第二次世界大戦と日本(上)――なぜ止まれなかったのか
序――1931年、秋
1931年9月18日の夜、中国東北部・奉天(ほうてん)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破されました。深夜十時半ごろのことです。
爆破したのは、中国側ではありません。線路を管理していた日本の関東軍自身です。「中国軍の仕業だ」と発表し、それを口実に軍事行動を開始する――そのための自作自演でした。爆発の規模は小さく、直後に列車が通常どおり通過しているほどです。しかしこの小さな爆発が、日本を十五年にわたる戦争の時代へと引きずり込む最初の一歩になりました。政府も参謀本部も事前に承認していません。現地の軍が独断で戦争を始め、東京の政府はそれを追認するしかなかった。
前回の記事で、第一次世界大戦の結びにこう書きました。「経験しないということは、知らないということです。そして知らないことは、同じ過ちを繰り返す可能性を残します」。
あの戦争から十三年。世界は再び、大きな戦争に向かって動き始めていました。ヨーロッパでは第一次大戦の後始末が新たな火種を生み、日本では軍部が政治の手綱を握り始めています。
この記事では、1930年代の世界と日本を追いかけます。ヴェルサイユ体制の歪みがどう崩れたのか。日本ではなぜ軍部が暴走し、政党政治が死んだのか。そして日中戦争という泥沼に、なぜ足を踏み入れてしまったのか。引き返せたはずの分岐点が、一つずつ閉じていく過程を見ていきます。
第一章 ヴェルサイユの請求書
賠償金という時限爆弾

第一次世界大戦の戦後処理は、パリのヴェルサイユ宮殿で決められました。前回の記事で触れたとおり、ドイツに課された条件は苛烈なものでした。
国土の約十三パーセントを割譲し、すべての海外植民地を失い、軍備は陸軍十万人に制限される。そして何より重くのしかかったのが、賠償金です。1921年のロンドン最後通牒で確定した名目上の総額は一千三百二十億金マルク。現在の日本円に換算すれば数百兆円規模にあたる、途方もない金額でした。ただし、この額にはからくりがあります。賠償金はA・B・C三つの債券に分けられ、最大の部分を占めるC債(約八百二十億マルク)は、ドイツの支払い能力が十分に回復するまで発行されない――つまり実質的には「見せ金」でした。連合国側が自国民に「これだけ取り返した」と示すための数字という面があったのです。実効的な負担額はA債とB債の合計約五百億金マルクとされますが、それでも当時のドイツ経済にとっては重すぎる荷物でした。
ドイツ国民の怒りは、条約の第二百三十一条に集中しました。いわゆる「戦争責任条項」です。戦争の全責任をドイツとその同盟国に帰する、と明記されていました。四年間の戦争で自国も何百万人もの犠牲を出したドイツ国民にとって、「すべてお前たちのせいだ」と言われることは、到底受け入れがたいものでした。
しかしドイツには選択肢がありません。拒否すれば連合国軍が進駐してくる。敗戦直後の1919年、ドイツでは皇帝が退位したあとに共和制の新政府が誕生していました。新しい憲法がヴァイマル(ワイマール)という都市で制定されたため「ヴァイマル共和国」と呼ばれます。前回の記事でも触れたとおり、男女平等の普通選挙や社会保障を盛り込んだ、当時の世界で最も進歩的な憲法を持つ国でした。しかしこの若い民主主義国家は、誕生のその日から重荷を背負わされることになります。
ヴァイマル共和国の政府は、「屈辱の条約」に署名しました。この署名を行った政治家たちは、のちに「十一月の犯罪者」「背後からの一突き」と呼ばれ、右翼勢力からの攻撃にさらされ続けます。「ドイツ軍は戦場では負けていなかった。国内の政治家が背後から裏切ったのだ」――事実に反するこの伝説が広まり、条約に署名した民主主義の政治家たちが、民主主義そのものへの不信と結びつけられていったのです。進歩的な憲法を持ちながら、国民の多くがその体制を信頼していない。これが、のちのヴァイマル共和国の致命的な弱点になっていきます。
賠償金の支払いは、ドイツ経済を圧迫し続けました。1923年にはフランスとベルギーが賠償金の支払い遅延を理由にルール地方――ドイツ最大の工業地帯――を軍事占領します。ドイツ政府は抵抗として「消極的抵抗」を呼びかけ、労働者はストライキに入りました。しかし生産が止まっても政府は給料を払い続けなければならず、紙幣の増刷が始まります。
