軍部大臣現役武官制――なぜ軍は「大臣を出さない」だけで内閣を倒せたのか
プロローグ 一人の大臣が見つからない
昭和12年(1937年)1月、陸軍大将・宇垣一成に組閣の大命が下りました。
宇垣は、陸軍大臣や朝鮮総督を務めた軍人です。政治経験も人脈もあり、首相候補として不足のない人物に見えました。
ところが、内閣をつくることができません。
陸軍が、陸軍大臣を出そうとしなかったからです。
当時、陸軍大臣になれるのは現役の陸軍大将か中将に限られていました。宇垣自身は予備役であり、首相にはなれても陸軍大臣を兼ねることはできません。陸軍中央が候補者を推薦せず、資格を持つ将官も引き受けなければ、内閣の名簿を完成させることは不可能でした。
宇垣は大命を受けてからわずか4日後、組閣を断念します。
議会で不信任を突きつけられたわけではありません。選挙で敗れたわけでもありません。軍が反乱を起こしたわけですらありません。
ただ、「大臣を出さない」だけで、内閣は生まれる前に倒れたのです。
その力を可能にしたのが、軍部大臣現役武官制でした。
しかし、この制度を単純に「軍が内閣を自由に倒せる制度」と説明すると、見落とすものがあります。法令のどこにも、「陸軍と海軍は首相を拒否できる」とは書かれていませんでした。それでも、制度と人事慣行が組み合わさることで、軍は事実上の拒否権を手にします。
前回の記事では、満洲事変を通して、現地軍の行動が政府の方針を先回りし、既成事実を国家の政策へ変えていく過程を見ました。
今回は、視線を内閣の内部へ移します。
軍はなぜ、銃を撃たなくても政権を左右できたのでしょうか。
第一章――陸軍大臣と参謀総長は何が違ったのか
まず、陸軍大臣と参謀総長の違いを整理しておく必要があります。
陸軍大臣は内閣の一員でした。陸軍省を率い、予算、編制、兵器、動員、人事などの「軍政」を担当します。海軍大臣も同じように、海軍省を通して海軍行政を担いました。
これに対し、参謀総長と軍令部総長は、作戦や用兵といった「統帥」を担当しました。明治憲法下では、統帥権は天皇に属するとされ、その補佐機関である参謀本部と軍令部は、内閣から独立した立場を主張します。
つまり、軍事をめぐる権限は一つの場所に集まっていませんでした。
予算や行政を扱う陸軍省・海軍省は内閣の中にある。一方、作戦を扱う参謀本部・軍令部は内閣の外側から天皇を補佐する。この二重構造が、政府による軍の一元的な統制を難しくしました。
軍部大臣現役武官制が直接規定したのは、このうち陸軍大臣と海軍大臣の資格です。
明治33年(1900年)、第二次山県有朋内閣は陸軍省と海軍省の官制を改め、陸軍大臣は現役の陸軍大将または中将、海軍大臣は現役の海軍大将または中将から任用することとしました。
ここで大切なのは、「軍人でなければならない」だけではなく、「現役でなければならない」という点です。
予備役など非現役の将官なら、軍の現執行部と距離を置いて首相の要請を受ける余地があります。しかし現役将官は、軍の人事体系と規律の中にいます。誰を現役に置くか、誰を要職に就けるかについて、陸軍省・海軍省は強い影響力を持っていました。
首相が形式上は大臣を選べても、資格を持つ人物の範囲を軍が事実上管理している。
この「狭い入口」が、のちに大きな政治的意味を持つことになります。
なお、「軍部」と一括りにしても、陸軍と海軍は別の組織でした。予算、戦略、外交方針をめぐって対立することも多く、常に同じ意思で動いたわけではありません。
制度上は、海軍も海軍大臣を出さないという同じカードを持っていました。海軍も大臣人事を組織内で調整し、内閣との交渉を通して政策に影響を及ぼしています。
しかし、現役武官制が倒閣の手段として表面化した代表例は、陸軍側に集中しました。これは海軍が政治から離れていたという意味ではありません。陸海軍では、直面した政策対立も、組織内部の力関係も、政治への関わり方も同じではなかったのです。
第二章――山県有朋がつくった「狭い入口」
制度を導入した山県有朋は、近代陸軍の建設に深く関わり、政党政治に強い警戒心を持った人物でした。
当時の軍人たちには、政党が自分たちに都合のよい退役将官を大臣に据え、軍事人事や軍備を政治取引の材料にするのではないか、という懸念がありました。現役の高級将官に資格を限定すれば、軍事の専門性と組織の自律性を守れる。制度には、そのような発想がありました。
したがって、創設時から「気に入らない内閣を倒すためだけにつくられた」と断定するのは正確ではありません。
しかし、制度の意図と、その制度が生み出す効果は同じではありません。
