日本史を経済学で読む――「合理性の罠」に落ちた国の150年
私たちは歴史を振り返るとき、偉人たちの「高い志」や国民の「愛国心」、あるいは逆に一部の権力者の「愚かさ」によって時代が動いたと考えがちです。歴史の成功を美談にし、失敗を悪人や愚者のせいにすることは、物語として非常に分かりやすいからです。
しかし、システム論、そして経済学の視点に立つと、世界は全く違う姿を現します。
社会という巨大なシステムを実際に駆動させている本質的な燃料は、理念や道徳ではなく、目の前に差し出された「インセンティブ(利害得失・アメとムチ)」に他なりません。
どれほど美しい理想を掲げた制度であっても、その裏側にあるインセンティブの設計(評価基準)が間違っていれば、人間は必ず「自分にとって最も得になる(あるいは損を避ける)方向」へと走り、結果としてシステム全体を歪めていきます。
これまで本シリーズでは、「官僚の慣性(官僚論)」「地政学的制約(地政学編)」「共通事実の喪失(情報学編)」というレンズで日本の近現代史を眺めてきました。第5弾となる今回は、それらすべての構造の裏側で、日本人がどのようなインセンティブに従って動き、そして現代の「合理性の罠」へと至ったのかを解き明かします。
1. 明治期:命がけの「インセンティブ・リデザイン」――生存をかけた新プラットフォーム
明治維新という日本史上最大の大変革期、明治政府が行った本質的な改革とは、江戸時代まで続いていた「インセンティブ構造の完全な破壊と再設計」でした。
江戸時代までの日本社会において、武士や農民を動かしていた最大のインセンティブは「家(藩)の存続と格付け」でした。武士はどれほど無能であっても、座っているだけで先祖代々の給料(家禄)が保証され、農民はどれほど米を増産しても、そのぶん税(年貢)として吸い上げられるため、個人の生産性を上げる経済的メリットが薄い構造でした。
このぬるま湯と諦めが混ざり合った古いシステムを、明治政府は凄まじい外科手術によって書き換えます。
インセンティブ・リデザイン(誘因の再設計): 組織や個人の「何をすれば得になり、何をすれば損をするか」という利害のルールを根底から書き換えること。これにより、人間の行動原理を強制的にシフトさせる。
まず政府が行ったのが、武士の特権を完全に剥奪する「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」でした。これにより、ただ生きているだけで給料がもらえる仕組みが消滅します。かつての支配階級であった武士たちに政府が突きつけたのは、「自らビジネス(起業)を始めるか、あるいは新たな官僚・軍人組織の歯車として滅私奉公しなければ、明日から餓死する」という、極めて強烈な「生存のインセンティブ」でした。
同時に、国の経済基盤である農業に対しては「地租改正(ちそかいせい)」を断行します。税の基準を「毎年の収穫量(変動)」から「土地の価値(固定・現金)」へと変えたのです。
これによって農民のインセンティブは激変しました。どれだけ工夫して米の生産性を上げても、納める税金は一定ですから、「頑張れば頑張るほど、増産分がすべて自分の純利益になる」という資本主義的なインセンティブが農村にインストールされたのです。
明治の近代化が爆発的なスピードで進んだのは、日本人の精神が突然目覚めたからではありません。国家によってインセンティブの基準を書き換えられた人々が、自身の生存と利益のために最も合理的に動き回った結果なのです。
2. 昭和(戦前・戦中):歪んだ評価制度が招いた「大本営発表」という自己保身
では、なぜこれほど見事なインセンティブ設計によって始まった近代日本が、昭和に入ると、あの無謀な破滅の道へと突き進んでしまったのでしょうか。
ここでも「軍部が暴走した」「国民が狂気に陥った」という精神論を排し、当時の組織の中にあった「歪んだ評価制度(インセンティブ構造)」に目を向ける必要があります。
情報学編において、戦前・戦中の日本は、現場の負け戦のデータ(負のフィードバック)を拒絶する「認知障害」に陥っていたと述べました。では、「なぜフィードバックが遮断されたのか」という原因に踏み込むと、そこには「事実を隠蔽し、嘘の戦果をでっち上げることが、組織人にとって最も合理的な選択になる」という、致命的な人事評価の歪みがありました。
当時の陸海軍の評価システムは、極めて極端な「成果主義」かつ「精神論」に偏っていました。
過度なリスクを取って独走し、現場を大混乱に陥れても、一時的な「派手な戦果」を上げた者は英雄として過剰に出世しました。一方で、冷徹に補給や輸送の限界を見抜き、慎重な撤退や作戦の中止を具申した者は、「臆病者」の烙印を押され、キャリアを絶たれました。
さらに、合理的な反対論を唱える者が組織から物理的・社会的に排除される「同調圧力」が極限まで高まります。こうなると、一人ひとりのエリートたちの最優先インセンティブは「国家の勝利」ではなく、「この狂った評価シート(空気)の中で、いかに自分の身を守り、出世するか(自己保身)」にすり替わります。
大本営発表という歴史的な嘘は、誰か一人の独裁者が国民を騙すために作ったものではありません。「不都合な真実を言えば罰せられ、耳ざわりの良い嘘をつけば評価される」という環境の中で、多くの組織人が自らの地位や立場を守るために合理的な行動を選び続けた結果、生み出されたものだったのです。
ここでも「軍部が暴走した」「国民が狂気に陥った」という精神論ではなく、「どのような行動が評価され、どのような行動が罰せられたのか」という組織のルールに目を向ける必要があります。
3. 戦後・昭和:企業と個人が同じゴールを目指した時代
