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第一次世界大戦と日本――遠い戦場が変えた世界と、その外縁にいた国


序――1914年、夏


1914年の夏、ヨーロッパで四年間続く大きな戦争が始まりました。
第一次世界大戦です。
この戦争で、世界中から一千万人を超える若者が命を落とします。ヨーロッパの地図が書き換えられ、数百年続いた王朝がいくつも消え、戦争のやり方そのものが変わってしまった――そんな戦争でした。
ところが日本は、この戦争にほとんど巻き込まれていません。主な戦闘は中国の青島(チンタオ)攻略と太平洋の島々の占領で、戦死者は数百人規模、全体でも極めて限られたものでした。青島は、日清戦争後に弱体化した清朝からドイツが1898年に租借した軍港です。ヨーロッパの戦争なのになぜ中国が関係するのか――それは、列強が中国の沿岸部に拠点を持っていたからでした。ヨーロッパ諸国の百万単位の犠牲に比べれば、日本の損害は桁がいくつも違います。そのうえ日本は戦勝国の一員として、新しい領土や国際的な地位を手に入れました。
当時の日本の政治家・井上馨は、開戦の報せに接して「天佑(てんゆう)」――天の助け――と書き残しています。遠い国の戦争が、日本にとっては幸運だった、という感覚です。
今日は、この「天佑」の正体を追いかけてみたいと思います。
ヨーロッパではなぜ、一つの暗殺事件から世界規模の戦争が始まってしまったのか。その戦場はどれほど過酷なものだったのか。そして、戦勝国の一員となった日本は、本当に何かを得たのか――あるいは、直接体験しなかったことが、その後の歴史に影響したのか。
これから六つの章で、世界が作り替えられた四年間を追いかけます。最初は視点をヨーロッパに置いて、戦争そのものの姿を見てみましょう。最後にもう一度、日本に戻ってきます。そのとき見える景色は、ずいぶん違って見えるはずです。


