二・二六事件――「昭和維新」を信じた青年将校たち
プロローグ――時計の針を、雪の朝へ戻す
前回の記事では、敗戦後の日本が占領政策のもとで軍を解体し、国民主権を掲げる国へと組み替えられていく過程をたどりました。
しかし、そもそも戦後日本は、何から生まれ変わろうとしたのでしょうか。
その答えを探すため、時計の針を敗戦の9年前へ戻してみたいと思います。
昭和11年(1936年)2月26日未明、東京には大雪が積もっていました。白く沈んだ街を、完全武装した陸軍部隊が進んでいきます。
急進的な青年将校らが率いた兵士は、およそ1,400人。彼らは首相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部など、政治と軍事の中枢が集まる永田町・三宅坂一帯を襲撃、占拠しました。
斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長は瀕死の重傷を負います。岡田啓介首相も殺害されたと報じられました。
衆議院の書記官だった大木操は、その朝の日記を「雪。今朝七時半頃、警務課より電話」と書き始め、要人が襲撃され、即死または重傷との第一報を記しました。短い記述には、雪の静けさに突然入り込んだ国家中枢の混乱が刻まれています。
青年将校たちが掲げたのは、「尊皇討奸」と「昭和維新」でした。
天皇を中心とする新しい国家をつくるため、天皇のそばにいる悪臣を倒す。彼らは自分たちの行動を、私欲による反乱ではなく、国家を救うための決起だと信じていました。
しかし、その天皇は彼らを支持しませんでした。
天皇のために立ったと信じる軍人が、天皇の命令によって反乱軍とされる。二・二六事件の核心には、この大きな矛盾があります。
そして、さらに不可解なことがあります。
反乱は鎮圧され、主導した青年将校たちも厳しく処罰されました。それにもかかわらず、事件後の日本では、軍の政治的影響力がむしろ強まっていったのです。
失敗したクーデターは、なぜ軍部の時代を終わらせることができなかったのでしょうか。
第一章――「昭和維新」は何を変えようとしたのか
青年将校たちが生きた昭和初期の日本では、議会政治への信頼が大きく揺らいでいました。
昭和恐慌によって企業の倒産と失業が広がり、農村では繭や農産物の価格が下落しました。東北地方を中心に欠食児童や娘の身売りが社会問題となり、政党と財閥の癒着を批判する声も強まります。
軍の若い将校は、農村出身の兵士を部下として預かっていました。家族の窮状を訴える手紙を受け取る兵士や、満足な送金もできない家庭の姿を見た者もいたでしょう。そこから「既成政党は国民を救えない」という怒りを募らせた――これが、二・二六事件を説明する際に長く語られてきた物語です。
ただし、現在の研究では、青年将校たちの動機を農村の窮乏だけで説明することには慎重な見方があります。
裁判記録や手記を詳しく見ると、思想や行動方針は一様ではありませんでした。北一輝の国家改造思想から強い影響を受けた者もいれば、必ずしも北の思想をそのまま受け入れていなかった者もいます。農村救済を重視した者もいましたが、軍内部の人事への反発や、自分たちが正しいと信じる国体を実現したいという願望も重なっていました。
彼らに共通していたのは、選挙や議会で少しずつ制度を変える道への深い不信でした。
政党、財閥、官僚、重臣。これらの既成勢力が天皇と国民の間を遮り、国を腐敗させている。ならば「君側の奸」――天皇のそばで政治を誤らせる「悪臣」――を排除し、天皇のもとで国家を刷新しなければならない。明治維新になぞらえて、その変革を「昭和維新」と呼んだのです。
しかし、そこには具体的な政権構想の曖昧さがありました。
要人を排除したあと、誰が行政を担い、議会や法律をどう扱い、異なる意見をどう調整するのか。青年将校たちの間に、統一された詳細な設計図があったわけではありません。
彼らが共有したのは、何をつくるかよりも、まず何を壊すかという決意でした。
第二章――一枚岩ではなかった陸軍
二・二六事件は、陸軍対政府という単純な衝突ではありません。陸軍内部の激しい対立が、事件の重要な背景にありました。
当時の陸軍では、一般に「皇道派」と「統制派」と呼ばれる勢力が争っていました。
