美輪明宏追悼

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美輪明宏追悼

美輪明宏が、死んでいた。
今日、知った。
死なない人など、いは、しないのに。
美輪明宏が、死んだのが、不思議だ。

2026年6月20日、午前9時30分。老衰。91歳。所属事務所「オフィスミワ」が6月28日に公式発表した。最後の言葉は「ありがとう」だったという。


🕯️ 長崎、そして原爆

🗾 美輪明宏の出自は、本人の語りも含めて複数の記述が混在する。
それ自体が、この人間の神話性の一部だ。

本名、丸山明宏。1935年5月15日、長崎県長崎市本石灰町に生まれた。出生時の名前については諸説あるが、寺田臣吾とも伝わる。4歳のとき、母方の実家の跡継ぎとして丸山家に養子に出され、「丸山臣吾」となった。

幼年期、丸山家の母・ミツに女言葉で話すようにしつけられた。それが後の美輪明宏の話し方の原点だと言われている。

💣 1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。臣吾少年は10歳だった。爆心地での直接被爆ではなく、爆心地から離れた場所での被災だったが、その光景と記憶は生涯を通じて美輪の内側に焼き付いていた。

戦後の長崎で、焼け跡と闇市の現実を見ながら育った。
🔥 腐敗と貧困の只中で、あえて「美」を選び取る——その態度はこの時期に骨格が形成された。
反戦と平和への発言を晩年まで続けたのは、この経験と切り離せない。

✨ 美輪にとって「美」とは、装飾ではない。
倫理だった。
醜さに飲み込まれないための、生存戦略だった。


🎶 銀巴里、そして美少年

中学時代に音楽に目覚め、オペラ歌手を目指して上京。国立音楽大学附属高校に入学したが、実家との絶縁を経て高校を中退した。

1951年、16歳。
🎤 銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」のオーディションを受け、専属歌手となった。
「国籍・年齢・性別不詳」として売り出されたこの美少年は、みるみる評判を呼んだ。
マスコミは「神武以来の美少年」と書いた。

▶️ メケ・メケ(1957年)
メケ・メケ (ME-QUE ME-QUE)
https://youtu.be/g5z47qlzflI?list=RDg5z47qlzflI

https://youtu.be/qF7GWeLd9Ak

1957年、シャンソン曲「メケ・メケ」を日本語でカバーしたレコードが大ヒット。🌟 丸山明宏の名がエンターテインメントの世界に刻まれた瞬間だった。


🌈 男でも女でもない存在

美輪は若い頃から同性愛者であることを公言していた。
当時の日本では極めて異例のことだった。
「男でも女でもない存在」と自ら語った。

しかしその言葉は、

今日のジェンダー論やLGBTという概念に回収されることを拒む。

概念が整備される以前から、存在が先にあった。
フレームが後からやってきても、美輪明宏はそのどれにも収まらなかった。「国籍・年齢・性別不詳」として売り出されたあの日から、それはずっと一貫していた。


📚 天才たちとの邂逅

銀巴里には、昭和の文化的知性が集まった。

江戸川乱歩、三島由紀夫、川端康成、大江健三郎、吉行淳之介、遠藤周作、野坂昭如、寺山修司、なかにし礼——綺羅星のような顔ぶれが、この美少年の歌を聴きに通った。

🌹 江戸川乱歩との初対面は有名なエピソードだ。
美輪が「明智小五郎はどんな人ですか」と聞くと、乱歩は「腕を切ったら、青い血が出そうな男だよ」と答えた。
「どんな色の血が出るんだい」と問い返した乱歩に、美輪は「🌈七色の血が出ますよ」と返した。
その切り返しに乱歩は面白がり、二人の縁が生まれた。

🏛️ 三島由紀夫は美輪の美しさを「天上界の美」と称した。
自伝『紫の履歴書』(1968年)には、三島自身が序文を寄せている。
作詞家のなかにし礼とは長年の交流が続き、瀬戸内寂聴とも対談を重ね、思想的な共鳴があった。


🦎 黒蜥蜴と昭和演劇史

江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が戯曲化した「黒蜥蜴」。
1962年の初演は初代水谷八重子が主演したが、後に三島自身が美輪に主役を打診した。

美輪が「黒蜥蜴」のヒロインとして舞台と映画に立ったとき、その妖艶さと怪演は昭和の演劇・映画史に刻まれる出来事となった。🎬 深作欣二監督の映画版(1968年)は後に傑作として語り継がれ、2025年にはBlu-ray化もされた。