結果、ハイパーインフレーションが起きました。パン一つに数十億マルクが必要になり、紙幣は文字通り紙くず同然となります。人々は給料を受け取るとその日のうちに使い切ろうと走りました。明日には価値が半分になっているからです。退職金や年金で暮らす中産階級は、一夜にして財産を失いました。貯蓄がゼロになるという経験は、人々の社会に対する信頼を根底から破壊します。
この危機を収束させたのが、1923年11月に導入された新通貨・レンテンマルクです。土地や産業施設を担保にした通貨で、旧マルクとの交換比率は一兆対一。国民がこの新通貨を信用したことで、インフレはようやく止まりました。翌1924年にはアメリカの主導でドーズ案が成立し、賠償金の支払いスケジュールが現実的な水準に引き下げられます。同時に、アメリカの銀行からドイツへ大量の資本が流れ込みました。通貨の安定と外資の流入が重なり、ドイツ経済は本格的な回復に向かいます。
仕組みはこうでした。アメリカがドイツに貸し付け、ドイツがそのお金でイギリス・フランスに賠償金を払い、イギリス・フランスがアメリカに戦債を返す。資金がぐるぐると大西洋を回る循環です。ドイツの工場はフル稼働に戻り、失業率は下がり、ベルリンは活気を取り戻しました。キャバレーやダンスホールが賑わい、映画・音楽・建築などの分野で前衛的な文化が花開いた「黄金の二十年代」と呼ばれる時期です。ほんの数年前にパン一つ買うのに一輪車いっぱいの紙幣が必要だった国とは思えないような、劇的な回復でした。
しかしこの繁栄には危うさが潜んでいました。ドイツの回復を支えていたのは、あくまでアメリカからの借金です。アメリカ経済が好調なあいだは資金が流れ続けますが、もしアメリカに何かあれば――その一本の柱が折れれば、ドイツ経済も道連れになる。繁栄の足元に、そういう構造が隠れていたのです。
イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、講和会議にイギリス大蔵省の主任代表として参加した人物です。彼はドイツに課された賠償金の額を見て「支払い不可能」と断じ、抗議の辞任をしています。その後に著した『平和の経済的帰結』で、ケインズはこう警告しました。ドイツの経済を破壊すれば、ヨーロッパ全体が道連れになる。復讐心に基づく講和は、次の戦争の種を蒔くことになる、と。この予言は、ほぼ正確に現実となりました。
世界恐慌――回路の断線

1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街で株価が大暴落しました。「暗黒の木曜日」です。そして翌週の月曜日・火曜日にはさらに激しい暴落が続き、株式市場は文字通りの崩壊状態に陥りました。
なぜ暴落が起きたのか。1920年代のアメリカは空前の好景気に沸いていました。自動車、ラジオ、電化製品が普及し、大量生産・大量消費の時代が到来します。好景気は人々を株式投資に駆り立て、借金をしてまで株を買う人が増えていきました。株価はどんどん上がり、「買えば必ず儲かる」という楽観が広がります。しかし実体経済の成長を株価がはるかに追い越していた。膨らみきった風船は、いつか破裂する。それが1929年10月でした。
アメリカの銀行は次々に破綻し、海外への貸し付けが止まりました。すると、アメリカからの資金に依存していたドイツ経済が崩壊します。先ほど触れた、大西洋を回っていた資金の回路が一気に断線したのです。ドイツの工業生産は1932年までに半減し、失業者は六百万人を超えました。「黄金の二十年代」の繁栄がアメリカの資金頼みだった以上、その資金が引き揚げられた瞬間にすべてが崩れ去ったわけです。
恐慌はたちまち世界中に広がりました。各国は自国の産業を守ろうと、外国からの輸入品に高い関税をかけ始めます。アメリカはスムート・ホーリー法で関税を大幅に引き上げました。すると他国も報復として関税を上げ、世界中で「自分の国のものだけ買おう」という流れが加速していきます。
この分断をさらに決定的にしたのが、1931年のイギリスの金本位制離脱です。それまで各国の通貨は金との交換比率を通じて安定した為替レートを保っていましたが、イギリスが金本位制を放棄すると、その共通の基準が失われました。各国は自国通貨の切り下げ競争に走り、関税障壁の構築がさらに加速します。世界経済は、共通のルールで結ばれた一つの市場から、閉じたブロックの集合体へと分裂していきました。