皇道派は荒木貞夫や真崎甚三郎らを中心とし、天皇への直接的な忠誠と精神主義を重視しました。その影響を受けた青年将校の一部は、武力による国家改造も辞さない急進的な行動へ傾いていきます。
これに対する統制派は、軍中央の官僚機構を掌握し、産業や経済を計画的に動員できる総力戦国家をつくろうとしました。彼らは青年将校の直接行動を危険視しましたが、議会政治を守る民主主義勢力だったわけではありません。方法は異なっても、軍が国家運営に深く関与することを求めていた点では共通する部分がありました。
しかも、「皇道派」「統制派」という呼び名で、すべての軍人をきれいに二分できるわけでもありません。人間関係、陸軍内の経歴、政策上の立場が複雑に絡み、事件後の責任追及の中で派閥の境界が強調された面もあります。
昭和10年(1935年)、皇道派の中心と見られていた真崎甚三郎が教育総監を更迭されました。これに反発した相沢三郎中佐は、統制派の中心人物だった永田鉄山軍務局長を陸軍省内で斬殺します。相沢事件です。
軍内部の対立は、すでに言論や人事の範囲を越え、血を流す段階に入っていました。
さらに、青年将校が多く所属していた第一師団には、満洲への派遣が予定されていました。東京を離れれば、国家改造を実行する機会を失うかもしれない。彼らの一部には、残された時間が少ないという焦りがありました。
そして2月25日の夜、雪が降り始めます。
第三章――帝都を襲った銃弾
2月26日未明、青年将校たちは部下を非常呼集し、部隊を複数に分けて目標へ向かわせました。
ここで、主導した青年将校と、命令を受けて動いた一般の下士官・兵を分けて考える必要があります。
約1,400人の兵士すべてが、クーデターの計画を理解して参加したわけではありません。多くは上官の出動命令に従った兵士でした。目的をどの時点で、どこまで知らされたのかは部隊によって異なります。軍隊の絶対的な命令服従の中で、彼らは気づいたときには国家の中枢を占拠する側に立っていました。
首相官邸では、岡田啓介首相の義弟で秘書官だった松尾伝蔵が首相と誤認され、殺害されました。岡田本人は官邸内に身を隠し、のちに救出されます。政府も国民も、しばらくは首相が死亡したと信じていました。
斎藤実内大臣は自邸で銃撃されました。斎藤は海軍大将、朝鮮総督、首相を歴任した重臣であり、青年将校からは天皇を取り巻く既成勢力の象徴と見なされていました。
高橋是清蔵相も自邸で殺害されました。高橋は、財政支出の拡大や低金利政策などを組み合わせた「高橋財政」によって、昭和恐慌からの回復を主導しました。その財政拡大には軍事費も含まれていました。
しかし、景気が回復すると、高橋はインフレーションと財政規律の喪失を警戒し、今度は軍事費の膨張を抑えようとします。かつて財政を広げた人物が、拡大に歯止めをかける役へ回った。そのため、軍の急進派から強く敵視されたのです。
渡辺錠太郎教育総監は、東京・荻窪の自宅で襲撃されました。軍内部では統制派に近い人物と見られ、真崎更迭後の教育総監に就いていたことも、標的とされた背景にありました。
鈴木貫太郎侍従長は複数の銃弾を受けながら、一命を取り留めます。9年後、鈴木は首相として、日本を終戦へ導くことになります。
襲撃部隊は警視庁や陸軍省周辺を押さえ、永田町・三宅坂一帯を占拠しました。電話交換業務も妨げられ、官庁の連絡は混乱します。雪の東京で、政府の中枢が自国軍の一部によって制圧されたのです。
青年将校たちは、重臣を倒せば軍上層部が動き、天皇のもとで新しい政権がつくられると期待していました。
しかし、彼らの期待どおりには進みませんでした。
第四章――「義軍」から「反乱軍」へ
事件直後、陸軍上層部の対応は揺れました。
決起将校に同情的な将軍もおり、陸軍大臣告示には、彼らの行動の趣旨を一定程度受け止めたかのように読める表現が含まれました。将校たちは、自分たちの決起が軍中央に認められ、やがて天皇にも届くと受け止めます。
一方、陸軍首脳の多くは、反乱部隊と正面衝突して軍同士が撃ち合う事態も恐れていました。処分を急げば同調部隊が現れるかもしれない。説得して原隊へ戻すべきか、武力で討伐すべきか。判断の遅れが、占拠を長引かせました。
しかし、昭和天皇の態度は明確でした。