第一章 なぜ一つの暗殺事件から大戦争になったのか


1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボで、一つの暗殺事件が起きました。オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、十九歳のセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプに射殺されたのです。プリンツィプは、セルビア系の民族主義組織「黒手組(くろてぐみ)」とつながりのある青年でした。六年前の1908年、オーストリアがセルビア人の多く住むボスニアを一方的に併合したことへの怒りが、この地域のセルビア人の間にくすぶり続けていたのです。
普通に考えれば、これはオーストリアとセルビアの間のもめごとで済むはずの事件です。ところがこの銃弾が引き金になって、わずか一ヶ月あまりでヨーロッパの大国のほとんどが戦争当事者になってしまいました。なぜでしょうか。
当時のヨーロッパは、もうすでに「戦争が起きたら一斉に燃え広がる仕組み」の中で生きていたのです。
どういうことか。話は四十年ほど前にさかのぼります。
1871年、プロイセンがフランスを破り、ドイツ帝国が誕生しました。それ以来、ヨーロッパの大国同士は直接戦争をしていません。四十年以上続いた、長い平和の時代です。
しかしこの平和は、穏やかなものではありませんでした。各国は次の戦争に備えて、せっせと同盟を結び、軍備を膨らませ、互いを睨み合っていたのです。平和の時代が、実は戦争の準備期間だった――これがヨーロッパの姿でした。
そのなかで、二つの大きな陣営ができあがっていました。
一つは、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの「三国同盟」です。これを作ったのはドイツの宰相ビスマルクでした。ドイツは普仏戦争でフランスを破って誕生した国ですから、フランスがいつか復讐に動くことを恐れていた。そこでビスマルクは、フランスを孤立させるためにオーストリアやイタリアと手を結びました。ただしイタリアは、いざ開戦すると同盟を裏切り、領土の約束と引き換えに協商側――つまりイギリス・フランス側で参戦します。同盟というものの脆さを示す、象徴的な出来事でした。
もう一方が、イギリス・フランス・ロシアの「三国協商」です。こちらは最初から固い軍事同盟だったわけではなく、共通の脅威――急速に台頭するドイツ――に対するゆるい協力関係として形づくられていきました。1894年にまずフランスとロシアが同盟を結び、1904年にイギリスとフランスが協商を、1907年にはイギリスとロシアも協商を結んでいます。ドイツが海軍を急拡張してイギリスの覇権を脅かし、植民地争奪でフランスと衝突し、バルカン半島でロシアと対立する。それぞれの不安が重なって、三つの国がまとまっていったのです。
こうしてヨーロッパは「どちらかが動けば相手も動く」という二大陣営に分かれました。
もう一つ、大事な舞台がバルカン半島です。
バルカン半島は、長年オスマン帝国の支配下にありましたが、帝国が弱ってくると、できた空白地帯にロシアとオーストリアが勢力を伸ばそうとしました。現地では民族同士の対立も激しく、このあたりは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたほどです。
とくにセルビアは、オーストリアに深い恨みを抱えていました。先ほど触れた1908年のボスニア併合です。同胞が暮らす土地を一方的に奪われた屈辱は、セルビア人の間で怒りの火種となり続けていました。
そして1914年、その火薬庫に火花が散ったわけです。
暗殺を受けて、オーストリアはセルビアに強烈な最後通牒を突きつけました。呑めば独立国の面目が潰れ、呑まなければ戦争になる――そんな中身です。セルビアはほぼ全面的に受け入れる姿勢を見せましたが、オーストリアは宣戦布告します。
ここまでは、バルカン半島のローカルな戦争で済む可能性もありました。ところが、ここから同盟のドミノが倒れ始めるのです。
まず、スラヴ民族の兄貴分を自任するロシアが、セルビアを守るために軍の出動準備を始めます。すると、オーストリアの同盟国ドイツが「ロシアが動くならフランスも動く。先手を打つしかない」と判断し、ロシアとフランスに宣戦布告。ドイツ軍はフランスに攻め込むため、中立国ベルギーに侵攻しました。これを見て、ベルギーの中立を守る約束をしていたイギリスがドイツに宣戦布告します。
たった一週間ほどで、ヨーロッパの大国がほぼ全て戦争当事者になっていました。同盟の連鎖反応が、一気に広がったのです。
しかし実は、当時の各国の指導者たちは大戦争を望んでいたわけではないのです。それでも、なぜ戦争を止められなかったのか。皮肉なことに、彼ら自身が作った計画が邪魔をしたのです。
当時の各国の軍部は、戦争になったらどう兵を動かすか、事前に細かい作戦を練っていました。とくにドイツの計画はこうです。「ロシア軍が集まってくるのは時間がかかる。その間に、まず西のフランスを電撃的に叩く。フランスを片付けてから、東に引き返してロシアをやっつける」。
この計画は「シュリーフェン計画」と呼ばれ、ドイツ軍の参謀総長シュリーフェンが立案したものです。ドイツは西にフランス、東にロシアという二つの大国に挟まれており、両方と同時に戦う事態をとにかく避けたかった。しかも当時の動員は鉄道輸送に完全に依存しており、何百万人もの兵士を決まった順番で決まった駅から送り出す計画は、列車の時刻表のように精密に組み上げられていました。兵士を運ぶ列車が何時にどこを出発し、何時にどの橋を通過するか、そこまで細かく決めておかないと全体が渋滞してしまう。長引けばドイツが不利という判断から短期決戦にこだわった結果、計画に余裕を持たせる発想がなくなっていたのです。
ところが、ここに落とし穴がありました。柔軟に修正が効かない計画を作ってしまっていたのです。一度動き始めたら、もう止められない。止めたら作戦全体が崩れてしまうからです。
だから「とりあえず兵を集めるだけ集めて、それから話し合おう」という選択肢は、事実上ありませんでした。動かすと決めた瞬間に、もう戦争は始まってしまう――そんな仕組みだったのです。
誰もが戦争を望まず、誰もが止められない。
同盟の鎖、修正が効かない戦争計画、そして四十年間積み重なった敵意。この三つが重なって、一発の銃弾がヨーロッパ全体を巻き込む大戦争になってしまいました。
1914年の夏、ヨーロッパはこうして、誰も望まないまま戦争の時代に入っていったのです。