とくにイギリスやフランスのように広大な植民地を持つ国は、自国と植民地のあいだだけで貿易をする閉じた経済圏を作りました。イギリスは英連邦諸国との間で「スターリング・ブロック」を、フランスは「フラン・ブロック」を形成しています。ブロックの内側では関税を低くして自由に貿易し、外側の国に対しては壁を高くする。いわば「身内だけで経済を回す」仕組みです。インド、オーストラリア、カナダ、東南アジア、アフリカ――広大な植民地を持つ国は、その内側に資源も市場もありますから、壁の中だけでもそれなりにやっていけます。
問題は、広大な植民地を持たない国でした。
ドイツ、イタリア、そして日本。のちに「持たざる国」と呼ばれるこれらの国々は、ブロック経済の壁の外に取り残されました。自国だけでは資源も市場も足りない。ゴムや石油や鉄鉱石がなければ工場は動かせないし、製品を売る先がなければ経済は回らない。しかし他国のブロックには入れてもらえない。ブロック経済という壁に閉め出された「持たざる国」は、やがて力ずくで資源と市場を確保しようという方向に動いていきます。
日本も例外ではありませんでした。1929年の世界恐慌に先立ち、日本では1927年に金融恐慌が起きています。さらに1930年、井上準之助(いのうえじゅんのすけ)蔵相が金本位制に復帰した直後に世界恐慌の波が直撃し、「昭和恐慌」と呼ばれる深刻な不況に陥りました。
都市では失業者が街にあふれ、農村はもっと悲惨でした。日本の農村は生糸の輸出で生計を立てている家が多く、アメリカの不況で生糸の価格が暴落すると直撃を受けます。東北地方では娘を身売りに出す農家が続出し、「欠食児童」――弁当を持ってこられない子供たち――が社会問題になりました。この窮乏が、「政党政治では国を救えない」という不満を広げていきます。政党の政治家は財閥と結託して私腹を肥やしている――そうした怒りが、とくに農村出身の青年将校たちの間で膨らんでいました。
第二章 軍部の暴走と政党政治の死
満州事変――既成事実の力

冒頭で触れた柳条湖事件に戻ります。
1931年9月、関東軍は南満州鉄道の線路を自ら爆破し、「中国軍の仕業」と称して軍事行動を開始しました。首謀者は関東軍の参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)です。石原は独自の「最終戦争論」を唱えており、やがて来る日米決戦に備えて満州を日本の資源基地にする必要がある、と考えていました。
東京の若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣は「不拡大方針」を決めました。しかし関東軍はこれを無視して戦線を広げ続けます。閣議で不拡大を決めても、その決定が現地に届く前に軍は次の都市を占領してしまう。政府が止めようとしても、現地の軍は従わない。そして戦果が上がるたびに、新聞は号外を出し、国内の世論は軍を支持し、政府が後から追認せざるを得なくなる。「現地が動き、東京が追いかける」――このパターンが、ここで確立されました。
翌1932年3月、関東軍は占領した中国東北部に「満州国」を建国します。名目上は清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を元首に据えた独立国ですが、実態は関東軍が支配する傀儡(かいらい)国家でした。主要な官庁の実権は日本人の次長や顧問が握り、政策の決定権は関東軍司令官にありました。
国際連盟はリットン調査団を派遣し、報告書で満州国を正式な独立国とは認めないとの結論を出します。ただしリットン報告書は、日本の満州における経済的権益そのものは否定していません。日本に一定の配慮を示しつつ、軍事占領による領土変更は認めない、という国際秩序の原則を示したものでした。
しかし1933年2月、国際連盟総会でこの報告書が四十二対一(反対は日本のみ、シャムが棄権)で採択されると、日本全権の松岡洋右(まつおかようすけ)は議場を退席し、日本は国際連盟からの脱退を通告しました。松岡は帰国後、東京駅で熱狂的な群衆に迎えられています。国際連盟規約では脱退通告から二年間の猶予期間が定められており、その間に翻意する余地はありました。しかし日本国内にはもう、立ち止まる空気がなかったのです。
第一次世界大戦後、日本が戦勝五大国として座った国際連盟の席を、自ら立ち去ったのです。あの席を得るまでに積み重ねてきた外交的資産が、一つの軍事行動で失われました。
