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掌編小説 人魚の海 後編  

 昼過ぎに家を出たはずなのに、いつの間にか日は傾き、黄昏が迫っていた。夜に追い越されてしまえば、もう二度とカナンには会えない気がした。そんな焦燥感に駆られ、闇から逃れるようにあてもなく歩き回るうちに、営業しているのかも定かではない古びたホテルに辿り着く。海沿いに建つその建物は、こういう場所にしては珍しく西側に大きな窓を備えていた。部屋の布団は冷たく湿り、かすかに煙草の匂いがした。

 ベッドが軋む音だけが響いていた。紺色のカーテンで閉じられた部屋は深い青へと傾いてゆく。沈みゆく月のおぼろげな細い光が差し込んで、幾重にも連なる闇の波紋が浮かんでは消えた。いつの間にか二人のあいだに水が滴り落ちて、やがて海の底に沈んでいくような息苦しさを覚える。どれだけ相手の存在を確かめようとしても、水の中では体を重ねても体温は感じ取れないし、声はすぐに口の中で押し消されてしまう。呼吸が、苦しい。

 カナンが僕の指に唇をつけて、そして優しく口に含んでから言った。

「私の肌も指も舌の感触も全部覚えて。目をつぶっても、真っ暗闇でも、海の底にいても、触れればすぐに私だってわかるくらい」

「海の底?」

「言葉じゃ足りないの。だから全部触って。私を覚えて。絶対に忘れないで」

 きめの細かい滑らかな肌に今まさに沈む熱は、僕の肺が水で満たされるほどに内側で燃え盛り、その炎を以て僕の欲情を見事に貫いた。僕が苦しい呼吸を繰り返すたびに、彼女の瞳は潤んで輝き出す。

 どれくらい時間が経過したのかわからない。紺色に染まる部屋にはさざ波が立ち、見上げれば、回遊魚が群れ泳ぎ、淡い気泡が立ち昇っては消えていった。その中にカナンの姿があった。日光か月光かわからない一筋の頼りないあかりを受け、生き生きと尾びれをなびかせて、妖しく体幹をしならせながら泳ぐその姿は、息を呑むほど美しかった。ここは深い深い海の底にある、生も死も時間をも超越した、人魚の楽園なのかもしれない。

 耐えきれなくなり思わず涙が滲む。それは、美しい身体への情念というよりは、目の前の儚い存在そのものに対する抑えきれない愛しさであった。

「言葉だけじゃ足りないの。だから私のことを愛してるって証明して。その足をちょうだい。その身体を私にちょうだい。もうお父さんに連れて行かれないように」

 僕は頷いた。人魚になりたいと願っていたのは僕の方だった。

 目が覚めるとカナンはいなかった。乱れたシーツはかすかに磯の匂いがした。シャワーを浴びて身じたくを整えてから外に出ると、遥か遠くから潮風に乗って人魚の泣き声のような哀しい海鳴りが聞こえた。肺の底まで深々と息を吸い込み、手足の末端に酸素が行き渡るのを実感しながら重い一歩を踏み出す。

 海に、還りたい。心の底からそう思った。だが、また明日電車で彼女に会うのだから家に戻らなければいけない。翌日いつもと同じように大学に向かった。同じ時刻の電車、同じ顔ぶれ。窓の外の水平線の色もいつもと同じ。

 その時人魚の崖の上に人影が見えた。中年男と少女のようである。二人はもつれ合いながら海に落ちた。足が宙に浮いたその刹那、少女は美しい人魚へと姿を変えて、ゆっくりと尾びれをなびかせながら空を舞い、白い水しぶきをあげて海に消えていった。

 視線を横にずらすと、ドアの右側のいつもの場所に彼女が立っていた。彼女は黒いパーカー姿で、スマートフォンも見ず、ただ窓の外の海をぼんやりと眺めていた。その瞳が時折哀しい色に潤むのを、僕は知っている。そしていつかその哀しさが僕を再び海へ誘うだろうことも。

 了


読んでいただきありがとうございました!talesに投稿しようと思っていたのですが、ジャンルがわからないのでnoteにしました。

 三万文字程度の中編用にプロットを立てましたが、掌編のほうが良い気がしてきて、なんだか全然違う話になってしまいました…。



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