【抱かぬ愛〜茶々と大野治長〜歴史小説/戦国時代/恋愛】
乱世の時代。
女と子供の運命は常に男達によって翻弄されるしかない。
この国で、最も美しい母から産まれ…
最も恐ろしい男を伯父に持った君が、運命に翻弄されるのを拒むように、美しく育ったのをずっとそばで見つめてきた。
茶々
乱世の時代。
女と子供の運命は、常に男たちによって翻弄されるしかない。
この国で最も美しい母から生まれ、
最も恐ろしい男を伯父に持った君が――
運命に抗うように、美しく育ったのを、ずっと傍で見つめてきた。
茶々。
お前を愛している。
一生、お前を抱かず、ただ傍にいる。
――※――
「復讐してやるのじゃ。妾の母を殺したあの猿め。……妾に、膝まづかせてやる……!」
夏の盛り、夜の闇の中。
茶々の声だけが、冷たい水面を滑るようにヒヤリと広がった。
下を向き、真新しい畳の目を静かに数えていた大野治長は、顔を上げずにその声を聞いていた。
茶々の声は女にしては少し低く、それは生前の母親に酷似していた。
乱世の覇者・秀吉は、この声に亡き母を重ね、茶々に惹かれたのだろう。
気の強い、はっきりとした口調は幼い頃から変わらない。
復讐してやると言い切ったその烈情を、治長はただ無言で受け入れた。
「弥十郎……妾を抱け! 猿になど、手ほどきなどいらぬ。そなたが妾を女にしてみろ」
苛立った声。手に持った扇で顎をさらい、上を向かせる。
茶々は治長の幼名で呼び、見慣れたはずの彼の顔をじっと見下ろした。
弥十郎――大野治長の顔は、綻びひとつなく整いきっていた。
神が特別に手をかけて作り上げたとすら言われるその造形。
左右対称の美は、恐ろしいほど完璧で、生きた人間とは思えぬ。
天下人が住まう伏魔殿でも、治長の容姿は評判だった。
美しいからこそ、彼の顔からは感情の機微が読めない。
茶々を見つめるその瞳も、冷たく澄んでいた。
「抱け!」
幼い頃も、治長は茶々に「負けるな」「泣くな」と焚き付けられた。
そんな彼女らしい激しさで、今も命じる。
「早う抱け! 遠慮はいらぬ!」
(抱け……抱けと……人の気も知らぬくせに)
胸ぐらを掴まれ、何も言わぬことに腹を立てた茶々は、扇で頬を何度か叩いた。
弥十郎――その名を呼ばれたのは、元服前以来かもしれぬ。
あの頃、茶々はまだ幸せだった。
浅井の屋敷で、優しい母と暮らしていた。
両親は政略結婚とは思えぬほど睦まじく、
浅井三姉妹の笑い声は、いつも家中に満ちていた。
だが、戦が始まった。
織田により父は討たれ、母は柴田と共に果てた。
治長の母も、茶々の母と共に死ぬことを志願し、燃え盛る城の炎の中へ消えた。
残された三姉妹。
長女の茶々は、自ら生贄を志願し、怪物となった“猿”の側室になる。
明日、いよいよその身を差し出す。
それなのに――なぜ俺に抱けというのか。
「………」
頬を叩かれ、口の中を切った。
じんわりと鉄の味が広がる。
治長は虚ろな目で茶々を見上げ、覆いかぶさる彼女を振り払わず言った。
「恐れながら。羽柴様は茶々様が男を知らぬことに喜び、自分が初めての手ほどきをしたことで支配欲を満たすお方。そのことを、一番わかっておられるのでは」
「……初めてのフリなどしてやるわ。猿の前では、常に芝居しかせぬ」
「………」
のしかかる身体は、あまりに軽い。
細い腰に手をやり、歪んだ顔をした茶々の頬を、治長は静かに撫でた。
この顔をする時は決まっている。
子供の頃から何度も見た。
眉をハの字に曲げ、唇を噛む――それが泣く前の合図だ。
「……っ」
(ああ、ほら、泣いた)
気の強い女の涙。
それは、いつも治長の胸をざわつかせる。
母を二人で失い、泣くのは最後にすると言ったあの日から、
もう季節は二度も巡っていた。
「弥十郎の前だけじゃ」
美しい泣き顔を見て、彼は思う。
――この顔を猿に見せれば、一瞬で虜にできるのに。
「素の顔を晒すなど、もうできぬ」
俺の最も大切な人。
好きな女は、永遠に手に入らない。
触れることも、抱くことも、許されぬ。
この身体も声も顔も、全部――あの醜く頭の冴えた猿のものになる。
それでも、そばにいる。
「泣け。あの猿の前で、俺を想って泣け。猿を俺だと思い、抱かせてみせろ」
茶々の烈情を飲み込み、己の中にも熱が上がっていく。
復讐を誓ったのは、茶々だけではない。
国も家も何もかも滅び、残ったのは茶々ただ一人。
攫って逃げることもできた。
だが、それよりも――猿に屈辱を味わわせてやる。
「お前のことは一生抱かない。だが、心は俺だけのものだ」
触れず、ただ傍にいて、猿が身を滅ぼすのを見届ける。
子を持たぬ猿め。
子を得て初めて知る高揚を、思い知れ。
そうすれば、築き上げた全てを子に継がせたいと願うだろう。
今の後継者を殺してでも、狂うほどに。
「猿になど、お前の心は渡さん。ずっと見ていてやる――お前がこの国で天下を取る様を」
「弥十……」
「泣くな。泣くのは、猿の前だけにしろ。勿体ない」
指一本触れず、泣いている茶々の唇を口で塞いだ。
これが、最後だ。
「茶々……」
これを最後にして、もうその名は呼ばぬ。
「茶々、愛してる。一生、傍にいる」
――
その後。
淀君は秀吉の側室となり、奇跡のように二人の子をもうけた。
秀吉は、秀頼が生まれたのち、甥に譲っていた政権を奪い返し、
甥の一族を皆殺しにして手中に収めた。
子を得ぬ体であった彼が、後継者を自ら滅ぼす――それは狂気の沙汰だった。
秀頼は大柄な体を持ち、秀吉には似ていなかった。
人々は囁いた。
「淀君と治長の子ではないか」と。
大野治長は淀君の乳母の息子であり、兄妹のように育ち、常に彼女の傍にあった。
寡黙な男であったが、背が高く、美しい顔立ちをしていたという。
――大阪夏の陣、淀君と秀頼は自刃した。
彼の子が秀頼であったという証はない。
ただ、最後まで淀君の傍を離れなかったという事実だけが、静かに残っている。
お前を愛している。
一生涯お前を抱かず、ただお前のそばにいる。