青年将校たちは天皇への忠誠を掲げていましたが、天皇は重臣を殺傷し、首都を軍事占拠した行為を認めませんでした。鎮圧を求める天皇の強い意向によって、陸軍首脳も討伐へ方針を固めていきます。
2月27日、東京市に戒厳令が施行されました。28日には、反乱部隊を原隊へ復帰させる奉勅命令(天皇の命を奉じた命令)が下されます。
天皇の命令を掲げて立ったはずの部隊が、天皇の命令に従わなければならない状況へ追い込まれました。
29日朝、ラジオから下士官と兵士に向けた「兵に告ぐ」の放送が流れます。上官の命令を正しいと信じて行動してきたとしても、今は天皇の命令に従って原隊へ戻れ――放送は、計画を主導した将校と、命令された兵士を切り分け、帰順を促しました。
同時に、討伐部隊の戦車や部隊が周囲を固め、航空機からは帰順を求めるビラがまかれました。
一般兵は次々と原隊へ戻り、青年将校たちは孤立します。自決した者、投降した者。29日、4日間に及んだ首都占拠は終わりました。
彼らが「義軍」と認められる瞬間は、最後まで訪れませんでした。
第五章――閉ざされた法廷と「粛軍」
事件後、政府と陸軍は厳しい処分に動きました。
五・一五事件では、被告となった青年将校への同情が集まり、比較的軽い刑にとどまりました。その経験は、「愛国的な動機であれば、政治的暴力にも理解が得られる」という危険な前例を残していました。
二・二六事件の裁判は、それとは大きく異なります。
事件を裁くために特設の東京陸軍軍法会議が設けられました。裁判は非公開で、弁護人を付けることも、上告することも認められませんでした。青年将校たちは、自分たちの思想や軍上層部との関係を公開の法廷で訴える機会を失います。
多くの将校らに死刑判決が下され、思想的指導者とされた北一輝、西田税を含め、最終的に19人が刑死しました。
この厳罰には、反乱を二度と起こさせないという目的だけでなく、陸軍内部の派閥対立を一挙に整理する意味もありました。
「粛軍」の名のもとに、皇道派と見られた将官たちは相次いで予備役へ追われます。直接行動に傾いた青年将校の運動は壊滅し、軍中央では統制派が主導権を握りました。
ここに、二・二六事件の第一の逆説があります。
青年将校たちは統制派を排除しようとして立ち上がりました。しかし、彼らの反乱と敗北によって、統制派は最大の政敵を合法的に一掃する機会を得たのです。
事件後、処刑された青年将校は、純粋な理想に殉じた悲劇の人物として描かれることもありました。確かに、彼らの中には私財や地位を求めず、国家を救おうと信じた者もいたでしょう。
しかし、動機の純粋さと、選んだ手段の責任は別の問題です。
彼らが行ったのは、選挙や議会による改革ではなく、武装した部隊を動かし、要人を殺害して政治を変えようとする行為でした。その暴力によって命を奪われた人々と、事情を十分に知らされないまま参加させられた兵士の存在を抜きに、事件を「義挙」として語ることはできません。
第六章――失敗した反乱が残したもの
反乱軍は敗れました。皇道派は後退し、青年将校運動も消滅しました。それならば、政治は軍を統制できるようになったはずです。
しかし、現実には反対の方向へ進みました。
事件後、岡田内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立します。同年5月、陸軍大臣と海軍大臣を現役の大将または中将に限る「軍部大臣現役武官制」が復活しました。
この制度の復活には、予備役へ追われた皇道派の将軍を大臣に戻さないという、陸軍内部の人事上の狙いもありました。最初から内閣を倒すためだけにつくられた制度だった、と単純に説明することはできません。
けれども結果として、軍が現役の大将・中将を大臣候補として出さなければ、内閣は組織できないことになります。後には、陸軍が大臣を推薦しないことで組閣を阻むという、強力な政治的手段として働きました。
政治家や官僚の側にも、軍を刺激すれば再び流血事件が起こるかもしれないという恐怖が残りました。軍の要求に反対することは、政策論争だけでなく、身の危険を伴う行為になっていたのです。
ただし、二・二六事件の翌日から、軍がすべてを自由に決める独裁国家が完成したわけではありません。議会も政党も政府も残り、軍内部にも対立がありました。政治家や言論人による抵抗も続きます。
