Diageology 元ディアジオ・ジャパン株式会社社員の回顧録76
回顧録76
皆様こんにちは、元ディアジオ・ジャパン社社員による回顧録の第76回目です。
ディアジオ社がらみの蒸留所の3回目になります。日本バーテンダー協会県央支部(東京町田市から神奈川本厚木、海老名にかけて点在されていたバーの方々が加盟)さんでは3回の勉強会の依頼がありまして、セミナーを行わせていただきました。1回目は神奈川の相模大野にある当時は県央支部で渉外担当をされていましたBAR Eau de Vieさんで行いまして、セント・パトリックス・デイについて行ってほしいとの依頼でした。アイリッシュウイスキーのジェムソンの担当者と一緒で、あちらはジェムソン目線で、こちらはギネスビール目線で行わせていただきました。セント・パトリックス・デイ参加の実績も大してなく、しかも初めてのセミナーでたいした資料も作れず、分かっていただいたかどうかも検証できずじまいでした。
2回目は小田急小田原線の厚木駅前にあった、当時県央支部長の店のBar Fellowで行わせていただき、キリンビール社と一緒に、キリンビール社はデ・カイパー社のリキュールについて、私のほうはディアジオ社のキリンビール社販売のポートフォリオ・アイテムについてと1回目と同じくセント・パトリックス・デイについての勉強会を行わせていただきました。さすがに2回目ともあって、パワー・ポイントできっちり作りこみました資料を用意しまして、支部長はじめ会員の皆様の前で行わせていただきました。
3回目は当時渉外担当をされていた町田のBAR ASLUNのオーナーのご依頼で水(ウイスキーの仕込み水や硬度について)と炭酸水についての勉強会のご依頼でして、こちらもあまり知ってはいない情報だったのですが、資料を色々と引っ張り出して調べたものです。シングルトン・オブ・グレン・オードとロイヤル・ロッホナガーの資料はディアジオ・ジャパン社の時のものを持っておりましたのですぐに分かりましたが、ネットで調べますとグレンモーレンジィの仕込み水の硬度が+190位の硬度の高い水だと分かったり、ウィルキンソンの炭酸水のオリジナルの話が出てきたりと、色々と調べがいのある勉強会の内容でした。
残念ながら日本バーテンダー協会県央支部は、税務署だったか、協会に指導が入り、都道府県ごとに1支部制にすることとなり、消滅してしまったのですが、県央支部さんとはキリンビール社と共にキリン・ディスティラリー御殿場蒸留所見学に同行したり、皆様には結構懇意にして頂きました。いろいろとありがとうございました。では何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。
ディアジオ社がらみの蒸留所③
10、Cardhu distillery Speyside Single Malt Scotch Whisky
スペイサイドで最も古い蒸留所のひとつであるカーデュ(当時はカードウ:Cardow)は、1811年にジョン・カミングとその妻ヘレン(John Cumming and Helen)が農場を開墾したことから始まりました。彼らはすぐに密造ウイスキーの製造を始め、調査によるとヘレンが経営を担っていたようです。また、農場はグレン・リベットの密造酒業者にとっての早期警戒拠点としても機能していました。伝説によると、密造酒の検査官が農場に到着すると、ヘレンは彼らの注意をそらし、赤い旗をポールに掲げて仲間に警告していたと言われています。1823年の酒税法制定後、スペイサイドの蒸留所の中で最初に新免許を取得したのがカーデュ蒸留所だったというのも、おそらく驚くべきことではないでしょう。
ヘレン・カミングの義理の娘であるエリザベスは1872年に経営を引き継ぎ、1884年には原始的な設備を完全に再建しました。そして、古い蒸留器と水車をウィリアム・グラントに売却しました。グラントはダフタウンにグレン・フィディックという名の家族経営の蒸留所を建設する計画を立てていました。当時、カーデュはブレンダーの間で人気を博していましたが、1888年には早くもロンドンでシングルモルトとして販売されていました。