▶️美輪明宏主演 伝説の大ヒット映画 『黒蜥蜴』 最新の予告映像 初公開!!
https://youtu.be/mbfcqna06qg


🎵 ヨイトマケの唄と放送禁止

1965年、自ら作詞作曲した「ヨイトマケの唄」を発表した。
👷 地固め作業をする母親と、その子の成長を描いた楽曲は、高度経済成長期の日本の底力を歌ったワーク・ソングであり、深い愛の歌だった。

しかしこの曲は長年、民放テレビ・ラジオの放送を事実上禁じられた。「ヨイトマケ」という言葉が差別的とみなされたためだ。呪縛を解いたのは、2000年に桑田佳祐がテレビで歌ったことだった。

🚫 放送禁止は楽曲だけではなかった。1960〜70年代、その存在自体が時代の倫理と衝突し、テレビから遠ざけられた時期がある。楽曲が差別的とみなされたのと同じ力学が、美輪明宏という人間そのものにも働いていた。

🏆 2012年、77歳にしてNHK紅白歌合戦に初出場。「ヨイトマケの唄」を歌った。翌2013年も出場。半世紀近くにわたって放送の外に置かれていた曲が、日本中のお茶の間に流れた夜だった。
▶️ ヨイトマケの唄
https://youtu.be/IiaOITjzRxU


🌹 三島由紀夫の死、そして改名

1970年11月25日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。

その1週間ほど前、三島は日劇に出演中の美輪の楽屋に一人で現れた。抱えきれないほどの100本の薔薇の花束を持ち、靴はピカピカに磨かれていた。「これから君の楽屋に来ることもないだろうからね」と言い残して去った。美輪はその言葉に重大な決心を感じ取っていたという。

😔 1971年、三島の供養のための読経中に「美輪」の文字が浮かんだ。三島が生前、三輪神社で修行していたことと重ね、神が与えた名と受け取った。姓名判断でも完全無欠の画数だった。こうして丸山明宏は、美輪明宏となった。

⚔️ 三島は「美」を観念として極限まで純化し、死へと持ち込んだ。美輪は「美」を生の側に留め続けた。二人は同じものを見て、逆方向へ歩いた。


🎭 寺山修司、舞台、そしてシャンソン

寺山修司は「毛皮のマリー」を美輪のために書き下ろした。公演は大盛況で、劇場のある新宿の通りが人で埋まって歩けなくなったほどだった。

✨ 改名後は女優引退宣言を行い、歌手活動に専念。銀巴里や渋谷ジァン・ジァンでのライヴ、全国リサイタルを精力的に行った。ジァン・ジァンでのラストライヴは2000年3月29日。その後、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台「エディットピアフ物語 愛の讃歌」を上演した。

▶️ 【美輪明宏】毛皮のマリー【寺山修司】1983
https://youtu.be/MhZNES3Ipyc

愛の讃歌(日本語バージョン)
https://youtu.be/rxSv6caTG2U

【追悼】美輪明宏 - 愛の讃歌(日本語バージョン) [Official Audio]

https://youtu.be/IH1VCVcmTV8?list=RDIH1VCVcmTV8


🎙️ 声という武器

美輪明宏の本質は、視覚だけではない。🔊 あの低く、響く声——性別を判別させない音域と、感情を直接侵入させてくるような抑揚。それは歌でも、台詞でも、晩年の語りでも同じだった。言葉の内容より先に、声そのものが人間に作用する。

宮崎駿が二度にわたって美輪を選んだのも、この声の力を抜きにしては説明できない。


🐺 モロの君、そして宮崎駿

1997年、宮崎駿監督のアニメーション映画「もののけ姫」で山犬の神・モロの君の声を担当した。
🌲 人間でも神でもない境界の存在、怒りと慈愛を同時に宿した母神。
その役を、宮崎は美輪明宏に委ねた。

山の神の台詞を美輪が語るとき、それは演技ではなく、もともとそこにいた何かが喋っているように聞こえた。


【もののけ姫】モロの君(CV.美輪明宏) セリフ集

https://youtu.be/ff53TTvHEuw


🏯 荒れ地の魔女、ふたたび宮崎駿

2004年、「ハウルの動く城」で「荒れ地の魔女」の声を担当した。
🧙 宮崎駿は7年越しで、再び美輪明宏を選んだ。
人間の業と滑稽さを体現したこの役もまた、美輪以外には考えられないキャスティングだった。


