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あの戦争から学ぶ組織の失敗学 EPISODE Ⅰ~明治維新と「成功体験のインストール」~

「明治政府の仕組みこそが、昭和日本の暴走の元凶だった」

歴史を結果論から振り返るとき、私たちはしばしばそう結論づけたくなります。軍部の暴走を許した制度、憲法の不備、精神論への傾向――それらの種はすべて明治に蒔われていたのだ、と。

しかし、その見方は少し公平性を欠いています。 彼らが作った仕組みは、当時の日本にとって間違いなく必要不可欠なものであり、当時の最適解でした。問題は、その仕組みが悪かったことではありません。むしろ逆です。あまりにも成功しすぎてしまったこと。それこそが、すべての欠陥の始まりでした。

強すぎる成功体験は、やがて組織から「前提を疑う力」を奪います。のちに昭和の日本を破滅させることになる組織の欠陥は、無能な誰かが作ったのではない。明治という激動の時代に、天才・大久保利通が国家の生き残りをかけて必死に作り上げた「最強の仕組み」の裏返しとして誕生したのです。 これは、ある冷徹なプロ経営者が遺した、完璧すぎる自動人形(システム)の物語です。

1.

敵は幕府ではない、「欧米列強」という倒産危機 明治維新によって新政府は誕生しました。しかし、誕生したばかりの経営陣(指導者たち)の目に映っていたのは、「革命の成功」という歓喜などではありません。そこにあったのは、凄まじいまでの「倒産への危機感」でした。

当時のアジアでは、欧米列強による植民地化が急速に進んでいました。大国・清(中国)はアヘン戦争で惨敗し、不平等条約を押し付けられて切り刻まれている。次は日本だ。このまま旧態依然とした組織のままでいれば、世界市場(列強の植民地競争)に飲み込まれて確実に倒産する。

新政府の指導者たちが共有していたのは、「一刻も早く、欧米と対等に渡り合える近代国家(巨大企業)へ組織を生まれ変わらせなければならない」という、生存本能に近い危機感でした。 そのためには、260年続いた「地方分権(藩)」というぬるま湯の体制を解体し、ヒト・モノ・カネのすべてを本社へ一元化する超強力な「中央集権的な仕組み」が必要だったのです。

2.

カリスマの排除と「内務省」という強権的な管理体制 この大改革を実質的なトップとして率いたのが、大久保利通でした。大久保は、現代で言えば「創業期のベンチャー企業を、冷徹な理屈で大企業へと脱皮させたプロ経営者」です。

大久保が最初に着手したのは、組織の「脱・カリスマ化」でした。維新という奇跡を成し遂げたのは、西郷隆盛という男の圧倒的な現場統率力であり、人望(カリスマ)でした。しかし大久保は、「一個人の情熱や魅力に依存する組織は持続しない」と冷徹に見抜いていました。

大久保は盟友である西郷との決別も辞さず、誰がトップに座っても前例とマニュアルに従って国が回る「近代的な役人制度」への移行を強行したのです。 その管理体制の象徴として大久保が自ら立ち上げたのが「内務省」でした。内務省は、警察、地方行政、産業育成(殖産興業)までをまとめて行う、いわば「国の中の国」のような巨大組織です。「危機を乗り切るためには、一つの強力な中央組織に権力を集中させ、トップダウンで一気に資源を投下するしかない」という、当時としては極めて合理的な経営判断でした。

【昭和への伏線①:成功した中央集権モデルの副作用】
「国家存亡の危機においては、強力な中央集権組織がトップダウンで問題を解決する」というこの大成功体験は、のちの日本に強烈な記憶として残りました。しかし昭和期、この成功体験は現場によって都合よく解釈され、歪んだ形で暴走を呼び込みます。

満洲において「関東軍」という現地の異能組織が、軍事・政治・経済のすべてを自前で牛耳り、中央の統制を無視して国を引っ張り回した背景には、「かつて内務省が力技で国を救ったように、危機的な現場を救うのは俺たちの組織だ」という、明治の成功モデルを部分的に取り入れた現場暴走の理屈が潜んでいたのです。

3.

「理詰めの冷徹」がもたらした現場の切り捨て 大久保の徹底した「理屈(現実主義)」は、日本をまたたく間に近代化させました。独立採算だった各藩をすべて本社に強制統合する「廃藩置県」という超難題を成し遂げ、税制を整え、基盤を敷いた。 しかし、この仕組みには最初から大きな代償が支払われていました。

それは「現場の感情の切り捨て」です。 大久保は、近代化の足枷となる士族(旧社員たち)の特権を次々と剥奪しました。現場からどれほど不満が出ようとも、「それが国家の生き残る唯一の理屈だからだ」と、冷徹にねじ伏せ続けたのです。感情を排し、数字と成果だけで組織をドライブする。この徹底した合理主義があったからこそ、日本はアジアで唯一、植民地化を免れることができました。

【昭和への伏線②:感情のガス抜きを忘れた組織の歪み】
しかし、理屈だけで現場を縛り、感情やガス抜きを排除しすぎた仕組みは、のちに無視できない副作用を生みます。大久保以降の役人組織は「上の決定(国策)には絶対に逆らえない」という空気を作り上げましたが、その結果、現場の不満は行き場を失い、地下へ潜ることになりました。

もちろん、昭和の「5・15事件」や「2・26事件」といったテロは、世界恐慌や農村の疲弊など複合的な要因で起きたものです。しかし、現場の感情を「合理性」の名のもとに抑え込み、風通しを悪くしてしまった明治の組織構造が、その暴走の遠因の一つになっていたことは否定できません。

終章:

経営者の暗殺と、遺された「自動人形(仕組み)」 1878年(明治11年)、大久保利通は紀尾井坂の変において、不満を募らせた士族の手によって暗殺されます。志半ばの急逝でした。 しかし、大久保が遺した仕組みは、あまりにも優秀でした。

各部門に配された若き天才たち――法制の伊藤博文、軍事の山県有朋ら後継世代が専門特化した実務を回し、リーダーである大久保を失った後も、まるで「自動人形」のように自走を続けたのです。 大久保が設計したこの高効率な役人国家の仕組みは、その後、「日清戦争」「日露戦争」という国家の命運をかけた大勝負において、完璧な勝利という形で最大級の成果を叩き出します。

そして、日本という組織は確信してしまったのです。「この仕組みは絶対に正しい。これまでのやり方を変える必要はない」と。 明治の人々は、命がけで合理的な最善手を打ち続けました。彼らが作った中央集権や役人制度は、当時の日本が植民地化を回避するために必要不可欠だった仕組みです。もし大久保利通が存在しなければ、日本は清と同じ運命を辿っていた可能性すらあります。

大久保は間違っていなかった。それどころか、最強の創業者として大成功を収めたのです。 つまり、問題は仕組みそのものではありません。本当の問題は、その後の世代が成功体験を絶対視し、時代が変わっても仕組みを更新しなかったことでした。

組織の欠陥とは、失敗から生まれるとは限りません。むしろ歴史上もっとも危険な欠陥は、「成功体験そのもの」から生まれるのです。 大久保利通が作った最強の仕組み。それは日清・日露戦争という大成功によって何度も「成功」のデータを上書きされ、やがて時代の変化に対応できない「巨大な過去の遺物」となり、誰も停止できない、誰も書き換えられない「固定化された土台」へと成長していくことになります。

この更新不能な自動運転システムへと変貌していく歴史の歯車は、大久保の遺志を継いだ「伊藤博文」と「山県有朋」の二人に託されることになります。

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