内閣を成立させるには、すべての大臣をそろえなければなりません。陸軍大臣が辞任した場合、後任になれるのは現役の大将か中将だけです。その人々が軍の意向に反して就任しにくいなら、軍は後任を出さないことで内閣を行き詰まらせることができます。
仕組みを簡潔にすると、次のようになります。
内閣には陸軍大臣と海軍大臣が必要である。
その候補者は、現役の大将・中将級に限られる。
資格を持つ将官の人事と組織的な行動を、陸軍・海軍が握っている。
現任大臣が辞め、後任が就任しなければ、内閣は存続できない。
法令上の明文の拒否権ではありません。それは、資格制限、人事権、軍内部の規律、内閣運営の慣行が結びついて生まれた事実上の拒否権でした。
そして明治の終わり、その威力が初めてはっきり示されます。
第三章――西園寺内閣を倒した辞表
明治45年・大正元年(1912年)、陸軍は朝鮮半島に二個師団を増設するよう求めていました。
しかし第二次西園寺公望内閣は、日露戦争後の財政負担を抱えていました。歳出を抑えたい政府は、増師要求を認めません。
陸軍大臣の上原勇作は、12月に単独で辞表を提出しました。
大臣が一人辞めただけなら、通常は後任を置けば済みます。ところが陸軍は後任を推薦しませんでした。現役将官に限るという条件がある以上、西園寺が陸軍の外から新しい陸相を選ぶことはできません。
第二次西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。
この倒閣は、軍が制度を利用して内閣を屈服させたものと受け止められます。後継の第三次桂太郎内閣に対する反発と結びつき、第一次護憲運動が広がりました。「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動の背後には、選挙で選ばれていない勢力が内閣の生死を決めることへの怒りがありました。
大正2年(1913年)、第一次山本権兵衛内閣は陸軍省・海軍省の官制を改正し、現役という資格を外して、予備役などの将官にも軍部大臣への道を開きます。一般には、軍部大臣現役武官制の廃止と呼ばれる改革です。
ただし、これは文民を陸軍大臣や海軍大臣にできるようにした改革ではありません。大臣は依然として軍人から選ばれ、実際にはその後も現役将官の就任が続きました。
それでも、現役という条件を外した意味は小さくありません。
候補者の範囲が広がれば、軍の現執行部が人事を通して首相を締め上げる力は弱まります。西園寺内閣のように、後任を出さないだけで直ちに内閣を倒すことは難しくなったのです。
第四章 二・二六事件後、なぜ制度は復活したのか
それから23年後の昭和11年(1936年)5月、広田弘毅内閣は現役武官制を復活させました。
復活は二・二六事件から約3か月後のことです。
事件後、陸軍は青年将校の反乱を生んだ組織内の派閥対立を収拾しようとしていました。陸軍大臣となった寺内寿一は、「粛軍」を掲げて人事を刷新します。その過程では、皇道派に近い将官らを予備役へ移し、陸軍中央から排除しました。
ところが、予備役の将官でも陸軍大臣になれる制度のままでは、排除した人物が政治の側から再び陸軍省へ戻る可能性が残ります。
この復活について、歴史学者の筒井清忠は、予備役へ退けた皇道派系将官らが陸相として復帰する道を閉ざし、陸相による軍内の人事統制を強める目的を重視しています。
現役の大将・中将だけを陸相候補とすれば、陸軍中央は大臣候補を統制しやすくなる。復活には、二・二六事件後の軍内統制を立て直すという、当面の組織的な事情があったのです。
この点は重要です。
復活を最初から「陸軍がすべての内閣を倒すための陰謀」とだけ見ると、二・二六事件直後の事情が消えてしまいます。
一方で、制度が復活した結果、陸軍中央は「誰が陸軍を代表して内閣に入るか」を以前より厳しく管理できるようになりました。軍内統制のための制度が、内閣統制の力にもなる。ここでも、導入時の目的と政治的な効果は一致しませんでした。
また、制度の復活だけですべてを説明することもできません。
広田内閣が成立した昭和11年3月の段階では、現役武官制はまだ復活していませんでした。それでも陸軍は、組閣や政策に強い要求を突きつけています。政治家への暴力、政党への不信、統帥権の独立、軍を支持する世論、宮中や官僚を含む政治エリートの判断。軍の影響力は、複数の条件によって強められていました。
軍部大臣現役武官制は、軍部台頭の唯一の原因ではありません。
しかし、すでに強くなっていた軍の政治力に、制度上の鋭い刃を与えました。
第五章――宇垣内閣はなぜ生まれなかったのか
制度復活の威力が最も明瞭に表れたのが、翌昭和12年(1937年)の宇垣一成組閣失敗です。