第二章 塹壕戦の現実


開戦当初、兵士たちを送り出す家族は「クリスマスまでには帰ってくる」と信じていました。各国の参謀本部もそう考えていたのです。
ところが、誰もその予想どおりにはなりませんでした。
最初の数ヶ月、ドイツ軍はフランスに一気に攻め込もうとします。しかしパリの手前でフランス軍に押し返され、戦線は膠着してしまいました。なぜかというと、機関銃や鉄条網といった新しい兵器が守る側を圧倒的に有利にしたからです。それまでの戦争のように兵士が突撃すれば前線を突破できる、という古い常識が通用しなくなっていました。両軍は互いを攻め切れず、地面を掘って身を隠すようになります。これが塹壕(ざんごう)――深さ二メートルほどの長い溝です。
この塹壕が、北は北海沿岸から南はスイス国境まで、約七百キロにわたって掘られました。兵士たちは、ここに何年も張り付くことになります。
塹壕の中はどんな場所だったか。
泥と糞尿(ふんにょう)と腐臭にまみれ、ネズミと虱(しらみ)とともに暮らす空間です。雨が降れば膝まで泥水に浸かり、兵士たちの足は長期間の湿気と冷えで血流が悪くなり、やがて壊死する「塹壕足」という症状が広がりました。ひどい場合は足を切断するしかなかったといいます。
塹壕と塹壕の間には、「無人地帯」と呼ばれる一帯が広がっていました。有刺鉄線が張り巡らされ、砲弾で抉れた穴には雨水と死体が溜まっている場所です。
突撃命令が出ると、兵士たちはそこを横切って敵の塹壕を目指します。しかし、この頃の戦い方はまだ十九世紀のままで、「兵士が銃を持って突撃すれば前線を突破できる」と考えられていました。ところが守る側には機関銃や鉄条網、遠距離砲がある。古い戦い方と新しい兵器が合わなかったのです。結果、攻める側が圧倒的に不利になり、一瞬で何十人、何百人が倒れる。
たとえば1916年のソンムの戦い。初日だけで、イギリス軍の戦死傷者は約六万人にのぼりました。たった一日で、です。同じ年のヴェルダンの戦いでは、ドイツ軍とフランス軍が半年以上にわたって殺し合い、両軍合わせて七十万人以上の死傷者を出しています。
この戦争では、新しい兵器も次々に登場しました。毒ガスは風向き次第で自軍に被害を及ぼす恐れがあり、完全な制御が難しい兵器でした。戦車は塹壕を突破する力を持ちながら、当初は故障が多く信頼性に欠けていました。飛行機はまだ偵察や簡単な爆撃が中心で、操縦士の生存率も低かった。潜水艦は敵の補給路を断つ力を持ちましたが、敵味方の見極めが難しく、中立国の船まで撃沈してしまうことがありました。それでも兵器が進化するたびに、戦場はより広く、より多くの命が失われていきます。
そしてもう一つ、この戦争が生み出したものがあります。「総力戦」という考え方です。
戦争が何年も続くと、国家の資源を全部つぎ込まないと戦えなくなります。男たちが戦場に行ったあとの工場では、女性たちが砲弾を作りました。イギリスでは百万人を超える女性が軍需工場で働いたといわれます。農村では高齢者と子供が畑を耕し、都市では配給制が敷かれ、国民全員が戦争に巻き込まれる――これが総力戦です。
ドイツでは、イギリス海軍の封鎖で食糧が足りなくなり、1916年の冬は「カブラの冬」と呼ばれる飢餓の季節になりました。小麦もジャガイモもなく、人々は家畜用のカブを食べて命を繋いだといいます。この冬だけで、数十万人が餓死や衰弱死したと推定されています。
つまり第一次世界大戦は、前線の兵士だけでなく、銃後の市民まで巻き込む戦争になった。これは人類が初めて経験する規模の戦争でした。
戦争が終わるまでに、各国を合わせた戦死者は約一千万人。戦傷者はその倍以上です。ヨーロッパの一世代の若者が、文字通り、この四年間で消えてしまいました。
この巨大な犠牲は、しかし、一つだけ副産物を残します。
国民がこれだけ国家のために血を流したのだから、その対価を要求してよい――という論理の成立です。
イギリスでは1918年、三十歳以上の女性に選挙権が認められました。軍需工場で働き、夫を戦場に送った女性たちの貢献を、もう無視できなくなったのです。「これだけ国のために尽くした自分たちに権利を与えないなら、もう協力しない」――そうした国民の圧力が、政治を動かしたという側面もありました。敗戦国ドイツでも、翌年に成立したヴァイマル憲法――ドイツの新しい共和国が定めた憲法です――は、当時世界で最も進歩的な内容でした。男女平等の普通選挙、八時間労働制、社会保障――疲弊した国民に対して、国家が払わざるを得なかった「代償」だったのです。
塹壕の地獄を通過した国民は、その見返りとして、近代的な市民の権利を手にしていきました。総力戦が、皮肉にも、民主主義と社会権の土台を築いた――そう言うことができます。
この四年間、日本兵が欧州の塹壕の泥の中に身を置くことはありませんでした。日本は日英同盟を根拠に連合国側で参戦しましたが、主な戦場はドイツが清朝から租借していた中国の青島と、同じくドイツ領だった太平洋の島嶼でした。いずれもヨーロッパから遠く離れた、ドイツの海外拠点を接収する戦いです。日本にも戦場で命を落とした兵士がいましたが、戦死者は数百人規模とされており、ヨーロッパ諸国の百万単位の犠牲とは桁違いでした。

