Diageology 元ディアジオ・ジャパン株式会社社員の回顧録75 

回顧録75
 
皆様こんにちは、元ディアジオ・ジャパン社社員による回顧録の第75回目です。
 ディアジオ社がらみの蒸留所の2回目になります。色々とキリンビール社との協業について書いてきましたが、以前に日本バーテンダー協会(NBA)の湘南支部という支部が存在しておりまして、その支部が毎年秋から冬にかけて箱根湯本の富士屋ホテルさんでカクテル夜会というイベントを主催されておりまして、キリンビール社、メルシャン社と共に毎年ブース出店の手伝いに伺っておりました。このカクテル・イベントには今でも小田原ターミナル・ホテルの地下にあるBar Spatsのオーナーのご依頼が大変大きく、オーナーは当時は湘南支部の支部長でいらっしゃって、私はお店が鴨宮にあった時代から存じていましたので、喜んで引き受けたのです。本厚木にあったBlack Stoneというダイニング・バーの店長からZIMAがものすごく売れているバーがある、と紹介していただき訪問したのが最初の出会いでした。お店で日暮士歳朗さんというスライド・ギターのプロの方とお会いしたこともありました。
 開催場所が箱根湯本の富士屋ホテルだったせいか、湘南支部と言っても平塚から西側のエリアの店舗様がほとんどの支部の特徴のせいか、NBA横浜支部のカクテル・コンペティションほどのメーカー・ブースが出るわけではないのですが、それなりにビール会社と絡んでいる洋酒メーカーはブース出店し、モルソン・クアーズ・ジャパン社がZIMAガールを連れてきて販促したり、眞露のメーカーが来てウーロン割りや緑茶割りを出したり、飴細工の会社の方がブースを出したりと、少し地方色の出た何でもあり的なイベントでした。
 またSpatsさんで毎月JAZZの演奏をされていたというビッグ・バンドがここでも演奏されたり(これがまたいやになるくらいうるさいんですよ。またタダだと思ってブースによく飲みに来られるのです)、しかし富士屋ホテルさんのディナーなので、ビュッフェ・スタイルで用意されているのですが、お値段以上のものが提供されていたと思います。では何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。

ディアジオ社がらみの蒸留所②
6、Caledonian distillery Lowland Single Grain Scotch Whisky
 1855年、エディンバラ(Edinburgh:サンベリー(Sunbury))蒸留所のグラハム・メンジーズ社(Graham Menzies & Co.)によって建設され、「ザ・キャリー(The Cally)」と呼ばれたカレドニアン蒸留所は、当時最大規模の蒸留所でした。開業から13年が経過したヘイマーケット駅と、冷却水を供給するフォース・アンド・クライド運河に近接するという、成功にうってつけの立地条件を備えていました。ダルリー・ロード西側の5エーカーの敷地に建つカレドニアンは、グレーン蒸留所の建設ブームの真っ只中に建てられました。1857年までに、スコットランドでは特許蒸留器を稼働させる蒸留所が17軒に達していました。
 このブームはグレーンウイスキーの供給過剰と、それに続く経営難をもたらしました。そこで、事業の安定を図るため、1856年、カレドニアンを含む大手グレーン蒸留所6社が結束し、短期間ながら市場を分割販売しました。創業わずか1年にもかかわらず、カレドニアンは規模の大きさと豊富な在庫を背景に、市場の41.5%を占めるシェアを獲得しました。比較すると、カーズブリッジ(Carsebridge)は15%、セギー(Seggie)は13.5%、グレノチル(Glenochil)は11.5%、カンバス(Cambus)は10.5%、ハディントン(Haddington)はわずか8%でした。
 1867年、カレドニアン蒸留所は、より安定した品質の製品を求めるブレンダーの間で需要が高まっていた「アイリッシュ・スタイル」のグレーンウイスキーを蒸留するために、ポット・スチルを導入した蒸留所のひとつとなりました。ポット・スチルは1900年頃まで使用されました。
 1884年、メンジーズ社の息子ウィリアムは、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社(DCL)設立から7年後、カレドニアンをDCL社の7番目のメンバーとして参入させました。カレドニアン蒸留所と、ロンドンのメンジーズ&カンパニー社の精留事業が加わったことで、DCL社の年間生産量は合計880万ガロンに達しました。ウィリアムは1897年にDCL社の2代目会長に就任し、ゼネラル・マネージャーのW・H・ロス(W. H. Ross)と共に事業を拡大しました。