1893年、蒸留所は長年の顧客であったジョン・ウォーカー&サンズ社に売却されました。その際、カミング家は引き続き蒸留所の経営に携わり、ウォーカー社の取締役会にも席を持つことが条件とされました。蒸留所は1899年に2基の蒸留器から4基に、そして1960年には6基へと拡張されました。当時、カーデュ蒸留所はジョニーウォーカーのハイランド地方における拠点として認識されていましたが、世界で最も売れているブレンド・ウイスキーの原料供給に加え、1981年からは業界大手DCL社(現在のディアジオ社)にとって、現代における初のシングルモルト・ブランド事業の拠点ともなりました。DCL社の会長は1963年から1967年まで、ジョンとヘレンの曾孫であるロナルド・カミング卿(Sir Ronald Cumming)でした。
ブレンド・ウイスキーの重要な要素であると同時にシングルモルトでもある銘柄を生産するには、非常に難しいバランス感覚が求められます。2002年、このバランス感覚は崩れてしまいました。スペインとフランスにおけるシングルモルトの予想販売量が、拡大を続けるウォーカー・シリーズの原酒供給も兼ねる蒸留所の生産能力を上回ると予測されたのです。解決策は、シングルモルト・ブランドであるカーデュを、当時ヴァッテッド・モルト(vatted malt:複数の蒸留所のシングルモルトをブレンドしたもの。現在のスコッチウイスキーではこの呼び方は使用されておりません)と呼ばれていたものに転換しつつ、その全体的な特徴を維持することでした(回顧録⑲の18の項参照)。言うまでもなく、これは消費者を混乱させるものとみなされ、蒸留所名をカーデュに戻すという、やや滑稽な時期を経て、この方針は撤回されました。この一件の余波は、スコッチウイスキーのラベル表示規制の全面的な見直しと、「ブレンデッド・モルト」という新たな用語の創設につながりました。
現在、カーデュはジョニーウォーカーの本拠地であり続け、立派なビジター・センターも併設されています。シングルモルトのボトリング数は再び増加傾向にあります。2018年、ディアジオ社はスコットランド全土の観光施設改修に1億5,000万ポンドを投じる計画を発表し、カーデュ蒸留所のビジター・センターを改修することが決定しました。カーデュの改修では、ヘレンとエリザベス・カミング母娘の影響を含む蒸留所の歴史が紹介されます。アクセスも改善され、果樹園も新設される予定です。
カーデュの特徴は、かつて小型蒸留器で造られた重厚なスピリッツとして知られていた創業当時のものとは大きく異なっています。1899年に2基の大型の新しい蒸留器が導入されて初めて、現在のカーデュが誕生し、生産能力は倍増しました。カーデュは、力強い草のような蒸留所特有の香りが特徴で、熟成過程でオレンジやチョコレートのニュアンスが加わります。これは、澄んだ麦汁、長時間の発酵、そして銅製の蒸留器と温かく稼働する凝縮器との十分な相互作用を促すゆっくりとした蒸留によって実現されています。
11、Carsebridge distillery Lowland Single Grain Scotch Whisky
19世紀、DCL社の黎明期を支えたローランド地方のグレーン蒸留所のひとつであったジョン・ボールド(John Bald)のカースブリッジ蒸留所は、ヘイグ家やスタイン家といった名門蒸留所と並び、スコットランド有数のウイスキー製造所と目されていました。1798年、マールのジョン・フランシス・アースキンは、ジョン・ボールドにアロア教区のカースブリッジ近郊に蒸留所を運営するためのリース権を与えました。カースブリッジ蒸留所は翌年、モルトウイスキー蒸留所として建設され、1877年にDCL社が設立されるまで家族経営で運営されていました。活気のある醸造の町アロアは、ジョン・ボールドにとって蒸留所を建設するのに最適な場所でした。近隣の炭鉱への直接アクセス、アロア港経由で運ばれる穀物と麦芽、そしてガートモーン・ダムからの水へのアクセスが可能だったからです。
1846年、ジョンの息子ロバートの死後、カースブリッジは次男のジョン・ボールド2世(通称「政治家」)がジョン・ボールド&カンパニー社のもとで引き継ぎました。ブレンド用グレーンウイスキーの需要の高まりに気づいたジョン・ボールド2世は、1852年にカースブリッジをグレーンウイスキー蒸留所に転換し、2基のコフィー式蒸留器を設置しました。カースブリッジはたちまちスコットランド有数のグレーンウイスキー生産者となり、エディンバラのカレドニアンに次ぐ規模となりました。ジョン2世は先見の明があり、変動の激しい市場で成功するために、スコットランドのグレーンウイスキー蒸留業者たちが協力し合うことの価値を見抜いていました。1856年、ジョン・ボールド2世は、ジョン・ボールド社が、カレドニアン、カースブリッジ、セギー、グレノチル、カンバス、ハディントンという6つの大手グレーン蒸留所との間で締結された「1年間の取引協定」に参加できるよう尽力し、市場シェアの分配を通じて、同社とカースブリッジの将来を確固たるものにしました。1865年には2度目の協定が締結され、アデルフィ蒸留所とヨーカー蒸留所、セギーに代わってキャメロンブリッジ、ハディントンに代わってポート・ダンダスが加わりました。1877年、ジョン2世はディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社の創設メンバーの一人となり、グレーンウイスキーの未来への最後の貢献を果たしました。