第三章 崩れた帝国と、台頭する新勢力


第一次世界大戦は、戦争の形を変えただけではありません。ヨーロッパの政治地図そのものを、根本から書き換えました。
開戦時、ヨーロッパには四つの大きな帝国がありました。ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国。いずれも数百年続いてきた王朝です。
戦争が終わった1918年末、この四つが全て消えていました。皇帝たちは退位し、あるいは処刑され、国境は引き直され、地図の上から消えた国名がいくつもあります。
とくに劇的だったのが、ロシア革命です。
戦争が始まって三年、ロシア帝国は限界に達していました。前線では装備不足で兵士が素手で突撃させられ、後方では市民が飢えに苦しんでいます。1917年3月、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で「パンをよこせ」と叫ぶ女性労働者のデモから革命は始まりました。鎮圧に向かった兵士たちが次々に革命側に寝返り、わずか一週間で皇帝ニコライ二世は退位に追い込まれます。
ところが物語はここで終わりませんでした。臨時政府が戦争を続けようとしたため、兵士と労働者の不満は収まりません。そこに登場したのが、スイスから帰国したレーニンです。「すべての権力をソヴィエトへ」「即時講和」を掲げた彼のボリシェヴィキ党が、同年11月、武装蜂起で臨時政府を倒しました。
史上初の社会主義国家の誕生です。
皇帝ニコライ二世と家族は翌年、ウラル山脈の町で銃殺されました。三百年続いたロマノフ朝は、こうして幕を閉じました。
ドイツも敗戦の混乱で崩れ落ちます。1918年11月、水兵の反乱をきっかけに革命が起き、皇帝ヴィルヘルム二世はオランダに亡命しました。多民族を束ねていたオーストリア=ハンガリー帝国は、チェコ、ハンガリー、ユーゴスラヴィアなどに分裂。オスマン帝国も戦後の混乱のなかで解体し、やがてトルコ共和国に生まれ変わります。
同じ時期に、世界史を動かす新しい主役が二つ登場しました。
一つは、アメリカです。
アメリカは最初、この戦争に中立を保っていました。ところが1915年、ドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈し、乗り合わせていたアメリカ人百二十八名が犠牲になります。この事件で世論は一気に反ドイツに傾きました。さらに1917年、ドイツがメキシコに対して「アメリカと戦うなら同盟を組もう」と持ちかけた秘密電報――ツィンメルマン電報――がイギリスの諜報機関によって暴露されます。自国への敵意がここまであからさまに示されたことで、アメリカの世論は決定的に参戦へと動きました。1917年4月、アメリカは連合国側で参戦します。
アメリカ参戦の意味は、兵力の追加だけではありません。この四年間で、アメリカは世界の貸し借りの立場を一気に入れ替えてしまったのです。
どういうことか。戦争が始まる前、アメリカは世界最大の債務国の一つでした。ヨーロッパから資金を借りて鉄道を敷き、工場を建てていた国です。ところが戦争が始まると、イギリスもフランスもアメリカに武器と食糧を発注し、その支払いのためにアメリカから借金を始めます。
戦争が終わる頃、アメリカは世界最大の債権国になっていました。世界一の「借り手」だったアメリカが、わずか四年間で世界一の「貸し手」に変わったのです。ニューヨークのウォール街が、ロンドンに代わって世界金融の中心に躍り出る――二十世紀後半から今日まで続く世界秩序の土台が、この四年間で据えられたのです。
もう一つの新しい主役が、先ほどの社会主義国家ソ連でした。
資本主義のアメリカと、社会主義のソ連。二つの新しい超大国が、ほぼ同じ時期に世界の舞台に現れた。この二つが、そのあと七十年以上にわたって冷戦の主役になっていきます。
第一次世界大戦は、十九世紀の古い秩序を終わらせ、二十世紀の新しい秩序を生み出した戦争でした。私たちが生きる現代の世界の原型は、この四年間でできあがっていたのです。