 カレドニアン蒸留所は1966年にDCL傘下のスコティッシュ・グレーン・ディスティラーズ社(Scottish Grain Distillers:SGD)に買収され、20年後のギネス社とDCL社の合併に伴いユナイテッド・ディスティラーズ社(United Distillers:UD)傘下に入りました。しかし残念ながら、1988年のユナイテッド・ディスティラーズ社による大規模な事業統合の犠牲となり、最終的に閉鎖されました。10年後に内部は住宅に改装されましたが、カレドニアンの高さ300フィート(約91メートル)の煙突は歴史的建造物として今もなおそびえ立ち、スコットランドに残るヴィクトリア朝時代の塔としては最も高いものの1つとなっています。
 カレドニアンは数十年にわたり、スコットランド最大の蒸留所でした。当初はコフィー式蒸留器(Coffey still:アイルランド人のイーニアス・コフィーが1830年ころに発明し、特許(パテント)を取得した連続式蒸留器の一種で、そのためパテント・スチルとも呼ばれています。連続式蒸留器は連続的に蒸留を繰り返す構造になっています)を1基設置しており、ジェームズ・グラント(James Grant)は1882年の著書『オールド・アンド・ニュー・エディンバラ(Old and New Edinburgh)』第2巻で、この蒸留器を「スコットランドで最も偉大な蒸留器」と評しています。また、この蒸留所では、2基の大型ポット・スチルで蒸留したアイリッシュ・スタイルのグレーン・ウイスキーも製造していました。この製法は、当時のブレンダーの間でその安定した品質が高く評価されていました。
 近年、独立系ボトラー(いわゆるボトラーズ系)によって、カレドニアンの古いロットがシングルグレーンとして瓶詰めされたことがあります。これまで1986年にエジンバラで開催されたコモンウェルス・ゲームズを記念したボトルを除いて、シングルグレーンとして瓶詰めされたことは一度もありませんでした。また、ディアジオ社は2015年のスペシャル・リリースの一環として、「ザ・キャリー」というラベルで40年熟成の1974年ヴィンテージをリリースしました。

7、Cambus distillery Lowland Single Grain Scotch Whisky
 かつてDCL社のグレーン蒸留所の至宝であったカンバスは、現在ではアロアにあるディアジオ社の樽製造拠点となっています。カンバスは、19世紀後半にDCL社の礎を築いたローランド地方のグレーン蒸留所のひとつであり、グレーン蒸留酒を「ウイスキー」として確立する上で重要な役割を果たしました。ただし、当初はモルトを蒸留していました。
 1806年、ジョン・モーブレイ(John Moubray)は、フォース川との合流点に近いデベロン川沿いのアロアにある使われなくなった製粉所をモルト蒸留所に改築しました。小規模な工場として操業していましたが、1836年にモーブレイは方向転換し、2基のスタイン式特許蒸留器(1826年にロバート・スタインによって発明された蒸留器。その後1831年にイーニアス・コフィーによって改良され、特許を取得したのがコフィー式蒸留器)を設置してグレーンウイスキーの蒸留を開始しました。カンバスは19世紀の大半を家族経営で過ごし、ジョンの息子(ジェームズ)と孫(ロバート)に引き継がれました。ロバートは1851年にコフィー式蒸留器を導入しました。この拡張により、カンバスはスコットランド最大級のグレーン蒸留所の一つとしての地位を確立しました。敷地面積は8エーカーに及び、各倉庫には鉄道の側線が敷設されました。
 1856年、グレーンウイスキーの需要変動期における将来の事業運営を確保するため、ローランド地方最大のグレーン蒸留所6社は、1年間市場を分割することで合意し、カンバス社には10.5%のシェアが割り当てられました。カンバス社は1865年にも同様の協定を結び、この時はアデルフィ、ヨーカー、キャメロンブリッジ、ポート・ダンダス(Adelphi, Yoker, Cameronbridge and Port Dundas)の各蒸留所も加わりました。1877年、カンバス社はDCL社の創設メンバーの1社となり、1882年には隣接するカンバス・オールド・ブルワリー社(Cambus Old Brewery)を買収し、カンバス社の事業拡大を可能にしました。