広田内閣は、陸軍大臣・寺内寿一と衆議院議員・浜田国松の激しい応酬、いわゆる「腹切り問答」をきっかけに総辞職しました。その後、宇垣に組閣の大命が下ります。
宇垣は、長く陸軍の中枢にいた人物でした。かつて陸軍大臣として軍縮を進めた一方、軍の近代化にも取り組んでいます。政治家や財界にも幅広いつながりを持っていました。
その経歴は、首相としての強みであると同時に、陸軍中央から警戒される理由にもなりました。
陸軍内部には、宇垣が政党や財界と結びつき、軍を政治的に利用するのではないかという反発がありました。過去の陸軍内の権力争いをめぐる不信も残っていました。
陸軍三長官――陸軍大臣、参謀総長、教育総監――は、陸相候補を推薦しない方針を決めます。
宇垣自身は陸軍大将でしたが、すでに予備役です。復活した現役武官制のため、陸軍大臣を兼ねられません。現役将官の中から引き受け手を探しても、陸軍中央の意思に逆らって就任する者はいませんでした。
天皇から組閣を命じられた人物であっても、陸軍大臣一人を得られなければ内閣をつくれない。
制度上、天皇が大臣を任命し、首相が閣僚を選ぶという形は保たれていました。しかし実際の人選では、陸軍組織の同意がなければ動かない。この形式と実態のずれが、宇垣を行き詰まらせました。
宇垣は、天皇から陸軍へ働きかけてもらう「優諚」を求めることまで考えましたが、実行できませんでした。
この経緯は、「形式上の権限」と「実際に使える権限」の違いも示しています。天皇には大臣任命の大権があり、元老や宮中も首相選定に影響を持っていました。しかし、天皇が陸軍内部の人事対立へ直接介入すれば、天皇自身が政治的争いの当事者になりかねません。元老や宮中は助言や調整はできても、現役将官に就任を強制する明確な手続きを持ちませんでした。枢密院も天皇の諮問機関であり、組閣人事を処理する機関ではありません。
関与できそうな主体はいくつもありながら、陸軍に候補者を出させ、その結果に責任を負う主体は定まっていない。だからこそ、拒否を止める仕組みが働きにくかったのです。
宇垣内閣の流産は、現役武官制が既存の内閣を倒すだけでなく、望ましくないと軍が考える内閣を、成立前に阻止できることを示しました。
第六章――米内内閣を倒した一枚の辞表
昭和15年(1940年)、制度はもう一度、その力を示します。
1月に成立した米内光政内閣は、欧州で第二次世界大戦が続くなか、ドイツ・イタリアとの軍事同盟に慎重な立場をとっていました。海軍大将出身の米内は、対米英関係の悪化が日本を危険な戦争へ近づけることを警戒していました。
しかし陸軍では、ドイツの快進撃を背景に、日独伊三国同盟の締結と「南進」を求める声が強まります。陸軍と米内内閣の対立は深くなりました。
7月16日、陸軍大臣の畑俊六が辞任します。
そして陸軍は、後任の大臣を出しませんでした。
宇垣のときと同じく、首相が陸軍の外から自由に後任を選ぶことはできません。現役の大将か中将という資格を満たし、しかも陸軍組織の意思に反して就任する人物はいませんでした。
米内内閣は7月22日に総辞職します。
一枚の辞表と、後任を推薦しないという決定。それだけで、三国同盟に慎重だった内閣は退陣しました。後を継いだ第二次近衛文麿内閣は、同年9月に日独伊三国同盟を締結します。
ここには、陸海軍関係の皮肉もありました。
米内は海軍大将出身です。現役武官制は陸軍と海軍の双方に適用されていましたが、その海軍出身の首相が、海軍ではなく陸軍による大臣引き揚げで倒されたのです。この場面からも、「軍部」が一つの意思で動く組織ではなく、陸軍と海軍が別々の利害と拒否手段を持っていたことが分かります。
もちろん、米内内閣の崩壊を現役武官制だけで説明することはできません。欧州戦争の急展開、国内世論、政党の弱体化、新体制運動、陸海軍内部の対立が重なっていました。
それでも、陸軍が政策対立を政権交代へ結びつける最後の手段を持っていたことは否定できません。
現役武官制は、政治的圧力を実際の倒閣へ変換する装置として働いたのです。
第七章――本当に怖いのは「使われる前」だった
西園寺内閣、宇垣の組閣、米内内閣。
三つの事例を見ると、軍部大臣現役武官制の力は分かりやすく見えます。
しかし、この制度の影響は、実際に内閣を倒した回数だけでは測れません。
首相や閣僚が、「陸軍の要求を拒めば、陸相が辞めるかもしれない」「次の陸相を出してもらえないかもしれない」と考えれば、対立が表面化する前に譲歩するようになります。
拒否権は、行使されたときだけ働くのではありません。行使されると予想されることで、政策の選択肢を狭めます。
軍備、予算、外交、人事。政府が決定するはずの問題について、軍の同意をあらかじめ織り込むことが内閣存続の条件になる。すると、軍は内閣の外から命令しなくても、内閣の判断に影響を与えられます。