1933年5月、日中間では塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれます。万里の長城以南に非武装地帯を設け、中国側は事実上、満州国の存在を黙認する形となりました。もし日本がこの時点で拡大を止めていれば、国際的な孤立は避けられたかもしれません。しかしこの停戦は、一時的な小康にすぎませんでした。
五・一五と二・二六――銃口が向いた先

軍の暴走は、国外だけにとどまりませんでした。
1932年5月15日、海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅(いぬかいつよし)首相を射殺しました。五・一五事件です。「話せばわかる」と言った犬養に対し、将校は「問答無用」と引き金を引いたとされます。
犬養は政党政治最後の首相でした。彼の死後、首相には軍人や官僚が就くようになり、大正デモクラシー以来の政党内閣の伝統は途絶えます。八年間にわたって維持されてきた「政党の党首が首相になる」という慣行が、一発の銃弾で終わったのです。
裁判では、被告の将校たちに対して全国から助命嘆願が殺到しました。嘆願書には血書や、自分の小指を切って同封したものまであったと伝えられています。農村の窮乏を救えない政党政治家が悪い、国を憂える青年将校は愛国者だ――そうした世論が形成されたのです。結果、将校たちへの刑は軽いものにとどまりました。この前例が、「愛国的動機であれば暴力は許される」という空気を作っていきます。
1936年2月26日には、陸軍の青年将校約千四百名が首都の中枢を占拠する二・二六事件が起きました。大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ)、内大臣・斎藤実(さいとうまこと)、教育総監・渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)が殺害されます。高橋是清は昭和恐慌からの回復を主導した蔵相であり、軍事費の膨張を抑えようとしていた人物でした。八十三歳の老政治家が、早朝の寝室で青年将校に斬りつけられて命を落とした。軍拡に抵抗する政治家が排除されたことの意味は、大きかったと言えます。
二・二六事件自体は昭和天皇の強い意志もあって鎮圧され、首謀者は軍法会議で死刑に処されました。しかし事件後、軍の政治的影響力はかえって強まります。「軍を刺激すると何が起きるかわからない」という恐怖が、政治家や官僚の間に広がったからです。陸軍大臣の現役武官制が復活し、陸軍が大臣を出さなければ内閣が組閣できない――つまり陸軍に拒否権がある――という状態になりました。
事件後に成立した広田弘毅(ひろたこうき)内閣は、1936年8月に「国策の基準」を決定します。これは北方(ソ連)と南方(東南アジア)の両面に備える「南北併進」を国策として初めて明文化した文書でした。いわば国家が正式に膨張の方向を定めたのです。この決定が、のちの南進論への布石となっていきます。
「統帥権」という抜け道

なぜ軍部はこれほど自由に動けたのでしょうか。その制度的な根拠が「統帥権の独立」です。
大日本帝国憲法では、軍の指揮命令権(統帥権)は天皇に直属するとされていました。内閣や議会は軍の作戦に口を出せない、という建前です。もともとは、政治家が軍事の専門的判断に介入することを防ぐための仕組みでした。軍政(軍の制度や予算)は政府の管轄だが、軍令(作戦や用兵)は天皇直属――この区分は、平時にはそれなりに機能していました。
さらに、参謀総長や軍令部総長には「帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)」が認められていました。天皇に直接意見を上申できる権限です。首相や閣議を経ずに軍事方針を天皇に直接伝えられるこのルートの存在が、軍部を政府から独立した「もう一つの権力中枢」にしていました。
1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐって、この統帥権が政治の武器として使われます。浜口雄幸(はまぐちおさち)首相が条約に調印したことに対し、野党や軍部は「軍備の決定は統帥権に属する。内閣が勝手に決めるのは統帥権の干犯だ」と攻撃しました。皮肉なことに、この「統帥権干犯」論を最初に強く主張したのは、当時野党だった政友会の鳩山一郎です。政党政治家が、政党政治を壊す論理に火をつけた形でした。浜口首相はこの問題で右翼青年に狙撃され、翌年亡くなっています。