1945年の敗戦を経て、日本は再びインセンティブ構造の大転換を迎えます。ここで完成したのが、焼け野原から世界第2位の経済大国へと駆け上がる「護送船団方式」と「日本型雇用」の完璧なインセンティブ・エコシステムでした。
また、1945年の敗戦後、日本にはもう一つの大きな課題がありました。冷戦の始まりです。貧困が続けば共産主義勢力が拡大する恐れがあったため、「国民を豊かにすること」そのものが国家の最重要目標となりました。
戦後の日本社会が設計した目標は、「誰もが等しく、右肩上がりに豊かになること」でした。そのために、企業と個人が同じ方向を向いて行動するほど、双方に利益が生まれる仕組みが作られました。
それが「終身雇用」と「年功序列」です。
働く個人にとっては、「この会社に忠誠を誓い、24時間滅私奉公して長く勤め上げれば、能力に関係なく、年齢とともに確実に給料が上がり、定年まで身分が保証される」という、強烈な安心と利益のインセンティブが提示されました。
経営側にとっても、社員が定年まで辞めない前提があるからこそ、莫大なコストと時間をかけて新入社員を「長期的に社内育成する」というインセンティブが働きました。さらに大蔵省(現・財務省)や通産省(現・経済産業省)といった官僚機構は、業界内の過度な抜け駆けや倒産を防ぐ代わりに、全員を等しく成長させる「護送船団方式」の安全網を提供しました。
会社のために身を粉にして働けば、個人も, 企業も, 国家も、すべてが同時に豊かになる。
この「全員が同じ双六(すごろく)のゴールを、同じルールで目指すことが全員の最大利益になる」という完璧なインセンティブの同期こそが、「1億総中流」を生み出し、世界を震撼させた高度経済成長(東洋の奇跡)の正体だったのです。
4. 現代(令和):構造的なミスマッチが生み出す「合理性の罠」
現代の日本が直面している「失われた30年」と呼ばれる長期停滞。その本質は、日本人の能力が落ちたからでも、国民が怠惰になったからでもありません。また、決して日本人だけの特殊な欠陥でもありません。
むしろ、アメリカの止まらない財政赤字、フランスの難航する年金改革、イギリスのBrexit、中国の不動産バブル依存など、先進国をはじめとするあらゆる成熟した社会が必ず直面する「近代社会システム共通の病」です。人口構造が固定化し、制度が巨大化し、既得権益が積み上がった社会では、個々のプレイヤーが合理的に行動するほど、システム全体が変化できなくなるという罠に陥るのです。
現代の日本社会の意思決定を歪めているのは、特定の誰かの悪意ではなく、各プレイヤーの「合理的な選択」が積み重なった結果、全体として最悪の結果を招く「合成の罠」の構造です。民主主義、官僚機構、大企業のそれぞれが、いま独自の「合理性の罠」に嵌まり込んでいます。
まず民主主義では、政治家は有権者の評価によって動きます。政治家にとっては、人口のボリュームゾーンであり、投票率も高い層の関心事(既存の社会保障の維持など)を最優先に据えることが、自らの生存(当選)のために最も合理的です。有権者の側も、自らの生活や権利を守るために既存のシステムを支持することは完全に合理的であり、ここに「制度を急激に変えないこと」への強力な合意が形成されます。
これに連動して、行政や企業では「失敗を避けること」が強く求められるようになります。
官僚機構にとって、未知の破壊的改革に打って出ることは、失敗した時の政治的・組織的ペナルティが大きすぎます。前例を踏襲し、現在の制度を微修正しながら維持していくことが、組織防衛として最も安全な選択となります。大企業の経営層やサラリーマンにとっても同様です。「新しい挑戦をして大成功してもリターンは少なく、失敗すれば責任を問われる」という評価ルールの下では、「余計なことはせず、自分の任期中を無難にやり過ごす」ことが、個人にとっての最大利益になってしまうのです。
現代日本の問題は、誰かが怠けていることではありません。むしろ逆です。政治家も、有権者も、官僚も、企業も、それぞれが与えられたルールの中で極めて合理的に行動しています。にもかかわらず、社会全体としては停滞してしまう。経済学では、こうした現象を「個人の合理性と全体最適のズレ」として説明します。現代日本とは、まさに巨大な『合理性の罠』に陥った社会の、最も顕著なサンプルに過ぎないのです。
結び:
明治から令和まで、日本の歴史を経済の視点で振り返ると、ある冷たい事実が見えてきます。
人間は、与えられたルールの中で、自分にとって一番得になる行動を取ります。これは道徳や善悪の問題ではなく、ごく自然な行動です。
だからこそ問題は「人が正しいかどうか」ではありません。「どんなルールの中で行動しているか」です。
このシリーズで見てきたように、
官僚は組織を守る行動を取り、
政治家は当選しやすい行動を取り、
企業は損をしない行動を取り、
個人は生活を守る行動を取ります。
それぞれは個別に見ればすべて合理的です。しかし、その結果として社会全体の動きがうまくかみ合わなくなることがあります。これを経済学では「個々の合理的な行動が、全体としては悪い結果を生む」と説明します。
現代日本が直面している問題も、この構造にあります。誰かが怠けているわけではなく、それぞれが自分の立場で最も損をしない選択をしているだけです。
だからこそ重要なのは、「誰が悪いか」ではなく、「この仕組みは何を良くするように作られているのか」という視点です。
官僚論では組織の維持、
地政学では国家の安全、
情報では人の注意の獲得、
経済では個人の利益、
それぞれ別の目的が動いています。
では、これらの目的がぶつかったとき、私たちは何を基準に選べばいいのでしょうか。
それは、制度や仕組みの話ではなく、そのさらに外側にある問題です。
何を良い社会と考えるのか。
何を優先すべきと考えるのか。
そこから先は、「哲学」の領域です。