1880年代後半にヴィクトリア朝時代のウイスキー評論家アルフレッド・バーナードが訪れた当時、カースブリッジ蒸留所は10エーカーの敷地面積を持ち、年間140万~170万ガロンの生産量を誇っていました。1966年にスコティッシュ・グレーン・ディスティラーズ社(SGD)傘下に入った当時、カースブリッジはスコットランド最大級のグレーン蒸留所のひとつでした。この時までに、カースブリッジは3基目のコフィー式蒸留器と、初期の「蒸留用乾燥溶解物」製造設備の一つを取得しており、SGD傘下最大の蒸留所となっていました。
カースブリッジ蒸留所は、ギネス社によるDCL社の買収とその後の統合に伴い、1983年に閉鎖され、建物は1990年代に解体されました。しかし、カースブリッジの樽製造所は、DCL社の後継企業であるディアジオ社によって2011年まで使用され続け、その後、操業は近隣のブラックグランジにあるカンバス樽製造所に移転しました。グレードB指定建造物であるカースブリッジ・ハウス(旧蒸留所支配人の住居)は、現在も使われなくなった敷地内に建っています。また近年、カースブリッジは独立系ボトラーによって熟成年数の高いシングルグレーン・ウイスキーとしてのみ瓶詰めされていましたが、1983年の閉鎖に伴い、現在では在庫が少なくなっています。
12、Clynelish distillery Highland Single Malt Scotch Whisky
クライヌリッシュの究極の成功、いや、カルト的な人気は、人間の悲劇から生まれたものです。ここは、19世紀初頭に出現した数多くの土地収奪蒸留所の一つです(タリスカーもその一例です)。この時代、一部の地主は羊の飼育で得られる利益に目をつけ、小作農を先祖伝来の土地から強制的に立ち退かせました。ケイスネスとサザーランドは、こうした土地収奪の中でも最も残忍な場所であり、その実行犯はサザーランド公爵(特に公爵夫人)とその領地管理人たちでした。農民の中には海外へ送られた者もいれば、中央地帯へ移住した者もいました。そして残った者たちは、領主の新たな事業のために働くべく、新しい入植地へと移されました。サザーランド公爵はブローラの町に、炭鉱、レンガ・瓦工場、織物工場、製塩所、そしてクライヌリッシュと名付けた蒸留所など、数々の事業を立ち上げました。これらの事業はすべて元農民たちが担い、彼らは会社の店舗でしか換金できない硬貨で給料を受け取っていました。そして、その店舗の利益はすべて公爵の懐に入っていました。
蒸留所は創業当初は成功していませんでした。クライヌリッシュが名声を築き始めたのは1896年、ブレンダーのエインズリー&ハイルブロン社がジョン・リスクと共同でこの蒸留所を買収した時でした。リスクは1912年に単独オーナーとなります。世紀末には、クライヌリッシュは最も高価なシングルモルトとなりました。リスクはDCL社およびブレンダー会社のジョン・ウォーカー&サンズ社と緊密に協力し、1925年にジョン・ウォーカー&サンズ社がDCL社に吸収合併された際、クライヌリッシュもDCL社傘下に入りました。1930年代に閉鎖されましたが、第二次世界大戦中は少量の蒸留酒を生産していました。
DCL社の多くの蒸留所と同様に、1968年には既存の蒸留所の隣に同じくクライヌリッシュという名の2番目の蒸留所が隣接地に建設されました。そして6基の蒸留器を備えた新しい設備が建設されました(それまでクライヌリッシュには1対の蒸留器しかありませんでした)。古い設備は1年間休止した後、「クライヌリッシュB」として稼働を再開し、1969年、元の蒸留所はブローラとして再開されました。