統帥権の独立と帷幄上奏権。この二つの制度が、軍が「これは作戦上の判断だ」と主張すれば政府が止められないという構造を生みました。満州事変で関東軍が政府の不拡大方針を無視できたのも、この仕組みがあったからです。文民統制――軍を政治の管理下に置くという原則――が機能しない国家構造のなかで、軍は自律的に動く力を持ってしまったのです。
前回の記事で、大正デモクラシーは「戦争の対価としてではなく、好景気という不安定な土台の上に生まれた」と書きました。その土台が昭和恐慌で揺らいだとき、政党政治は驚くほど簡単に倒れました。統帥権という制度的な抜け道と、「政治家より軍人のほうが頼りになる」という民衆の感情が重なったとき、民主主義は銃声とともに退場したのです。
第三章 日中戦争――出口のない戦場
盧溝橋の一夜

1937年7月7日の夜、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で、演習中の日本軍と中国軍の間で発砲事件が起きました。どちらが先に撃ったのかは、いまだに確定していません。
事件そのものは小規模なものでした。現地では一時、停戦合意も成立しています。東京の近衛文麿(このえふみまろ)内閣も当初は「不拡大方針」を表明しました。
しかし事態は拡大していきます。現地軍は増援を要請し、政府は派兵を決定し、中国側も蒋介石(しょうかいせき)が廬山(ろざん)で「最後の関頭に立った」と全面抗戦を宣言して態度を硬化させます。八月には上海に戦火が広がり、日中両軍が本格的にぶつかりました。蒋介石が上海で精鋭部隊を投入した背景には、国際租界がある上海で戦えば欧米列強の注目を集め、介入を引き出せるかもしれないという戦略的計算がありました。三ヶ月にわたる激戦で日本側にも四万人を超える死傷者が出ています。
満州事変と同じパターンでした。現地で火がつき、「不拡大」を掲げつつ実際には拡大していく。一度始まった軍事行動を止める仕組みが、この国にはありませんでした。参謀本部の一部には不拡大を真剣に主張する声もありましたが、「ここで引いたら国の威信が傷つく」という論理と、すでに出した犠牲を無駄にできないという感情が、撤退という選択肢を消していきます。
南京――戦場が生んだもの
1937年12月、日本軍は中国の首都・南京を占領しました。
占領の前後に、日本軍による捕虜や民間人に対する殺害・暴行が発生しました。この「南京事件」の犠牲者数については、中国側は三十万人以上とし、日本の研究者の間でも数万人から二十万人まで推計に幅があります。規模をめぐる学術的な議論は現在も続いていますが、大規模な不法殺害と暴行が行われたこと自体は、当時の日本軍関係者の日記や、南京に残った外国人居留者が組織した「安全区国際委員会」の記録など、複数の一次史料で裏付けられています。
当時の日本国内では、南京陥落は「祝勝」として報じられました。事件の実態が国民に広く知られるのは、戦後の東京裁判以降のことです。しかし国際社会、とくにアメリカやイギリスでは外国人記者の報道を通じて早くから知られており、対日感情を悪化させる一因となりました。
南京を落とせば中国は降伏する――日本側にはそうした期待がありました。しかし蒋介石の国民政府は首都を重慶(じゅうけい)に移し、抗戦を続けます。重慶は四川省の山岳地帯にあり、長江の峡谷が天然の要害となっていました。広大な中国大陸の奥地に退いた相手を、日本軍は追いきれません。ドイツを仲介とした和平工作(トラウトマン工作)も、近衛内閣が条件を釣り上げたことで不調に終わります。
「事変」と呼び続けた理由

日中間の全面的な武力衝突が続いているにもかかわらず、日本政府はこれを「日中戦争」とは呼ばず、「支那事変」と呼び続けました。
理由は法的・実利的なものです。正式に「戦争」と宣言すれば、国際法上の交戦国として中立国の義務が各国に生じます。とくにアメリカは中立法を持っており、「戦争」と認定されれば交戦国への武器・物資の輸出が制限される可能性がありました。日本はアメリカから石油や鉄くずなどの戦略物資を大量に輸入しており、その供給が止まることを恐れたのです。当時、日本が消費する石油の約八割はアメリカからの輸入に頼っていました。
つまり「戦争ではない」と言い張ることで、アメリカからの物資を買い続けながら戦争をする、という矛盾した状態を維持していました。アメリカの石油で中国と戦っている――この構図は、のちの日米対立の伏線にもなっていきます。
