる。国鉄が民営化されるとき、長年、国鉄を誇りに働いてきた人たちのなかに自殺者が相次いだ。その遺族を取材することになった。わたしが訪れたのは北陸の町だった。長い冬がようやく終わり、雪解け水が勢いよく川を流れている頃だった。陽差しはまぶしいほど輝いて柳が小さな芽をつけ始めていた。そんな風景とは対照的に、そのお宅の黒瓦の屋根は重く家はひっそりとしていた。

亡くなったXさんの奥さんがいらした。色白の控えめな婦人は言葉もなく、頭を下げるばかりだった。
新聞報道によればXさんは定年まであとわずか、57歳の死の選択だった。日頃から無口な彼は、ある日ふっと姿を消した。手掛かりになることは家族にも同僚にも話していなかった。
一ヵ月後、家族の元に戻ったとき、Xさんの身体は冷たく、左腕には勤続30年で国鉄から授与された腕時計が光っていた。飛び込み自殺だった。生涯働き続けた線路の上でXさんは最後の瞬間を迎えたのだ。

「何もお話しすることはありません。申し訳ありません。そっとしておいてください」
奥さんはそれだけ言って奥へ入ってしまった。わたしは家の外に出たものの、何も考えられなくなってしまった。
立ち尽くしていると、Xさんのお父さんであろう。80歳を超えた老人が裏からハシゴを持って出てこられた。わたしの挨拶にうなずくように応えた後、白髪の老人はハシゴに登り、地面から屋根にまで渡してある雪除けの竹竿を外し始めた。わたしは老人の節くれだった指を黙って眺めていた。

もう帰ろう。帰って、取材はできませんでしたと編集に言おう。“良心爆弾”が炸裂する
そのとき、2歳と4歳くらいの男の子が転がるようにして玄関から出てきた。Xさんのお孫さんたちだ。三輪車に乗ってニコニコしながら、わたしのほうに寄ってきた。
無邪気な笑顔。わたしは救われるような思いだった。

しばらくの間、子どもたちの三輪車を押し、おもちゃの刀で遊んだ。そのうちに三輪車を取り合って、男の子たちは喧嘩し出した。下の子が泣き出す。
玄関がスーッと開き、先刻の奥さんが顔を出した。わたしの姿を見て一瞬、驚かれたようだった。わたしは恐縮して頭を下げた。

すると奥さんは扉いっぱいに開け、わたしを家のなかに招き入れた。
お茶を勧めてくれた後、仏壇のあるへ案内してくれた。
まもなく一周忌を迎えるという。仏壇には白菊が盛大に飾られ、床の間にはたくさんの供物に埋もれるようにしてXさんの遺影あった。お線香をあげ、手を合わせる。背後で奥さんがポツリポツリと話し始めた。

「まじめで真っ直ぐな人でした。間違ったことが大嫌いで、楽しみは本を読むぐらいでした。何も、何も言わなかった。せめて友だちと飲んで騒げるような人だったらよかったのに」

畳の上に涙が落ちた。普段は亡き夫と同じように無口な女性なのだろう。恨み言ひとつ言わず、黙って夫の葬式を出し、黙って一周忌の準備をしていたのだろう。その女性が初対面のわたしに、記者と名乗って得体の知れないわたしに、心の内を話してくださる。
どうして、こんなに優しく話せるんだろう。
自分の涙を照れて、奥さんは笑顔を作った。綺麗な笑顔だと思った。お茶の温かさがお腹の底に沁みた。
「ありがとうございました」
これだけをやっと言って、わたしはそお宅を辞した。

マスコミを支えるのは、わたしたち記者ではない。記者の熱意や誠意を信じて語ってくださる普通の人々の深くユルやかな心だと思う。

こういう出会いが、わたしをこの仕事に繋ぎ止めているのだろうと最近、思う。恩返しは行きあるページを作ること。それが果たしてできているかどうか ──。
今週もまた、胃が痛くなる。


初出 : しゅっぱんフォーラム 1990年 5月


フリーライターの華麗な?世界

『寛やかーー』には後日譚がある。
広報誌が出てまもなく、読んだと言う新聞社の方からまた依頼が舞い込んだ。
こうやって仕事というものは広がっていくものなのかと実感した。
ようやく記者として一人前になりつつあったのかもしれない。

とはいえ、ひとつの記事から次々と仕事が派生したのはこの時が最初で最後だったようにも思う。
やはり他媒体の仕事は厳禁という不文律が足を引っ張ったかな。
ただ報道となると、多媒体での仕事は情報漏れの危険が隣り合わせだ。だから、他誌の仕事厳禁もいたしかたなかったのかもしれない。
このこともわたしにとってはキャリアの分岐点といえるかもしれない。

わたしの愚痴に興味を持ってくれた新聞記者は赤旗の方だった。
「赤旗といっても特に共産党員じゃなければならないというものではないんです。特に、日曜版は党員以外の読者が多いので、赤旗に投稿したからといって共産党員というイメージがつくわけではありませんから」と、説明された。
まだまだ連合赤軍などのニュースが時折り、忘れた頃に報道される時代だったから、抵抗感のある人は多かったのだろう。
私の記事は、日曜版の家庭欄に掲載されている。書き起こすのも面倒になってきたのでコピーの複写だけ載せておきます。

1990年6月25日(月)
あれ? 日曜版じゃない? 

掲載紙は送ってもらったと思うけれど、担当の記者さんとは電話で話しただけでお会いしていない。当時は個人情報保護なんてことも言わなかったから、社内誌の担当者に問い合わせて電話番号を聞き、直接、わたしに電話をくださったのだろう。

それにしても上手に小見出し入れてくれたものだ。わたしはnoteの小見出し、いつも悩んでうまく入れられないのに。
プロの仕事は気持ちいい。

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まあまあ、こんな駄文にチップとは。俄然、やる気に拍車がかかります。一度書いてアップしたものでも実は何度も読み返し、読み返すたびに加筆、訂正、写真を挿入してみたりと絶えず変動しているものもございます。100%に近づけたくて悪戦苦闘しています。いただいたチップでホッと一息できそうな