【ピリカ文庫】傀儡(くぐつ)
節分の夜は外に出ちゃいけないよ。鬼に見つかったら食べられちゃう。だから家じゅうの鍵を閉めて、電気を消して、息を潜めて、静かにしてなくちゃ駄目だよ。どこかからノックが聞こえたって、絶対にドアを開けちゃいけないんだから。あいつらは愛おしいものに姿を変えて取り憑くからね。
節分は豆まきをする日なのだと高校生になってから知った私は、大豆で撃退出来る鬼なんてたいして強くないじゃないかと思っていた。過疎化が進み、人口5000人にも満たない四方を山に囲まれたこの集落では、豆まきの習慣がなかったのである。そのかわり、節分の夜は外に出てはいけなくて、誰かが訪ねてきても決して戸を開けてはならぬという口伝があった。もっとも、この町では節分でなくても灯りのない闇夜に出歩く人間などいないのだが。
バスと自転車で往復三時間かかる高校へ進学した私は、そこで様々なことを知った。一番驚いたのは、子供の頃からたまに家にやってくる優しいおじさんはどうやら母の彼氏だろうということ。海のおじさんと呼んでいた釣りが趣味のその人は、体が弱い母に代わって車を運転し、私を時々海に連れて行ってくれた。この町から連れ出してくれる唯一の存在だった。彼には妻子がいたらしい。
病弱な母との二人暮らしの生活は、いつ沈没するかわからない難破船で広大な海を漂っているようなものだ。凪の海原では束の間の休息をとり、高い波に晒されては途方に暮れ、少しずつ軌道を変えてゆく太陽と毎夜輪郭を付与される月を頼りに、いつもいつも東西南北ばかりを心に思い描いている。でも一向に陸は見えない。
まだ真っ暗なうちにおじさんの車で海へ向かう。夜明け前の海岸に出現する時空は、おそらくこの世のものではなかった。ここにはきっと私とおじさんしかいない。明日も明後日も一週間後も存在せず、気分の波が激しい母も私を無視するクラスメイト達も、軽蔑の眼差しを向けてくる近所のおばさんもいなくて、ただ時計の長針だけがぐるぐると回り、短針は止まったままの、時が低迷した世界。すえた磯の匂いは潮風にさらわれ消失し、空を仰げば透き通った藍色に冷たい星が薄い輝きを放っている。沈黙した海は黒い。そんな虚無のなか、広い背中越しに拝む朝日は、私の心に朧げながらも座標を与えた。
私が高校二年生になるとおじさんは急に姿を見せなくなった。母に聞けばもう別れたのだという。それから一度だけ彼がふらりと家に来たことがあった。あれはそう、たしか節分の日で、いつものように釣った魚を捌いて持って来てくれたのだ。二人でお茶を飲みながらお煎餅を食べ、なんでもないことを喋り、一時間くらい経過したけれど、どうして母と別れたのかは最後まで尋ねることが出来なかった。
「夏希は将来何になりたい?」
「別になんでも。お母さんの体が心配だから、この町で就職出来ればいいや」
「頭がいいんだから、せめて隣町の短大に行きなさい。お金のことは心配いらないから」
何を言っているのかよくわからなくて、適当に返事をした。きっと会うのはこれで最後なのだろうと思いながらも、別れの言葉は見つからず、感謝の気持ちも伝えられず、また海に行こうねとか言いながら、私達は簡単に別れた。座布団の上にはアナログの黒い腕時計が転がっていた。おじさんの姿を見たのはそれが最後だった。彼は母の葬式の時も姿を現さなかった。
母が亡くなったのは私のせいかもしれなかった。節分の日、あの人が死ねばおじさんが戻ってきてくれるかもしれないと思ったから。
母の生命保険金は短期大学の学費を納めてもお釣りが来たので、実家を片づけた私は、卒業後都会に出て就職した。仕事を覚えるのは大変だったけれど、不思議なことに、会社で私に意地悪をしてくる人がみんな病気や怪我で次々と姿を消してゆくから、社会生活にそれほど苦痛を感じなかった。私が誰かの不幸を願えば必ずその通りになる。田舎と違い夜でも空が明るい街では、人々は他人に興味関心を示さないので、もう周囲の視線に脅かされなくて済むのである。
私の容姿は次第に変化した。鏡に映る肌は日に日に蒼白さを増し、爪が鋭くなってゆく。ついに額からは小さな角が生え、口を開けば尖った牙が光沢を放つ。最後におじさんに会ってから少しずつ嗜好に変化が現れ、塩辛いものを好んで食べては食後の口渇にたまらない快感を覚えるようになった。当然、循環血液量が増加し血圧計は高値を示す。湿った蒼い表皮の下を蹂躙する鬼の血液は瀑布のごとく鼓動を乱し、血管に激しい負荷を加えながら脳髄を侵した。
望みをなんでも叶えてくれるかわりに、鬼は私を乗っ取ろうとしているに違いない。体の底に燻る焼け焦げた欲望に取り憑いたのだろう。時空を貫く朝日をもう一度見たいと願っても、おじさんがいなくなってしまった今では、もう誰も私を連れ出してくれない。腕時計は闇の中で緑色の光を放ち、あの海岸と同じように永遠にぐるぐると回り続ける。でも短針はいつまでも止まったまま。私は今でも恨んでいるのかもしれない。自分をあの町に置き去りにした海のおじさんを。
そうだね、もしかしたら彼も私が殺したのかもしれない。
了
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このたびはピリカ文庫にお声がけいただき、とても嬉しく思っております!「鬼」をテーマに書かせていただきました。
ピリカ様、読んでくださった皆様、本当にありがとうございます!心から感謝申し上げます!