それでも、政治と軍の力関係が大きく変わったことは確かです。
軍中央は、反乱を鎮圧した側として組織の正統性を回復し、皇道派を排除して指揮系統を固めました。そして国家総動員を見据え、予算、産業、外交へさらに深く関与していきます。
青年将校が目指した天皇親政の「昭和維新」は実現しませんでした。しかし彼らが破壊した政治的な空間を、軍中央の官僚たちが埋めていったのです。
ここに、第二の、そして最大の逆説があります。
二・二六事件は軍部支配に反対する反乱ではありませんでした。軍の中の一つの国家改造構想が、別の国家改造構想に敗れた事件でした。
反乱は失敗しました。しかし、軍が政治の外に退く契機にはならず、むしろ統制された軍組織が国家運営へ進出する道を広げました。
結――天皇のための反乱が壊したもの
二・二六事件を、青年将校の純粋な理想と悲劇だけで描けば、そこには強い物語が生まれます。
困窮する民衆を救おうとした若者たち。腐敗した権力者。雪の帝都。届かなかった天皇への思い。そして処刑。
しかし、その物語は事件の一面にすぎません。
青年将校の動機は一様ではなく、農村救済だけで説明できるものでもありませんでした。彼らが倒そうとした高橋是清は、軍事費の無制限な膨張を抑え、経済を安定させようとしていた政治家でもあります。「国民のため」という言葉の意味は、立場によって大きく異なっていました。
何より、彼らは天皇の意思を確認する前に、みずからを天皇の真意の代行者と位置づけました。
自分たちこそが、表明されていない本当の民意や、本当の天皇の意思を知っている。その確信が強くなるほど、異論を持つ者は話し合う相手ではなく、取り除くべき障害に変わっていきます。
二・二六事件が壊したのは、政府機関や要人の命だけではありませんでした。
異なる利害を調整し、時間をかけて合意をつくる政治の余地です。
事件から1年余り後、日本は日中戦争へ入ります。ただし、二・二六事件だけが戦争を引き起こしたわけではありません。満洲事変、国際的孤立、統帥権をめぐる制度の問題、政党政治への不信、軍内部の総力戦構想。複数の要因が重なっていました。
二・二六事件は、その流れの唯一の原因ではなく、政治が軍を制御しにくくなったことを示す重大な分岐点だったのです。
そして9年後、日本は敗戦を迎えます。
前回の記事でたどった占領下の非軍事化と民主化は、軍を政府の外にある特別な権力とせず、政治を武力で動かさない国をつくる試みでもありました。国民主権と象徴天皇制という戦後の仕組みは、二・二六事件が露わにした「誰が天皇の意思を語るのか」という危うさに対する、一つの制度的な回答だったとも考えられます。
雪の朝に始まった4日間は、焼け跡から始まる「戦後」へ、見えない線でつながっているのです。
あとがき
二・二六事件には、人を引きつける危うい魅力があります。
若さ、理想、雪、決起、裏切り、処刑。物語としてあまりに強い要素がそろっているため、私たちは青年将校に感情移入し、彼らが見た世界をそのまま真実として受け取りそうになります。
けれども歴史を理解するには、彼らの内面に近づくことと、その行動を正当化することを分けなければなりません。
純粋な動機から始まった行動であっても、他者の意思を無視し、暴力で政治を動かそうとすれば、当初の理想とは異なる結果を生むことがあります。二・二六事件で利益を得たのは、倒された重臣でも、処刑された青年将校でもありませんでした。反乱を利用して組織を固め、国家への影響力を広げた軍中央でした。
歴史の中では、行動した者の意図と、その行動が生んだ結果が、しばしば大きく食い違います。
二・二六事件を学ぶ意味は、青年将校を英雄か逆賊かのどちらかに決めることではなく、その食い違いがどのように生まれたのかを見つめることにあるのだと思います。
参考文献・資料
須崎愼一『二・二六事件――青年将校の意識と心理』吉川弘文館、2003年
筒井清忠『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、2014年
半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009年
