本を読むと洗脳されると思ってた、と彼は言う。
【1053文字・2分】
高校時代、面白い国語の先生がいた。
仮にO野先生としよう。
O野先生は、授業の冒頭に自作の読み物「O野通信」を配る人だった。
B4用紙1枚。いくつかの記事に分かれた新聞風の読み物。
そこには、国語へのモチベーションを高めるあれやこれやのトピックが書かれていた。
ネットがなかった時代である。
今でいうと「ブログ」に相当するのだろう。
当然ではあるが、級友たちは「O野通信」にさほど大きな関心を示さなかった。
例外的に、本好き、あるいはO野ファンである一部の生徒だけが、それを熱心に読んでいた。
ちなみに私は、本好きでもあり、O野ファンでもあったので、例外中の例外だ。
その頃、私は図書委員会をしていた。
あるとき、図書だよりの制作係になったことがある。
記事の企画を考える際に、私はインタビュー記事を発案した。
インタビューイ(※インタビュー対象者)はもちろん、我らがO野先生である。
インタビューでは、彼の読書遍歴や、本との出会い、座右の銘など、様々な話を聞いた。
その中でもっとも記憶に残っているのが、今回の記事のタイトルともなったフレーズである。
O野先生は言った。
子供の頃は、あまり本を読まない子だった。
本を読むと、洗脳されると思っていたんだ。
その頃の私は、その不可思議な発言をどう消化したか。
ちょっと思い出してみる。
子供の頃は本を読むと洗脳されると思っていた。
でも、成長して「そんなことはない」とわかった。
それからはたくさん本を読むようになった。
そんなふうに、どこにでもありそうな「O野少年の物語」を、私は思い浮かべていた。
我ながら浅慮であったように思う。
O野先生のあのときの言葉は、いまだに鮮明に心に残っている。
今、歳を重ね、読書を重ねてきた私が改めて解釈するならこうだ。
本を読む行為は、作者の「考え方」を食べる行為だ。
食べたものの一部は、読者の栄養となり血肉となる。
その意味で読者は作者に「小さく洗脳されている」と言えなくもない。
むしろそれが読書の醍醐味でもある。
それが怖いと感じる内は、読書は向かない。
その恐れを御せるようになると、読者は断然楽しくなる。
我ながら、解釈の翼を広げすぎるだという自覚がある。
しかし、それでいい、とも思う。
含蓄のある言葉はいい。
何十年か経った後にも、ふと思い出し、こんなふうにあの頃のO野先生と対話できるのだから。
O野先生は今、どこで何をしているだろうか。
O野通信は、今も我が家の押し入れの奥底に保管されている。
この記事はこちらのマガジンに掲載されています。
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