1969年、ブレンド用にヘビー・ピートのスピリッツの生産を開始した際に、新しく増設された蒸留所はブローラと改名されました。これは、当初アイラ島が干ばつに見舞われ、その後カリラ蒸留所が再建されたことが背景にあります。ブローラのヘビー・ピート時代は1973年まで続き、その後はスモークが徐々に減らされ(時には完全に減らされました)、1983年に閉鎖されました。現在では、多くの失われた蒸留所と同様に、カルト的な人気を誇るモルトウイスキーとなっています。
クライヌリッシュ蒸留所自体は、ジョン・ウォーカー&サンズ社において長年重要な役割を担ってきました。ディアジオ社のヒドゥン・モルト・シリーズの一環として発売された14年熟成のウイスキーや、オロロソ・シェリーで仕上げたディスティラーズ・エディションなどがラインナップされています。2014年、ディアジオ社はクライヌリッシュ蒸留所の3,000万ポンド規模の拡張計画を発表しましたが、その後延期されています。
2018年、ディアジオ社は観光施設の改修に1億5,000万ポンドを投じる計画を発表し、クライヌリッシュ蒸留所もジョニーウォーカーの地域特有のスタイルを代表する蒸留所としてビジター・センターを改良することが決定しました。クライヌリッシュ蒸留所の包括的な改修には、新しいバーとテイスティング・エリアの設置、そして蒸留所周辺の景観整備が含まれています。
クライヌリッシュは、今日では珍しい「蝋のような」ニュー・メイク・スピリッツ(まるで消えたろうそくや蝋引きジャケットのような香り)を生産している点で稀有な存在です。この独特の風味は、非常に独特な方法で生み出されています。澄んだ麦汁と長時間の発酵が製造工程の始まりであり、蒸留では銅の熱効率を最大限に高めます。珍しいことですが、クライヌリッシュのスピリッツ・スチルはウォッシュ・スチルよりも大型です。この製法はフルーティーなスピリッツを生み出すのに役立ちますが、フェインツ・レシーバー(feints receiver:再蒸留の時にカットされた蒸留液を受けるタンク)で起こる現象がそれを妨げます。どの蒸留所でも、このタンクには自然に油分が沈殿しますが、通常は蒸留所の年間休止期間中に設備全体を洗浄する際に除去されます。
クライヌリッシュでこの現象が起こった際、ワックスのような特徴は消えました。この沈殿物に特有の性質があることに気づいた現在では、静穏期に除去し、その後補充しています。熟成したウイスキーは、口の中にワックスのような質感を残し、柑橘系の香りと、時折かすかなミネラルやオゾンのニュアンスが感じられます。1950年代と1960年代のシングルモルト(およびブレンデッド)のテイスティングからは、当時、ワックスのような風味が業界全体でより一般的だったことが示唆されています。低ピートまたはノンピートのブローラは、この濃厚でワックスのような、油膜のような特徴に加え、香りの良い草、果物、胡椒の香りが感じられます。強く燻製すると、ピートは海を思わせる香りになります。(続く)
さて第76回目の回想録でしたが、いかがでしたでしょうか。ディアジオ社がらみの蒸留所の3回目でした。序文でセント・パトリックス・デイについて書きましたが、実はいつから横浜元町のセント・パトリックス・デイに参加したかははっきりとは覚えておりません。神奈川県担当でしたので、当然元町のパレードに参加しているのですが、横浜元町では2004年からパレードが始まったとありますので、多分アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン(INJ:セント・パトリックス・デイを主催している団体)から依頼があって、その年から参加したのでしょう。
最初にしたことで覚えていることと言いますと、元町商店会(名称は違うかもしれません)さんに加盟されています愛知屋坪崎商店さんにサッポロビール経由で預けて冷やしていただいていましたドラフトギネス缶を2ケース位でしたか、元町ユニオンさん前で試飲会を行ったことです。あっという間に長い行列になってしまい、小さいカップに少しずつしか出せなかったのですが、全て完飲していただきました。その後パレードに参加し、パレード終了後には石川町にあったRetro cafeさんに集合し、ギネスビールを飲みまくった訳です。長友オーナーの経営するRetro caféさんはギネス樽30Lをずーっと販売していただいていたダイニング・バーでして、皆で相当な量のギネスビールを飲んだ記憶があります。