 世紀末の「ウイスキーとは何か?」論争において、モルト蒸留所がグレーン・スピリッツを指す「ウイスキー」という用語の使用に反発した際、複数のグレーン蒸留所を運営していたDCL社は、カンバス社を利用して世論を自社に有利な方向に誘導しました。1906年、DCL社は7年ほど熟成させたカンバス・ピュア・グレーンウイスキー(Cambus Pure Grain Whisky)の広告をデイリー・メール紙の一面に掲載し、「純粋な特許蒸留器で造られたグレーンウイスキーとはどのようなものか、一般の人々に自ら判断する機会を提供する」と謳いました。これは明らかに世論、そして裁判所の判断を左右するための宣伝戦略でした。モルト蒸留業者は敗訴し、1908年の王立委員会で判決が下された後、広告はひっそりと撤回されました。
 一時の脚光を浴びた後、カンバスは苦境に陥いります。1914年の火災で蒸留所の大部分が焼失し、その後23年間閉鎖を余儀なくされました。1937年にようやく再開しましたが、第二次世界大戦中に再び閉鎖されました。終戦後、DCL社は同蒸留所への投資を開始しました。1952年にはジン精製プラントが設置され、翌年には二酸化炭素処理プラントが稼働しました。1964年、カンバス蒸留所は副産物処理工場を初めて開設しました。その後、1982年には、隣接する閉鎖されたノース・オブ・スコットランド・グレーン蒸留所(North of Scotland grain distillery)をDCL社が買収したことを受け、この工場は本格的なダーク・グレーン蒸留所へと拡張されました。
 カンバス蒸留所は、ディアジオ社による1億ポンド規模の生産再編の一環として、1993年に閉鎖されました。工場は撤去され、跡地は樽詰め工場と倉庫へと生まれ変わりました。2011年、ディアジオ社は900万ポンドを投じて敷地内に新たな樽製造工場を建設し、グラスゴーのカーズブリッジとダンダシルにあった樽製造業務を移転させ、カンバス蒸留所は新たな命を吹き込まれました。現在、巨大なブラックグランジ倉庫複合施設に隣接しています。
 最盛期には、カンバスのウイスキーはブレンダーから高い評価を受けていました。 1906年にDCL社がデイリー・メール紙に掲載した広告では、カンバス・ピュア・グレーンウイスキーは「他に類を見ない個性的なウイスキー。独特の繊細さと魅力的な風味を持ち、まろやかで穏やか。1ガロン飲んでも頭痛がすることはない」と評されていました。この一度限りの公式ボトリングを除けば、カンバスは13年、15年、ノンエイジ・ステートメントのボトルで販売され、最近ではディアジオ社の2016年スペシャル・リリースに40年熟成のボトルがラインアップされました。また、独立系ブランドからも定期的に販売されています。

8、Cameronbridge distillery Lowland Single Grain Scotch Whisky
 ディアジオ社が完全所有するグレーン蒸留所は、同社の多くのブレンド・ウイスキーの基盤となる原料を供給するだけでなく、キャメロン・ブリッジとヘイグ・クラブ(Cameron Brig and Haig Club)というシングル・グレーンウイスキーの原酒も生産しています。キャメロンブリッジはヨーロッパ最大のグレーン蒸留所であり、最古の蒸留所の一つでもあります。その歴史には、ウイスキー業界で最も注目すべき、そして不思議なほど見過ごされてきた蒸留家一族、ヘイグ家とスタイン家が深く関わっています(回顧録⑥の6参照)。
 ヘイグ家がウイスキーを製造した最初の記録は1655年に遡ります。ロバート・ヘイグ(Robert Haig)が安息日に蒸留を行ったとして、教会の長老たちの前に引きずり出されたのです。1751年、彼の玄孫にあたるジョンは、キルバギーとケネットパンズに蒸留所を構え、すでにウイスキーを製造していたスタイン家出身のマーガレット・スタインと結婚しました。彼らの息子たちのうち4人が蒸留家となり、スコットランド中部とアイルランドにそれぞれ蒸留所を設立しました。末っ子のウィリアムはファイフにキンカプル蒸留所とセギー蒸留所(Kincaple and Seggie)を創業し、長男のジョンが1824年にキャメロンブリッジ蒸留所を創業しました。
 当時はウイスキーの生産量が急速に増加し、新たな製法も次々と開発されていました。ローランド地方の蒸留所は長らく大規模生産を行っていましたが、技術と法律の制約から、ウイスキーの製造はポット・スチルに限定されていました。しかし状況は変わりつつあり、1829年、ジョンは従兄弟のロバート・スタイン(Robert Stein)が発明し、自身のキルバギー蒸留所(Kilbagie distillery)で使用していた特許取得済みの蒸留器を導入しました。スタイン製の蒸留器のうち1基は1929年まで使用されました。