第四章 パリ講和会議――新しい世界の設計図、その歪み


1918年11月11日、ついに戦争が終わりました。翌1919年1月、パリのヴェルサイユ宮殿で講和会議が始まります。
集まったのは戦勝国の代表たち。主役は「ビッグ・フォー」と呼ばれた四人――アメリカのウィルソン大統領、イギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、イタリアのオルランド首相でした。ただし実際の議論を動かしたのは前の三人で、オルランドは自国の領土要求が通らないと途中で一時退席するなど、存在感は薄いものでした。日本からは元老・西園寺公望を首席全権として、牧野伸顕らが参加しています。
ウィルソンは理想に燃えていました。「十四ヶ条の平和原則」を掲げ、民族自決、軍縮、国際連盟の創設――戦争を生み出す古い外交のしくみそのものを作り変えよう、という主張です。多くの人々が彼を、新しい世界の設計者として歓迎しました。
ところが会議の実態は、理想とはかけ離れていました。
フランスのクレマンソーは、ドイツを徹底的に痛めつけることを求めます。二度と立ち上がれないほどの賠償金を課す――それが半世紀の間に二度もドイツに侵略された国の感情でした。イギリスも内心では大陸の勢力均衡を望んでいます。理想を説くウィルソンと、現実の利害を主張するヨーロッパ諸国との間で、会議は何度も暗礁に乗り上げました。
結果、ドイツに課された賠償金は途方もない額になりました。国土の一部は割譲され、軍備は陸軍十万人に制限されます。ドイツ国民は屈辱的な条約を呑まされ、深い恨みを抱えました。この恨みが、二十年後にヒトラーを生む土壌になります――が、それはまだ先の話です。
中東では、もっと露骨な線引きが行われました。戦時中にイギリスは、アラブ人には独立を、ユダヤ人にはパレスチナを、そしてフランスとは領土の分割を――互いに矛盾する三つの約束をしていたのです。パリ講和会議で中東の国境が引かれたとき、この矛盾はそのまま現地に押し付けられました。現在までパレスチナ問題として続く紛争の火種は、ここで蒔かれたわけです。
さて、日本はこの会議で何を得たでしょうか。
赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権――国際連盟から「代わりに管理してよい」と認められた権利です――、中国山東省のドイツ権益、そして国際連盟の常任理事国の地位。アジアで唯一、世界の意思決定の中枢に席を持つ国――日本はついに「一等国」の仲間入りを果たしたのです。ただし、山東省の権益を日本が引き継いだことに対して、中国は強く反発しました。1919年5月4日、北京で学生たちが大規模なデモを起こし、反日運動が全国に広がります。五四運動です。この出来事の根は、次の章で触れる「対華二十一ヶ条要求」にまでさかのぼります。
しかし、この会議で日本にとって最も印象深い出来事は、別のところにありました。
牧野伸顕らが提出した「人種的差別撤廃提案」です。国際連盟の規約に「人種による差別を行わない」という一文を盛り込もう、という提案でした。今の感覚では当たり前のことですが、当時は画期的でした。アメリカでは黒人差別が法的に続き、オーストラリアやカナダは白人以外の移民を露骨に排除していた時代です。
審議の結果、提案は十七ヶ国中十一ヶ国の賛成を得ました。過半数です。
ところが議長のウィルソンは、「これほど重要な事項は全会一致でなければならない」という、それまで使っていなかったルールを突然持ち出して、提案を退けてしまいます。普段は多数決で議事を進めていたのに、この時だけ違ったのです。
背後には、オーストラリアの激しい反対と、アメリカ国内の人種問題への配慮がありました。白人国家の首脳たちは、この提案が通れば自国の移民政策や人種政策が揺らぐことを恐れたのです。
理想主義者のウィルソンが、人種問題では突然ルールを変えた――この皮肉な出来事を、日本の代表団はどう受け止めたでしょうか。
得たものは多かった。会議の椅子も、新しい領土も、一等国の地位も。しかし同時に日本は、「白人国家が作る新しい世界の秩序は、アジアの国には等しく開かれていない」という現実を突きつけられたのです。
パリで設計された新しい世界は、こうして最初から歪みを抱えて出発したのです。

