『アパラプティは廻らない』2話 プレーマドヴェーシャ①

「ケガしてるんですか」

 褐色肌の青年だった。黒肌の少年はこの指輪に怯えた様子。

「見ればわかるだろう」

 足首を痛めているのは傍目からわからないかもしれないが、腕に深手を負っているのは流血の量で一目瞭然。

「ああ、ぼくは目が見えなくて。血の香りはわかったんですけど」

 青年の瞳はどこにも焦点があっていなかった。

「薬草とってくる時間あるかなあ」

 親切そうな青年と怯える少年。警戒しなくてもよさそうだが、その親切さは不自然。魔女アスラだとわかっているのだから、少年のように怖れるか、警戒するか、それが普通。一切の疑いなく善意で接する青年はむしろ薄気味悪い。特徴のない顔も不気味に思えてきた。仙聖リシなら肉眼が使えずともこちらの聖霊マンダラが視えるはずだが、全く気づいていない所からしてただの人間ではあるらしい。指輪もしていない。この眼も青年の清廉潔白を証明している。少年の好感度矢印が藍色の三角形である一方、青年は赤い円形矢印なのだから。といって警戒を怠る理由にはならない。何かしらの手段で外見を偽っている可能性もある。確かめるには刺激してみるしかない。

 聖霊マンダラの息吹であり構成原子の霊子プラナ蓮華輪チャクラから導脈ナーディに流し、こちらが青年にむける好感度矢印を現象化。無邪気な青年に手をかざす。彼の事は好きでも嫌いでもないし、矢印を放つのに弓も使わず、聖文マントラも唱えていないから大した威力にはならない。が、青年はこちらの能力を知らない。仙聖リシなら防御するはず。

 放った矢印は反射し、右肩の傷口を抉る。予期しない激痛に体が反応し、空間が狭いせいで後頭部を打ちつける。
 世界が暗転した。

 父には妾が大勢いた。
 母は召使いのように扱われていた。
 兄が二人、姉が一人いた。

聖職者ブラフミンの男子たるものは他人に弱みを見せてはならん」

 父はよく兄たちを鞭で打った。その兄たちによく蹴られたり殴られた。

 白服が砂塗れになっても母は「またそんなに汚すまで遊んで……自分で洗えるわね」といって無給の召使いの仕事に戻る。遊んで汚れたんじゃない事は当然わかっていたはず。

「あら、プレーマ、またやられたの……」姉は眉をひそめた。「貸して、洗ってあげる」

 寝る時も一緒だった。兄達に酷い事をされて泣いた日は、姉に抱きしめられるとぐっすり寝られた。

 そんな姉も他家に嫁いでいった。血の繋がった同性は母だけになった。

 肌寒くなる乾季、聖選式ヴァジャペヤの日、山より高い神樹の周りに聖職者ブラフミンの男らが整列する。その年、根元に築かれた祭壇に聖杯を捧げる役割は母だった。女は聖選式ヴァジャペヤに参加できないが、如意神樹カルパヴリクシャに聖杯を捧げる役割だけは聖職者ブラフミンの女に任されていた。

 儀式の最中、日頃の疲れで足がもつれ、母は両手にもった聖杯をとり落とす。時が冷凍された。今年の聖選式ヴァジャペヤの最高祭司だった父が立ちあがった。

「儀式を仕切り直す! 涜神者の血を如意神樹カルパヴリクシャに捧げよ!」

 父が帰ってきた。母がいなかった。

「お母様は」

「あれは如意神樹カルパヴリクシャの前で涜神を犯した。よってその血で穢れた空気を浄め、罪を贖ったのだ。聖選式ヴァジャペヤはつつがなくとり行われた。如意神樹カルパヴリクシャはお赦しになられたのだろう」

 夜は一人だった。寝台の上、布団を被って震えながら眠った。枕は湿って冷たかった。

 翌年、久しぶりに姉と会える。倍以上も齢の離れた配偶者に連れられ、改めて父に挨拶をしにきたのだ。楽しみすぎて早起きし、声がきこえてすぐ飛びだした。父と姉の配偶者が話していた。姉は空気のように微笑んでいた。その瞳に表情はなかった。微笑みをはりつけた顔で、石より冷たい眼差しをむけられた。

「お姉様」

 父達の後ろに姉もついていった。一度もこちらをふり返らなかった。

 二年後、朝起きたら下半身の股間にぬるりとした感触があった。変な匂い。この歳になって洩らしてしまったのか、と謎の罪悪感を背負いながら服をめくる。赤色。反射的に悲鳴をあげた。召使いらが駆けつける。

「プレーマドヴェーシャさま、おめでとうございます」

 一二歳で初潮。気分は最悪。何がおめでたい。なぜかいつもよりイライラした。

「お前の嫁ぎ先は決まっている」

 父にひきあわされたのは容姿の整った三〇歳の赤服の男だった。

「彼はビンドゥサーラ王の弟君にあたる。武士貴族クシャトリヤだが、同じ純血のイーリャン人である良い家系だ。わが家門の女を嫁がせるのに相応しい血族であろう、なあ、プレーマドヴェーシャよ」