戦線は広がる一方でした。点と線――都市と鉄道沿線――は占領できても、面――広大な農村地帯――は制圧しきれない。占領地では中国共産党の八路軍(はちろぐん)がゲリラ戦を展開し、日本軍は「治安維持」の名目で膨大な兵力を張り付けざるを得ませんでした。1938年の時点で、中国大陸には約百万の日本軍が展開しています。撤退すれば、それまでの犠牲が無駄になる。しかし前に進んでも、終わりが見えない。
1938年1月、近衛首相は「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を出しました。蒋介石政権を交渉相手として認めない、という宣言です。この声明には、参謀本部の多田駿(ただはやお)参謀次長が強く反対していました。交渉の窓を閉じれば戦争を終わらせる手段がなくなる、と。しかし南京陥落後の楽観論と、陸軍省や海軍省の強硬派の圧力が、多田の慎重論を押し切りました。「勝っているのだから、もっと有利な条件を引き出せるはずだ」――この判断が、出口をさらに遠ざけます。
同年11月には「東亜新秩序」の建設を声明します。日本・満州・中国を一体とする新しい国際秩序を作るという構想でした。しかし「交渉の相手にしない」と言ってしまった以上、戦争を終わらせる外交的な出口が塞がれたのです。
この声明に対してアメリカは即座に反発しました。国務長官ハルは「東亜新秩序」を門戸開放政策への挑戦と見なし、中国における各国の権益と機会均等を改めて主張します。日本が東アジアの秩序を独力で再編しようとすればするほど、アメリカとの対立が深まっていく構図が、ここで明確になりました。
日中戦争は、明確な勝利も講和もないまま、年単位で続いていきます。日本は毎年数十万の兵力を大陸に送り続け、国家予算の七割から八割を軍事費が占めるようになりました。国民生活への締めつけも始まり、1938年には国家総動員法が制定されて、政府が議会の承認なしに人員や物資を動員できるようになります。「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」――こうした標語が街にあふれ、国民の日常が戦時体制に組み込まれていきました。泥沼という言葉がこれほど正確に当てはまる状況も珍しいものです。
第四章 ヨーロッパの火、ふたたび
ヒトラーという回答

日本が中国大陸で戦線を広げている同じ時期、ヨーロッパでも危機が進行していました。
1933年1月、ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に就任しました。
ヒトラーの台頭には、ヴェルサイユ体制の歪みが深く関わっています。「戦争責任条項」による国民的屈辱、ハイパーインフレの記憶、そして世界恐慌による大量失業。1932年の時点でドイツの失業率は三十パーセントを超えていました。ヴァイマル共和国の議会政治は小党乱立で機能不全に陥り、左右の過激派が街頭で衝突を繰り返す混乱のなかで、「強い指導者」を求める声が広がっていったのです。
ヒトラーは選挙で合法的に権力を掌握しました。ナチ党は1928年の総選挙では得票率わずか2.6パーセントの弱小政党でしたが、恐慌後の1930年には18.3パーセント、1932年7月には37.3パーセントにまで躍進しています。恐慌が深まるのと比例して、ナチ党の支持が伸びていった。経済危機が民主主義を壊す回路を、ドイツは身をもって示しました。
ヒトラーはヴェルサイユ条約の破棄、ドイツ民族の生存圏(レーベンスラウム)の拡大、そしてユダヤ人の排除を掲げました。彼が提供したのは、敗戦の屈辱と経済的困窮に苦しむ国民に対する「なぜ自分たちが苦しんでいるのか」という問いへの明快な回答です。ヴェルサイユ条約が悪い、それを押し付けた連合国が悪い、国内のユダヤ人が悪い――複雑な問題に単純な敵を設定することで、支持を集めていきました。
首相就任後、ヒトラーは急速に独裁体制を固めます。全権委任法で議会の立法権を奪い、政党を禁止し、ヒンデンブルク大統領の死後は大統領職も兼ねて「総統(フューラー)」を名乗りました。秘密警察ゲシュタポが反対派を弾圧し、1935年のニュルンベルク法でユダヤ人の市民権を剥奪します。ユダヤ人は公職から追放され、「アーリア人」との結婚を禁じられ、やがて強制収容所へと送られていくことになります。