ここに、現役武官制のより深い政治的効果がありました。
ただし、軍が常に一枚岩で、思いどおりに国家を動かしたわけではありません。陸軍と海軍は対立し、陸軍内部にも派閥や世代の違いがありました。軍人同士の意見が割れ、政府が軍の要求を抑えた場面もあります。
また、制度を使った軍だけに責任を集めれば、政治家、官僚、宮中、財界、新聞、そして軍の主張を支持した社会の側が見えなくなります。
制度は、それだけで政治を動かしません。
けれども、制度は「誰の同意がなければ政治が動かないか」を決めます。
現役武官制は、軍を内閣の一部に置きながら、同時に軍へ内閣を選別する力を与えました。軍人が大臣として政府に参加したというより、軍という組織が大臣の供給を通して政府を拘束したのです。
結――内閣を倒したのは法律の一行だけではない
軍部大臣現役武官制とは、陸軍大臣と海軍大臣を現役の高級将官に限定する制度でした。
それ自体は、短い資格規定にすぎません。
しかし、その背後には軍の人事権がありました。統帥権の独立がありました。軍内部の強い規律がありました。そして、すべての閣僚をそろえなければ内閣を維持できないという政治の仕組みがありました。
それらが組み合わさったとき、「大臣を出さない」という不作為が、政権を倒す力に変わりました。
問題は、軍人が政治について意見を持ったことではありません。
選挙による責任を負わない組織が、自らの専管する人事を使って、内閣の成立と存続を左右できたことです。しかも、その拒否に対して、誰がどのように責任を負うのかが曖昧なままでした。
昭和20年(1945年)の敗戦後、陸軍省と海軍省は廃止されます。日本国憲法第66条は、内閣総理大臣と国務大臣を文民と定めました。
しかし、文民を大臣にすれば、それだけで民主的統制が完成するわけではありません。
専門組織に必要な自律性を認めながら、最終的な決定を誰が下し、誰が説明し、失敗の責任を誰が負うのかを明確にする。制度と慣行の両方を整え続けなければ、形式上の権限と実際の力は再びずれていきます。
文民統制とは、大臣が文民であるという属性だけではなく、専門組織が持つ情報と選択肢を政治の側が検討し、決定の理由を社会へ説明できる状態でもあります。
満洲事変では、現地軍が先に行動し、政府があとから追認しました。
軍部大臣現役武官制では、軍が人事の入口を閉じることで、政府が選べる道そのものを狭めました。
一方は、政府の外で既成事実をつくる力。
もう一方は、政府の内側へ入る扉を閉ざす力。
異なる仕組みですが、どちらも「誰が国家の最終決定を担うのか」という問題につながっています。
昭和の日本で、その答えは最後まで明確になりませんでした。
あとがき
軍部大臣現役武官制を調べるほど、政治を動かすのは、目立つ命令だけではないと感じます。
誰かが「こうせよ」と命じなくても、必要な人を出さない。協力を拒む。責任の所在を曖昧にしたまま、相手が折れるのを待つ。それだけで、大きな権力になることがあります。
この制度については、「軍が内閣を倒すための悪法だった」という説明が広く知られています。その説明は、制度が実際に果たした役割の一面を捉えています。
ただ、成立時の目的、二・二六事件後に復活した直接の事情、そして実際に倒閣へ使われた結果を分けて見ると、より複雑な姿が現れます。
制度は、つくられたときの目的のまま働き続けるとは限りません。
周囲の政治環境が変われば、専門性を守る仕組みが拒否権となり、組織統制の手段が政権統制の道具にもなります。
だからこそ、制度を評価するときには「何のためにつくられたか」だけでなく、「誰がそれを使えるのか」「使われたとき誰が止められるのか」まで見なければならないのでしょう。
次回は、昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を取り上げます。
現地で始まった小規模な衝突を、政府も陸軍中央も当初は「不拡大」にとどめようとしました。それにもかかわらず、なぜ日中両国は全面戦争へ進んだのか。
満洲事変と軍部大臣現役武官制で見てきた、既成事実、組織の自律性、そして決定責任の分散が、次の段階でどのように結びついたのかを考えます。
参考文献・資料
筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治――軍部大臣現役武官制の虚像と実像』岩波書店、2007年
北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ――1924~1941』中央公論新社、1999年