第五章 渦の外縁で――日本が見た四年間


さて、ここまで世界の側から四年間を眺めてきました。ここで、ようやく日本に視点を戻しましょう。同じ四年間が、日本ではどう過ぎていったのか。
開戦からわずか十日後の1914年8月、日本は日英同盟を根拠にドイツに宣戦布告します。外相・加藤高明(かとうたかあき)の、やや独断ぎみの決断でした。
ただし、これは同盟の義務を果たしただけではありませんでした。条約上、日本に厳格な参戦義務があったわけではなく、イギリス側も当初は日本の過度な関与を懸念する様子を見せていました。それでも日本が自ら進んで動いたのには、もう一つの理由がありました。ヨーロッパの列強が戦争に没頭している隙に、ドイツが中国や太平洋に持つ権益を手に入れる――そう計算した、現実的な判断でもあったのです。元老の井上馨が「天佑」と書いたのも、この機会を国運発展のチャンスと見たからでした。
目標は、山東半島にあるドイツ軍の青島(チンタオ)要塞と、太平洋のドイツ領南洋諸島の占領です。青島攻略戦は二ヶ月ほどで決着し、南洋諸島の占領はほぼ無血で完了しました。日本側の戦死者は青島戦で約四百人から五百人。戦闘の規模としては、ヨーロッパの前線とは比較にならないほど限定的なものでした。
翌1915年、日本は中国に対して「対華二十一ヶ条要求」を突きつけます。内容は多岐にわたりました。山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、南満州の租借期間を大幅に延長すること、中国沿岸の港を他国に貸さないこと、そして中国政府に日本人顧問を置くことなど、内政への干渉にまで踏み込む要求を並べたものです。特に最後の項目は、中国を事実上の保護国にしようとするものだと見なされました。当時の中国・袁世凱政権は欧米の支援を失って孤立しており、日本はヨーロッパの列強が戦争に忙しい隙を「絶好の機会」と見たわけです。
内容は極秘扱いにするはずでしたが、やがて外部に漏れます。中国国内では激しい反日運動が起き、欧米諸国からも「機会に乗じた帝国主義的な拡大」と批判の目が向けられました。受諾を迫られた日――五月九日――は中国で「国恥記念日」として長く記憶されることになります。短期間で権益を得た見返りに、中国との信頼関係に深い傷を残した出来事でした。
結果、中国政府は大部分を受諾しました。しかし得たものより失ったもののほうが大きかったかもしれません。中国の人々の心に根深い反日感情が芽生え、欧米列強、とくにアメリカの対日感情もこの時期から悪化していきます。この不満は戦後のパリ講和会議で山東省の権益が日本に渡されたことで頂点に達し、1919年5月の五四運動――北京から中国全土に広がった反日・反帝国主義の抗議運動――として爆発しました。中国のナショナリズムが本格的に動き始めた転機であり、のちの日中関係に長い影を落としていきます。
一方、国内は空前の好景気に沸いていました。
ヨーロッパが生産どころではなくなったため、アジア市場と連合国からの注文が日本に殺到したのです。綿織物、雑貨、そして何より船舶の需要が爆発しました。海運業から「船成金」と呼ばれる成り上がりの富豪が次々に生まれます。
工業生産額は五年間で約五倍に膨らみ、1919年には工業生産額が農業生産額を初めて上回りました。日本が農業国から工業国へと脱皮した、決定的な瞬間です。