同じ1935年、ヒトラーはヴェルサイユ条約が禁じた再軍備を宣言しました。翌1936年にはラインラント非武装地帯に軍を進駐させます。明白な条約違反です。しかし英仏は動きませんでした。第一次世界大戦の記憶が、「もう一度あの惨劇を繰り返すくらいなら、多少の条約違反は見逃したほうがいい」という判断を生んでいたのです。
日本とドイツが歩んだ道には、構造的な類似があります。経済危機のなかで議会政治への不信が広がり、強い指導者や軍の主導を求める世論が膨らみ、対外膨張によって国内の閉塞感を打破しようとした。しかし決定的な違いもあります。ドイツではヒトラーという一人の独裁者が国家を掌握したのに対し、日本では特定の独裁者が現れたわけではありません。軍部、官僚、宮中、財界が複雑に絡み合い、誰が最終的な決定権を持っているのか曖昧なまま、国全体が戦争に向かって流されていった。「責任者なき暴走」とでも呼ぶべき状況でした。
ミュンヘンの教訓
1938年、ヒトラーはオーストリアを併合し、次いでチェコスロヴァキアのズデーテン地方――ドイツ系住民が多く住む地域――の割譲を要求しました。
戦争を避けたいイギリスのチェンバレン首相は、ミュンヘンでヒトラーと直接交渉します。フランスのダラディエ首相も同席しましたが、肝心のチェコスロヴァキア代表は交渉に参加させてもらえませんでした。自国の領土の運命が、当事者不在のまま決められたのです。結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が認められました。チェンバレンはロンドンに戻り、空港で合意文書を掲げて「我々の時代の平和」を持ち帰ったと宣言しています。
この宥和(ゆうわ)政策は、しかし、ヒトラーの野心を止めるどころか加速させました。翌1939年3月、ヒトラーはチェコスロヴァキアの残りの領土も併合してしまいます。「ドイツ系住民の保護」という名目すら、もう使いませんでした。
ミュンヘン会談は、のちに「侵略者に譲歩しても平和は買えない」という教訓として語られることになります。第一次世界大戦の記憶が「戦争だけは避けたい」という切実な願いを生み、その願いが判断を誤らせた――ここにも「経験」がもたらす別の罠がありました。戦争の悲惨さを知っているがゆえに譲歩し、譲歩がさらなる侵略を招く。経験は、必ずしも正しい判断には結びつきません。
独ソ不可侵条約の衝撃

1939年8月23日、世界を驚かせるニュースが飛び込んできました。イデオロギーの上では最大の敵同士であるはずのナチス・ドイツとソ連が、不可侵条約を結んだのです。
日本にとって、これは外交的な衝撃でした。日本は1936年にドイツと防共協定を結び、1937年にはイタリアを加えて日独伊防共協定としていました。共産主義の脅威に対抗するという名目の協定です。しかもこの協定には、ソ連が第三国と交戦した場合にソ連を利する行動をとらないとする秘密附属議定書が含まれていました。その同盟相手のドイツが、防共の対象であるソ連と手を結んだ。秘密議定書の精神に真っ向から反する行為です。日本には事前の相談もありませんでした。しかもこの直前、日本軍はモンゴル国境のノモンハンでソ連軍と交戦中であり、ドイツとの防共協定を対ソ抑止の一つとして計算に入れていたのです。
当時の平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)首相は「欧州の天地は複雑怪奇なり」という声明を出して、内閣を総辞職しました。日本の外交的な立ち位置が、根底から揺さぶられた瞬間です。ドイツという同盟相手が、自国の都合で平然と約束を裏切る――この事実は、日本の外交的判断にもっと深い影響を与えてよいはずでした。しかし日本は、翌年にはこの同じドイツとさらに強い軍事同盟を結ぶことになります。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻しました。今度はイギリスとフランスが宣戦布告します。第二次世界大戦の始まりです。ヴェルサイユで設計された戦後秩序は、わずか二十年で崩壊しました。
結――引き返せない地点
第二次世界大戦が始まる少し前、日本はもう一つの戦場を経験していました。1939年5月から9月にかけて、モンゴルと満州国の国境地帯ノモンハンで、日本軍はソ連・モンゴル連合軍と衝突しています。関東軍は国境紛争を拡大させましたが、ジューコフ将軍率いるソ連軍の機械化部隊に圧倒され、日本側は一万八千人以上の死傷者を出しました。この敗北は、北進論――ソ連に向かって攻め上がる構想――に冷水を浴びせ、南進論への傾斜を強める一因となります。