 赤服の男は微笑みかけてきた。

「よろしくお願いしますね、プレーマドヴェーシャ」

 体の奥底で何かが蠢く。

 聖婚式が終わり、馬車で相手の家へ。部屋で二人きりになると男は衣服を脱いだ。
 胸の奥に何かが渦巻く。 
 ゾウの鼻が天井を見上げる。男が近寄る。

 笑いがこみあげた。男は顔をしかめる。

「……何がおかしい」

 笑いがとまらない。

「笑うのをやめろ」

 やっと気づいた。本当はずっと前からわかっていた。

 眉を逆立てる相手を見る。

「私はあなたと結婚したくない」

 気持ち悪かった。ずっと吐き気がしていた。

 そうだ。この世界の何もかもが嫌いだった。

 景色がゆれる。頬をはたかれた。

「女が男に意見をいうな」

 寝台に押し倒された。力ずくで服を脱がせようとする。抵抗するには力の差が。力勝負は諦め、うけいれたふりをし、拘束が緩んだ隙に髪留めをとり、相手の喉に刺した。血が溢れる。男は動かなくなった。男は全身の血を失っていき、こちらは顔から血の気がひく。

 やらかした。とりかえしのつかない事を。冷静に自らを見つめる自分と、混乱祭りの自分。葛藤が続く。部屋は静かで、怖ろしくなる。

 足音が近づく。今夜は誰も部屋に近づかないはずだが、異変に気づいたのか、通りすぎるだけなのか。鼓動が激しく、呼吸が荒れ、じっとしていられず、窓から飛びだす。冷静ではなかった。混乱しすぎて冷静に思えただけだった。

 見張りとはちあわせ、捕まる前に門を越える。衣服には血がついており、ばっちり見られたので殺人はすぐ明らかになる。

 後方で笛が鳴り響く。慌ただしい足音が地面伝いに届く。街の裏路地に潜んだはいいが、これからどうしようもない。目を瞑れば嫌な思い出ばかり。姉とすごした記憶さえ煩わしい。この世界に未練はなかった。一生族エーカージャである女は善徳を積まなければ転生できない。ブラフマナ教はそういうが、こんな世界に生まれるなんてこっちから願いさげだ。このまま見つかって処刑されたら、自分を生んだ父を呪い殺せるだろうか。

 すぐそこで足音がした。物陰に隠れているが、路地に入ってこられたら見つかる。

 うとうとしてきた。いつもなら寝ている時間を大きくすぎていた。今ここで睡魔の手をとれば、眠っている間に安らかな死を迎えられるだろうか。それが最期の希望かもしれない。

「いたぞっ、こ」

 べべん、と琵琶の音が鳴った。叫ぼうとした騎士が黒炎に焼き尽くされた。

 いつのまに夢の中にいたんだろう。

 全部夢だったらいいのに。

 本当はまだ生まれていなくて。

 仲良しの父と母、優しい兄弟姉妹、本当の家族に囲まれて、笑顔の絶えない日々を送って。

 素敵な人と結婚して、それから。

「おはようございます」

 おぼろげな意識が喚び戻された。見覚えのない天井。ふかふかじゃない寝台に横たわっていた。

 声のほうを見ると、黒い服をまとった三人の女性が控えていた。二人は褐色人種で、そちらにむける眼差しは弓矢のよう。一人だけ微笑みかけてくれているのは黒人だが、肌の色より目立つのは生々しい火傷の痕。全身の肌が爛れていて魔の者チャンダーラのようだが、火傷痕を隠そうともしない彼女に不思議と恐怖は感じない。両手首に数珠を巻いていた。

「わたくしはサティーマーラといいます。この教団シャクティの長をしているものです。あなたが騎士団に追われていたので、ひとまずこちらで保護しました。ここは、我々の所有する寺院です。我々は原理主義派アースティカから異端思想派ナースティカとよばれている教団ですから、騎士団とは無関係なので安心してください」

 火傷痕のある黒人がいった。

「あなたはなぜ騎士団に追われていたのでしょう。よければ経緯をきかせてもらえませんか。話をきいても騎士団につきだすようなことは決して致しません。三神一柱の女神トリデーヴィーに誓いましょう」

 警戒心をすり抜けるような声色。どういう人かもわからない彼女に全幅の信頼を感じる。気づいたら名前や出自から、これまでの人生までもたどたどしく語り始めていた。サティーは笑ったり貶したりせず、ひとつずつ相づちを打って聴いてくれた。夢のなかで幻視した真の家族に似ているものを感じた。

「……それは大変でしたね」

 こちらが泣くと彼女も泣いてくれた。さっきまで敵意をもっていた褐色人ふたりも、話をきいたあとはその眼差しからやじりがなくなっていた。サティーにそっと抱きしめられた。

「もう怖い思いはしなくていいですよ。我々はあなたの味方です。プレーマドヴェーシャ、あるがままのあなたの存在すべてを愛しています。生まれてきてくれてありがとう」

 涙があふれて、あふれ続けた。

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