「成金」という言葉が広まったのもこの時期です。料亭で百円札を燃やして靴を探したとか、「どうだ明るくなったろう」と札を燃やして見せたとか――そんな逸話が残っています。
しかし、この豊かさは社会全体には行き渡りませんでした。
好景気は物価を押し上げ、とくに主食の米価が急騰します。1918年には前年の二倍以上にまで跳ね上がりました。賃金は物価の上昇に追いつかず、庶民の生活は苦しくなる一方です。
そして同じ年の夏、富山県の漁村の女性たちから始まった米の廉売要求が、全国に広がりました。米騒動です。騒動は一道三府三十七県に及び、参加者は数百万人と推定されます。軍隊が出動して鎮圧にあたり、検挙者は二万人を超えました。内閣は総辞職に追い込まれ、この後、本格的な政党内閣である原敬内閣が成立します。
ここで、少し目線を上げてみたいのです。
この同じ時期、ヨーロッパでも民衆が街頭に出て、政治を動かしていました。しかし動機は日本とは違います。
ヨーロッパの人々が政治に要求を突きつけた根拠は、「私たちは戦場で、あるいは銃後の工場で、国家のために身を削ってきた。その対価を払え」というものでした。戦争という共通体験が、民主化を進める力になっていたのです。
日本の米騒動の根拠はどうだったでしょうか。「米が高くて食べていけない」。これもまぎれもなく切実な声です。しかし、その背後に「戦争で払った代償」という重みはありません。
大正デモクラシーは、戦争の対価としてではなく、好景気という不安定な土台の上に生まれたものでした。
この根の浅さが、あとで効いてきます。昭和になって経済の土台が揺らいだとき、政党政治は驚くほど簡単に倒れていくのですが――それはまた別の話になります。
一方、戦争終盤から戦後にかけて、もう一つ触れておきたい出来事があります。「シベリア出兵」です。
ロシア革命への干渉として、連合国と共同で開始されたこの軍事行動で、日本だけが突出した規模――約七万二千人――の兵を送りました。他の連合国の想定をはるかに超えるこの規模の背後には、ロシアの混乱に乗じて北満州やシベリアに勢力圏を広げようという、軍部独自の野心が強く働いていました。政府の方針とは別に軍が独自に動く――この先に起きることの予兆でもありました。撤退も遅れて1922年までずれ込み、戦死者約三千五百人、戦費は十億円を超えます。得たものはほとんど何もありません。
さて、四年間の収支を並べてみましょう。
日本が得たもの――旧ドイツ領南洋諸島、山東省の権益、戦勝五大国の地位、国際連盟常任理事国のポスト、工業国への転換、大戦景気。
日本が失ったもの――アメリカとの関係の悪化、中国の反日感情、社会の格差拡大、シベリア出兵の泥沼。
数字の上では、得たもののほうが大きい。当時の指導者たちは、満足していたでしょう。
しかし、この四年間のあいだに日本が経験しなかったことを並べてみると、別の姿が見えてきます。
塹壕で何年も泥にまみれること。毒ガスの恐怖。都市への爆撃。国土を戦場にされること。飢餓。王朝の崩壊。革命。一世代の若者を失うこと。そして何より、戦争が自国の社会を根本から作り変えてしまうような経験を、日本は一つも通過しませんでした。
日本は戦勝五大国の一つとなり、国際連盟常任理事国の椅子に座りました。形式の上では、たしかに一等国です。
しかし、その内実は、他の四カ国とは共有されていなかったのです。

