完璧な上申書を作ったのに、音信不通で見積もり期限が切れた理由『人がモノを買うしくみを言語化する』
「この体制なら絶対に握れている」という錯覚
商談には、いつも顧客の担当者と課長が並んで座っていました。そして、こちらの投げかけるアジェンダに応じて、IT部門のリーダーや、事業部の課長クラスを会議に呼び出してくれました。
「御社のSaaSで、社内の無駄を削りたい」と、全員でAsIsの課題を洗い出し、ToBeの業務フローを整理する時間は、まさに理想的なパートナーシップそのものでした。
顧客のオフィスに通い詰め、社内の関係者も巻き込んだ盤石な体制をもとに、ROIを試算し、顧客が選びやすいよう部分導入と全社導入のパターンを策定しました。
最後は、担当者がそのまま社内で稟議を回せるよう、顧客の会社ロゴが入ったフォーマットに、以下の情報を盛り込んだ上申資料を作成しました。
導入効果:導入前後の業務工数、金額換算、定性効果
他社事例:同業他社、定量効果、定性効果
導入条件:初期費用、継続費用、契約期間、導入スケジュール、SLA
担当者も課長も「ここまでやってくれたら、もう通すだけです!」と満足げに頷いてくれました。
私は渋谷のオフィスへ戻る道すがら、「ここまでやる競合はいないだろう」と、勝ちを確信していました。
毎週動いていたSlackが、ある日ピタリと止まる
しかし、そこから先、商談フェーズはピタリと止まりました。「今、役員間で調整中ですので」という連絡を最後に、毎週のように動いていたSlackの共有チャンネルは静まり返り、進捗がまったく掴めなくなりました。
そのまま1ヶ月、2ヶ月と延伸が続き、提出した見積もり有効期限が静かに切れました。
ソリューションの提案も、効果のイメージも合っていたはずでした。それなのに、なぜ1ミリも前に進まないのか。
当時の私は、自社プロダクトの価値そのものを疑い、暗闇の中でただ頭を抱えていました。
その上申書は、本当に決裁者の関心ごとに応えているか
日本の大企業の決裁層とってに「業務がラクになる」という効率化の提案は響きません。どれほど生成AIが普及しても、日本の組織には「システムに投資するより、調整の利く人で回した方がリスクが低い」という強固な「人神話」が生きているからです。
この防衛本能の前に、ただの効率化ロジックは一瞬で無力化します。
私は会社でシステム導入を決裁する立場でもあります。だからこそ、上申側と決裁側の致命的な「ズレ」が痛いほど分かります。
上申者がどれほど精緻なROIの数字を並べても、決裁者が稟議書を睨みながら考えているのは、もっと生々しい問いです。
決裁者の心に浮かぶ「7つの本音」
「なぜ、”今(私の任期中)”じゃなきゃダメなんだ?」(先送りの誘惑)
「もし炎上したら、誰が身代わりになってくれるんだ?」(連帯責任の罠)
「なぜ、うちがファーストペンギンにならなければいけないんだ?」(前例主義の呪縛)
「一度入れたら、他のベンダーに変更できなくなるんじゃないか?」(不可逆性の恐怖)
「社長や監査役に突っ込まれたとき、誰が私の代わりに戦ってくれるんだ?」(説明責任の担保)
「現場の”声の大きいボス”は本当に納得しているのか?」(現場政治への恐怖)
「この案件に割くリソースのせいで、私の”他のプロジェクト”が遅れないか?」(予算の奪い合い)
上申する部長や課長は、決裁者の空気を敏感に察知します。そして、役員会で自分のキャリアを守る「万が一の言い訳(防弾チョッキ)」が資料にないと感じた瞬間、怖くなって上申を躊躇し、商談は凍りつくのです。
この心理の壁を先回りしない限り、どれだけ相手に寄り添って作った上申書も、現状維持の沼に沈み、気づいた時には競合にその席をあっさりと奪われます。
顧客の防衛本能は、私たちが提供するSaaSの便益よりも、常に圧倒的に強固だからです。
『人がモノを買うしくみを言語化する』 著者: 大久保 舒博 / 出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン / 発売日: 2024年4月 カテゴリ: マーケティング・ビジネス実務 評価スコア: Amazon ★4.2 / 5.0 概要: 顧客が商品を認知し、購入に至るまでの無意識の心理プロセスを徹底的に解剖。感覚やセンスに頼りがちな「売れる仕組み」を、誰もが再現できる具体的なステップとして言語化した、顧客視点を掴むための実戦書。
「良いプロダクトだから買う」という思い込み
この動かない商談という泥沼から抜け出すための脱出ルートが、本書が示す「購買心理のステップと阻害要因の排除」というアプローチです。
顧客は「機能が良いから」という理屈だけでは、リスクを背負ってくれません。彼らの頭の中にある「変わりたくない」「失敗したらどうしよう」という、目に見えないブレーキを一つずつ言語化して外していく作業が必要でした。
ここから先は、綺麗に整えられた提案プランを捨てて、顧客の「動かない心」を泥臭くこじ開けるために、私が現場で血を流しながら導き出した「個人的な線引き」をお伝えします。
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泥沼の開発現場を動かす技術・プロダクト戦略論
本当に価値あるものをつくるために、現場は何を捨てるべきか。 アジャイル開発の罠、形骸化したスクラム、技術負債、生成AIへの適応など、プロダ…
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