1940年の日本の立ち位置を整理してみます。
中国大陸では三年以上にわたって戦争が続き、終わりが見えません。百万を超える兵力が大陸に張り付き、国家予算の大半が軍事費に消えています。国際連盟からはすでに脱退し、欧米との関係は悪化の一途をたどっていました。国内では軍部の発言力が突出し、政党政治は形骸化しています。
ヨーロッパではドイツが破竹の勢いで進撃し、1940年6月にはフランスがわずか六週間で降伏しました。イギリスはドーバー海峡の向こうで孤立して持ちこたえています。フランスとオランダの敗北は、東南アジアの植民地――仏領インドシナ、蘭領東インド(現在のインドネシア)――に権力の空白を生みました。
石油、ゴム、錫(すず)。日中戦争を続けるためにも、これらの資源が必要です。北に進んでソ連と戦うか、南に進んで東南アジアの資源地帯を確保するか。日本は岐路に立っていました。
1940年9月、日本は日独伊三国軍事同盟を締結します。アメリカを牽制することが主な目的でした。同じ月、日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ北部、現在のベトナム北部)に進駐しました。南進への第一歩です。
この選択がアメリカとの決定的な対立を招くことになります。しかしその話は、次の記事に譲ります。
振り返ってみれば、1930年代の十年間は「引き返せたかもしれない分岐点」がいくつもありました。満州事変のあと、国際連盟にとどまる選択肢。塘沽停戦協定の段階で拡大を止める選択肢。日中戦争の初期に、本当に不拡大を貫く選択肢。蒋介石政権との交渉の窓を閉じない選択肢。三国同盟を結ばない選択肢。
とくに1937年末から1938年にかけてのトラウトマン工作は、日中戦争を収束させる最後の現実的な機会だったかもしれません。ドイツの駐中国大使トラウトマンを仲介役として、日中の和平交渉が水面下で進んでいました。中国側は当初の日本の条件を受け入れる姿勢を見せていたのですが、南京陥落後に日本側が条件を大幅に引き上げてしまい、交渉は決裂します。勝っているときほど条件を上乗せしたくなる。しかし条件を上乗せするほど、相手は受け入れられなくなる。この悪循環が、出口をさらに遠ざけました。
そのどれもが選ばれず、選ばれなかった理由には、そのつどの事情がありました。制度の欠陥、国内世論の圧力、軍部の独走、経済的な行き詰まり、そして「ここまで来たら引き返せない」という惰性の力。一つ一つは合理的に見える判断が、積み重なって選択肢を狭めていく。気がついたときには、もう戻れない地点に立っていた――そういう十年間でした。
次回は、この先に待っていたもの――太平洋戦争の開戦から敗戦まで――を追いかけます。

参考文献
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年。――東大での講義をもとに、なぜ日本が戦争に至ったかを学生との対話形式で読み解く。意思決定の構造を丁寧にたどる良書。
半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社ライブラリー、2009年。――昭和前期を語り口の巧みさで読ませる通史。政治・軍事・社会を横断的に描く。
筒井清忠『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』ちくま新書、2015年。――各テーマの専門家がコンパクトに最新の研究成果をまとめた論集。
イアン・カーショー『ヒトラー――権力の本質』石田勇治訳、白水社、2021年。――ナチス・ドイツ研究の第一人者によるヒトラー論の決定版。「カリスマ的支配」の構造を解明。
E・H・カー『危機の二十年――理想と現実』原彬久訳、岩波文庫、2011年。――戦間期の国際政治を「理想主義と現実主義の相克」として分析した古典。ヴェルサイユ体制の本質的な問題を鋭く指摘。
笠原十九司『南京事件』岩波新書、1997年。――南京事件について一次史料をもとに実証的に検証した基本文献。
戸部良一ほか『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年。――日本軍の意思決定の構造的欠陥を、組織論の視点から分析した名著。