結――知らない、ということ


1918年11月、ヨーロッパで銃声が止んだ日。ロンドンの街では群衆が広場に繰り出し、抱き合って泣いていたといいます。パリでは歓喜の声が夜通し響き、ベルリンでは皇帝退位の混乱のなかで人々が祝杯を挙げました。
同じ夜、東京の街はいつもの秋の静けさの中にありました。新聞は休戦の報せを伝えていましたが、号外を読む人々の顔に、ヨーロッパの人々が見せたような涙や放心は、おそらくなかったはずです。
ただ、同じ四年間を、ずいぶん違った感覚で過ごしたのだ、ということです。
この四年間、日本は何も失わず、いろいろなものを得ました。それは幸運でした。
しかし、経験しないということは、知らないということです。そして知らないことは、同じ過ちを繰り返す可能性を残します。
あの戦争の二十年ほどあと、世界は再び大きな戦争に突入します。そのとき日本はどう振る舞ったか。何を学んでいて、何を学び損ねていたか。その話は、また別の機会に追いかけたいと思います。
今回も長い記事を最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
次の記事でまたお会いしましょう。

参考文献


山室信一『複合戦争と総力戦の断層――日本にとっての第一次世界大戦』人文書院、2011年。――日本にとっての第一次世界大戦を、総力戦論の視座から再検討した論集。
木村靖二『第一次世界大戦』ちくま新書、2014年。――コンパクトに戦争の全体像を掴める概説書。塹壕戦や銃後の実態にも詳しい。
井上寿一『第一次世界大戦と日本』講談社現代新書、2014年。――日本外交の視点から第一次大戦期を再構成。対華二十一ヶ条や人種差別撤廃提案の経緯を整理。
奈良岡聰智『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか――第一次世界大戦と日中対立の原点』名古屋大学出版会、2015年。――二十一ヶ条要求を緻密に分析した労作。
マーガレット・マクミラン『ピースメイカーズ――1919年パリ講和会議の群像』稲村美貴子訳、芙蓉書房出版、2007年。――パリ講和会議の六ヶ月を、当事者たちの人間像から生き生きと描いた国際的名著。
バーバラ・タックマン『八月の砲声』山室まりや訳、ちくま学芸文庫、2004年。――開戦に至るまでの一ヶ月を劇的に描いた歴史叙述の名作。戦争がいかに始まってしまうかを教えてくれる。
成田龍一『大正デモクラシー』岩波新書、2007年。――米騒動や大戦景気など、大正期の国内状況を民衆史の視点から描く。
エリック・ホブズボーム『20世紀の歴史――極端な時代』河合秀和訳、三省堂、1996年。――二十世紀を「短い二十世紀」として捉えた名著。第一次大戦を時代の出発点とする。

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