 その後間もなく、アイルランド人技師のイーニアス・コフィーがスタインの設計を改良し、独自の特許取得済み蒸留器を開発しました。ジョン・ヘイグもすぐにコフィー製の蒸留器を導入しました。1880年代にアルフレッド・バーナードが訪れた際には、スタイン製蒸留器2基、コフィー製蒸留器2基、そしてポット・スチル1基(「ポット・スチル・アイリッシュ(pot still Irish)」と名付けるため)が稼働していました。規模は大幅に拡大したものの、現在でもキャメロンブリッジでは同じコフィー設計が用いられています。
 1865年、ジョンは他の8社のグレーン蒸留業者と提携し、1877年に正式にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社(DCL)を設立しました。ヘイグはポート・ダンダス、カースブリッジ、グレノチル、カンバス、カークリストンの所有者と手を組み、スコットランドのグレーン生産能力の75%を支配するに至りました。これにより、新会社は供給において圧倒的な地位(最終的には独占)を確立しただけでなく、価格決定権も手に入れました。DCL社はその後、幾度もの合併を経てディアジオ社へと発展していきます。
 1929年にキャメロンブリッジのポット・スチルが撤去されたことで、モルトウイスキーの製造は終了し、それ以降はグレーンウイスキーのみの製造となっています。また、1998年からはゴードンズ・ジン、タンカレー・ジン、スミノフ・ウォッカの生産もここで行われており、現在、この蒸留所の3つの連続式蒸留器は、ブレンド用のグレーンウイスキーと、スミノフ、ゴードンズ、ピムズなどのニュートラル・グレーンスピリッツに分けられる大量のアルコールを生産しています。キャメロンブリッジはDCL社のグレーン部門の中核拠点として存続し、2010年のポート・ダンダス工場の閉鎖に伴い、現在ではディアジオ社唯一の完全所有グレーン工場となっています。2007年には4,000万ポンドの投資の一環として、さらに拡張されました。特筆すべきは、長年にわたり、キャメロン・ブリッジ(Cameron Brig)という独自のグレーン・ブランドを持つ唯一のグレーン蒸留所であったことです。他の蒸留所も同様の試みを行いましたが、生き残ったのはキャメロン・ブリッジだけでした。2014年には、デビッド・ベッカムとディアジオ社が共同開発したシングル・グレーンウイスキー・ブランドのヘイグ・クラブ供給元として、その存在感をさらに高めました。

9、Caol Ila distillery Islay Single Malt Scotch Whisky
 ある鋭いウイスキー評論家はかつてカリラを「一貫性の達人」と評しました。まさに的確な評価と言えるでしょう。生産量こそ圧倒的ですが、カリラは公式ボトリングであれ独立系ボトリングであれ、熟成感と蒸留所の個性の完璧なバランスを常に保っています。
 1846年、ヘクター・ヘンダーソン(Hector Henderson)はアイラ島東海岸、ポート・アスカイグに隣接する狭い湾に小さな蒸留所を建設することを決意しました。彼はその事業を「カリラ」と名付けました。これはゲール語で「アイラ海峡」を意味し、蒸留所が見下ろす海域を指しています。1857年、ヘンダーソンはブレンダーのブロック・レード社(Bulloch Lade:回顧録⑥の②の2参照)に買収され、ブロック・レード社は敷地を改良し、立派な桟橋を建設しました。1927年にDCL社に吸収合併され、1972年まで操業を続けました。その後、旧蒸留所は取り壊され、旧蒸留所よりはるかに規模の大きい、6基の蒸留器を備えた新しい蒸留所が建設されました。これにより、カリラはアイラ島最大の生産者へと変貌を遂げました。
 当時はまだシングルモルト市場が本格的に発展する前で、カリラの原酒はウイスキー業界全体の様々なブレンドに用いられる運命にありました。特に親会社であるディアジオ社では、ジョニーウォーカーの原酒供給を担っていました。1980年代の不況期には、カリラはブレンド用にノンピートのハイランド・スタイルの原酒の生産を開始しました。生産能力に余裕があっただけでなく、この生産方法によって蒸留所の操業継続が可能になったのです。ノンピート原酒は現在も毎年生産されており、生産量はディアジオ社のブレンド・チームの予測に基づいて決定されます。
 2011年には、新たなマッシュ・タンとウォッシュバックの増設を含む大規模な改修が行われ、生産能力は年間650万リットルに増加しました。生産縮小が進んでいた閑散期には、ブナハーブン蒸留所(Bunnahabhain)がピート原酒の需要を担っていました。2018年、ディアジオ社は観光施設の改修に1億5,000万ポンドを投じる計画を発表しました。これには、エディンバラにジョニーウォーカーの新たなブランド拠点を建設すること、そしてカリラ、クライヌリッシュ、カードゥ、グレンキンチー(Caol Ila,Clynelish, Cardhu and Glenkinchie)の各蒸留所のビジター・センターを改良することが含まれています。これらの蒸留所は、ジョニーウォーカーの地域特有のスタイルを代表するものです。カリラでは、蒸留所の倉庫内に新たなビジター・センターが建設され、歩道橋による入口、新しい駐車場、アイラ海峡越しにジュラ島を望むバーなどが設けられています。
