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『蜜柑(芥川龍之介)』 書評

はじめに


 ラーメンを食べる時、メニューの裏にある「そのラーメンのこだわり」を読みながら食べると、知覚できる味が増え、より楽しめる。
 誇張しすぎたモノマネを観た上で本家を観ると、見落としていた細かな仕草に気付き、そこに面白みを見出すことができる。

 この書評が目指すのは、芥川龍之介の『蜜柑』にとっての「メニューの裏に書かれたこだわり」であり「誇張しすぎたモノマネ」である。この書評を通じて、より作品が楽しめるようになってもらうことを最大の目的としたい。
……いや、それだけでは全く面白くない。文章に多く触れ、目の肥えた読者なら満足しない。そこで、この書評自体を芥川龍之介が駆使した技法を使いながら書くことにする。「食べるとその一杯にかけたこだわりに関する情報が頭に流れ込んでくるラーメン」を目指そうと思う。
(さすがに本家を超えるモノマネをする、なんてことは言えない)

作品概要

蜜柑」(みかん)は、大正8年(1919年)5月に芥川龍之介によって『新潮』に発表された短編小説掌編小説)。

『新潮』に「私の出遇つた事」という総題の下、「一、蜜柑」 「二、沼地」という形で2作まとめて掲載された。単行本収録に際し総題が外され、「蜜柑」と「沼地」はそれぞれ独立した短編となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%9C%E6%9F%91_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

 この作品の筋を簡単に言えば「陰鬱な気持ちで汽車に乗っていたら、癇に障る小娘が乗ってきた。小娘が窓を開け、蜜柑を放り投げているのを見た瞬間、"この小娘はこれから奉公に行くんだな、それを見送ってくれる弟たちを労って蜜柑を投げ渡したんだな”と気づき、気持ちが慰められた」という、ただそれだけの話である。

どこが優れているのか

前半

やがて発車の笛が鳴つた。私はかすかな心のくつろぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。

 作品序盤の一節である。最初に読んだ時、かなり「あるある」だなぁと感じた。この文章の前には、主人公が倦怠感を抱えている描写がある。そんな時、電車(作者が乗っているのは汽車だが)が停車していると、物理的に自分自身が止まっている状況にもどかしさを感じる。「待つともなくなく待ち構える」という感覚を見つけ出した、深い内省と洞察力に感嘆し作品に引き込まれてしまう。

クライマックス

するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。

 この作品のクライマックスである。文章は頭に光景を思い浮かべながら読み進めていくものである。『蜜柑』ではこのシーンに至るまで、色彩に関する情報は極力抑えられている。あってもそのほとんどが

皸ひびだらけの両頬を気持の悪い程赤く火照ほてらせた

 など、マイナスな情報(主人公の心の声)とセットで出てくる。このことによって、蜜柑が宙を舞う風景が、最大限美しい光景として脳裏に焼きつき、頭の中で描いていた作品の情景描写に急に鮮やかな色が現れる仕掛けとなっている。この鑑賞体験は文章でしか味わうことができない。それまで読んできた文章に隠された意図に、最後の最後に気づかされる構成になっている。

 「心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑」という表現にも、そのための心配りが感じられる。
 例えば、「世界一綺麗な絵」を描くことは不可能に近い。一方「そこには世界一綺麗な絵があった」という文章があれば、読み手に各々の想う「綺麗な絵」を想い描いてもらうことができる。"心を躍らせるような温かな色"と文章で書かれることによって、想像の余地が個々へと委ねられている。

 しかし、肝心の最後まで読み進んでもらえなければ意味がない。だからこそ、読み手に共感してもらえるような文章や比喩が前半に来る構成になっているのではないだろうか。

終わりに

 さすが神経を張り巡らせた文章を書く芥川の作品だな、と感じる。
文章を書くにあたって、彼に教えを請えるならばそうしたい。一方、その計算高さには執着すら感じ「怖えな」と思わなくもない。

 『蜜柑』と同時に掲載された『沼地』の中には

恐しい焦躁と不安とに虐さいなまれているいたましい芸術家の姿を見出した。

とあるが、全く同じ気持ちを、この『蜜柑』を読んだ時に感じるのである。

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