その後もサッポロビール社とは何回かはセント・パトリックス・デイのパレードには参加したのですが、2009年ギネスビールはキリンビール社に移管することとなり、サッポロビール社はその年のセント・パトリックス・デイのパレードには当然参加せず、ディアジオ・ジャパン社はアイリッシュ・ネットワーク・ジャパンの本部にはたっぷり協賛を出しているのですが、各支部には出さないとの姿勢を崩していませんでしたのでその年の元町のパレードには当然参加せず、困ったアイリッシュ・ネットワーク・ジャパンの横浜支部さんは次にギネスビールを販売されるキリンビール社に協賛を依頼されたのです。親切なキリンビール社はその依頼を受け、同じ緑色のカラーの淡麗グリーン・ラベルとキリン・フリーを協賛し、そのPOPを持ってパレードに参加された、と石川町元町中華街を担当されていたキリンビール社の方に伺いました。
しかしその後もアイリッシュ・ネットワーク・ジャパンの横浜支部さん(三村さんが会長)からの依頼は続きましたので、相変わらずキリンビール横浜支社の方々と一緒に元町のパレードに参加し(協賛は相変わらずキリンビール社にお願いしておりました)、ディアジオ社のほうでは緑色のラガー・シャツや飾りのついた緑色のハット、セント・パトリックス・デイ用のバナーや巨大なパイントの風船、パイント君と呼んでいた着ぐるみ等を用意し皆で着て、コロナ禍が始まり中止になる2020年前年まではパレードに参加していたのです。パイント君は重くて暑くて大変なのですが、毎年色々な方が喜んで着てくれました、私は着たことはありませんでしたが。
残念ながらRetro caféさんは生ビールがサッポロビールでしたので、ギネスビールがキリンビール社販売になった年から関内のスパニッシュ・バルのギネス樽店だったり、後に石川町にオープンされた津久井さん(横浜東口のCafe Bar Marceau(マルソウ)さんに勤めていらっしゃった全日本フレア・バーテンダーズ協会名誉会長の北條さんのお弟子さんにあたる方で、マルソウさんでも勤めていらっしゃいました)経営のEn Route(エン・ルート)さんに切り替えて打ち上げを行うこととなりました。
Retro caféさんはギネス樽詰め30Lの樽を仕入れされていたのですが、何度か20Lに切り替えないか提案はしたのですが受け入れていただけませんでした。なぜそうなったのか原因はあるのですが、ディアジオ・ジャパン社でスミノフアイスのチームだった我々も2004年からギネスビールの拡売のメンバーともなったのです。その時からサッポロビール社の20Lの空樽をアイルランドに送りまして、ドラフトギネスをそれに詰め再度輸入するということを始めたのです。30Lから20Lに規格が下がりますので、それまで販売に四苦八苦されていました既存店様はクォリティ維持が楽になりますし、新規店様はトライしやすくなりました。しかしアイルランドはダブリンの工場内に急に20L樽のラインを作れなかったものですから、ドラフトギネス缶を缶詰していました英国の工場で20L樽も詰めることのなったのです。アイルランドで製造しましたドラフトギネスをタンク・ローリー車で英国まで運んで樽詰めすることになりました。このギネスの装飾やロゴの入ったタンク・ローリー車がまたなんと格好良いこと!
で、そのことを何か勘違いしました、Retro caféさんによく通って飲んでいたというディアジオ・ジャパン社のマーケティングの者が、20L樽のギネスビールはアイルランドで作っていないとか、20Lは英国産だから30Lでないとダメだとか、中身が全く違うとか(直接聞いたわけではありませんので、こう言ったかどうかは分かりませんが、この様なことだったそうです)、Retro Caféのオーナーはそういう内容の話を仲の良かったディアジオ社の人間から聞いたものですから、絶対30Lから替えない、となってしまったのです。残念ながらRetro caféさんはすでに閉店されてしまいましたが、間違った情報に左右されてしまいました、クオリティの低いギネスビールを提供していたわけではありませんよ。キリンビール社の販売されていますギネスビールは間違いなくアイルランドで製造されていますし、その液体をタンク・ローリー車で運び、違う場所で詰めているだけですので、樽の詳細書や缶の脇に表記してあります製造国がアイルランド、というのは間違っておりません、どこで詰めてもいいのです。
さて、このようによしなしごとを書き綴っていますが、これからもまだまだディアジオ社につきましての回顧録は続けていく所存でございますので、ご指摘等ございましたらどんどんお寄せいただきたいと思います。何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。