 カリラの蒸留所の特徴は、フレッシュな洋梨の香り、草のような香り、ほのかなジュニパー・ベリーの香り、そしてロブスターの殻やカニかご、かすかなスモークといった海岸を思わせる独特の香りが絶妙に調和している点です。姉妹蒸留所であるラガヴーリンと同じモルトを使用していますが、カリラ独自の蒸留方法(より長い発酵期間、高いカット・ポイント、背の高い蒸留器)によって、強いフェノール成分を抑えることに成功しています。シングルモルトの熟成にはリフィル・カスクが用いられます。ノンピート・タイプも同様に繊細で、フレッシュでエステル香があり、フローラルなニュアンスも感じられます。ブレンド用としての重要性から、2002年に12年熟成がリリースされるまでは、モルト愛好家は独立系ボトラーズのボトルを探し求める必要がありました。現在では、熟成年数表示のないカリラ・モッホ(Caol Ila Moch:8年熟成といわれ軽くて滑らかな酒質でライトな印象)、18年熟成、25年熟成、ディスティラーズ・エディション、アイラ・フェス限定品、そして毎年限定リリースされるスペシャル・リリースなど、幅広いラインナップが揃っています。2022年には、2021年の創業175周年を記念し、24年熟成のシングルモルト・スコッチウイスキーを発売しました。また2025年には、初めて公式パートナーとしてアイラ・ジャズ・フェスティバルの18年熟成の限定版ウイスキーを発売しました。(続く)


 さて第75回目の回想録でしたが、いかがでしたでしょうか。ディアジオ社がらみの蒸留所の2回目でした。日本バーテンダー協会の湘南支部のカクテル夜会の続きを申し上げますと、実はBar Spatsのオーナーが支部長を降りられ、神奈川県の足柄上郡中井町に会社がありました方が次の支部長に就任されました。本厚木から小田原まで幅広くバーや居酒屋を経営されていらっしゃったのですが、広げ過ぎたのでしょうか、商売が立ちいかなくなったのでしょう、突然会社ごと居なくなってしまいまして、どうなってしまうのだろうという状況になってしまいました。
 同じく平塚、本厚木でバーを5、6店舗経営されていらっしゃった副支部長の方も、事業拡張で平塚と秦野の神奈中ビルの最上階にダイニング・バーをオープンされることとなり、ギネスビールの生樽を導入していただくこととなり、喜んで打ち合わせに出かけたのです。支部長になった方の多店舗経営に影響されたのでしょうか、事業を拡げたはいいものの、こちらも経営に行き詰ってしまったのでしょう、次々と店舗を閉める羽目となってしまいました。
 この副支部長には大変お世話になっていたのです、私がディアジオ・ジャパン社に入社し、翌年からギネスビールも担当になった時の樽詰めギネス導入が決まった最初の頃のオーナーでありました。平塚と本厚木にありましたUn-limited、平塚のBar VERMILIONやBar Infinity、Un-limi 2nd等を経営され、さらに神奈中ビルに2店舗と広げられていたのですが、残念ながらすべて閉店され、オーナーもいつの間にかいなくなってしまい、そのためかどうかは分かりませんがNBA湘南支部も消滅してしまいました。知り合った多くのバーテンダーの内の何名かはその後彼らのオープンされたバーでお会いすることができました。
 その後カクテル夜会は1回だけ行われまして、Bar Spatsのオーナーはじめ、最後のカクテル夜会開催に賛同された方々が催されまして、我々もキリンビール社、メルシャン社と共に協力したのです。富士屋ホテルさんとSpatsのオーナーとは知り合いとはいえ、あと1回は開こうという話になっていたそうです。私たちは多くの種類のウイスキーを用意し少しでも盛り上げようとはしたのですが、どうしても協賛ブースは少なく、少し寂しい開催となってしまいました。飴細工屋さんも最後はいらっしゃらなかったな。
 さて、このようによしなしごとを書き綴っていますが、これからもまだまだディアジオ社につきましての回顧録は続けていく所存でございますので、ご指摘等ございましたらどんどんお寄せいただきたいと思います。何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。

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