短編小説 明日の電車
「なぜ誰も気付けなかったんだ!」
報告を受けた上司が大噴火した。
眠っていた火山が目覚め、職場の全員がビクリと肩を震わせた。
基礎的な、些細なミス。
職場の雰囲気が緩んでいたわけではない。ただみんな余裕を失くしていた。
誰かのミスに誰かが気付く。そんなチームワークなど、とうに失われていたんだと思う。
翌日から全てを洗い直す残業の日々。
終わらない事務処理、上司との気まずい沈黙。都会のコンクリートに囲まれて暮らしていると、自分の中の「何か」が少しずつ摩耗して、無色透明になっていくような感覚に襲われる。
「……喉、乾いたな」
声に出してみたけれど、誰も返事はしてくれない。起き上がってキッチンに向かい、冷えた麦茶をグラスに注いだ。
リビングに戻り、ソファの横にあるローテーブルの上にグラスを置く。
そこには、一昨日届いていたポストカードがポツンと佇む。
添えられた短い文章が友人の充実した時間を物語る。
裏面にはモノクロのサバンナを背景に、一頭のシマウマがこちらを振り返っている写真。
白と黒の鮮烈な縞模様。その規則正しいようでどこか不揃いな線は、群れの中で自分の存在を紛れ込ませるための防衛本能だという説を聞いたことがある。
(私も同じだな)と、私は心の中で苦笑した。
オフィスという群れの中で目立ちすぎず、かといって浮きすぎないように、グレーやベージュの服を着て、周りと同じような顔をして微笑む。まるで都市の景観に溶け込むための縞模様を身にまとっているみたいだ。だけど、ポストカードの中のシマウマの瞳は、どこか強く、野生の誇りを捨てていないように見えた。
ベランダに吊るした風鈴が「チリン」と鳴った。
(調べないほうがいいよ)
心の中ではわかっているのに、指先は友人の住むアフリカの街の名を検索してしまう。
私には彼女のような冒険心はない。
得体の知れない疲労感を自覚しながらも、この安定を約束してくれるような街を飛び立つような勇気はない。
それが私。
ベランダに出てみる。夕風が私の薄い部屋着の裾を揺らした。
風鈴の短冊が、揺ら揺らと風に乗って泳いでいる。透明なガラスの中で反響する音は、まるで自分の中の静寂に投げ込まれた小さな波紋のようだった。
群れに紛れるシマウマだって、一頭一頭の縞模様は絶対に同じではないという。
誰かの真似をして生きているつもりでも、私には私の模様があり、群れの中でも私なりの生き方がある。
ベランダから、また清涼な風が吹き込んできた。
風鈴が「チリン、チリン」と鳴るのを聞きながら、無意識に閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
オレンジに染まる街並みを背景に、明日の朝に乗るはずの電車が横切って行った。
今回ははらとけいさんの企画に乗っかって書いた小品です。
普段とは違う楽しさがありました。
新しい楽しみを与えて下さったことに感謝申し上げます。