寝る前にコーラを飲み過ぎちゃった荒地の魔女
https://www.youtube.com/shorts/Nf99-BOascs


追悼【美輪明宏】を聴く【モロ】【アルセウス】【荒地の魔女】もののけ姫 ポケモン ポケットモンスター ハウルの動く城

https://youtu.be/tiW0KS5GH_0


📺 オーラの泉と、スピリチュアルの時代

2005年から2009年、テレビ朝日系「オーラの泉」が放送された。🔮 江原啓之、国分太一とともに出演し、"見えない世界"を語るこの番組は若い世代に爆発的に受け入れられた。

バブル崩壊後、価値観の基軸を失っていた日本社会の精神的空白に、番組ははまり込んだ。それは同時に、合理や検証から遠い領域でもあった。しかし美輪の言葉が単なる空想に堕ちなかったのは、その背後に現実の極限——戦争と貧困——があったからだ。91年の生涯が積んだ重さが、言葉を支えていた。


オーラの泉、最終回スペシャル、

https://youtu.be/bwC7uzz5SkA


🌸 晩年——講演、著作、そして「花」

晩年も衰えを知らない存在感で舞台やテレビに立ち続けた。「ズームイン!!朝!」「徹子の部屋」など数多くの番組に出演し、歯に衣着せぬ発言で視聴者を引きつけた。

📖 舞台だけでなく、講演と著作を通じて「生き方」を語り続けた。人生論、戦争体験、美学——その言葉は芸能人の域を超え、一種の人生哲として受け取られていた。「テレビに出ている人間の言うことを信じるな」「自分の頭で考えなさい」。権威と空気に依存する日本社会への批判は、晩年まで一貫していた。

🌺 「すべての人の心に花を」——沖縄の名曲として知られるこの歌を、美輪はシャンソン歌手の解釈で歌った。

▶️ 花(すべての人の心に花を)
https://youtu.be/Sd8bdbBqzBc


この一年は高齢のため仕事をセーブし、体力の回復に努めていた。約3ヶ月前に体調を崩してからは自宅で静養を続けていた。


🕊️ 最後の言葉

「愛があれば戦争なんか起こりません」——生前にしたためた直筆メッセージにそう書いた。
10歳で被爆した長崎の少年が、91年の生涯の末に遺した言葉だ。

最後は「ありがとう」と一言感謝の言葉を伝え、静かに目を閉じた。


🌌 存在、ということ

美輪明宏が死んだのが、不思議だ。

あの人は、全部の外側にいた。
ジェンダーの外側、常識の外側、イデオロギーの外側。
そして言葉の外側にも、いた。

フェミニズムもジェンダー論も、美輪明宏を説明する道具にはなれない。
あの人はカテゴリに収まらなかった。
むしろそういう概念より先に、存在していた。
主張ではなく、存在だった。
だから賛否を問う前に、人は圧倒された。

戦後日本における「異形のスター」の完成形だった。
🎭 シャンソン喫茶の銀巴里から、昭和演劇史、テレビ、そしてアニメーションへ。
その軌跡を横断した存在は、他にいない。

🕊️ 遺された言葉がある。「愛があれば戦争なんか起こりません」。

これを普通の人間が言えば、ぶん殴りたくなる
地政学も、国家利益も、資源争奪も、宗教対立も、全部すっ飛ばした綺麗事だ。
しかし美輪明宏が言うと、構造が変わる。
この言葉の後ろには、1945年8月9日の長崎が立っている。
10歳で被爆した人間が、91年生きて最後に「愛」と言った。
それはもはや説教でも理想論でもなく、一種の証言だ。

美輪明宏は、正義ではなかった。
✨ 正しい何か、では絶対にない。
しかし善き者では、あり続けた。

「正しい」と「善き」は、違う。
正しさは旗だ。
掲げ、裁くものだ。
善さは光だ。
在ることで、照らす。
美輪明宏は旗を掲げなかった。
ただ在り続けた。
その在り方が、結果として善だった。

🌟 あの金色は、趣味ではない。
俗世からの離脱を示す色だった。
腐敗と貧困の焼け跡から出発した人間が、現実の汚濁の中で、あえて非現実として立つための色だった。

🌹 10歳で被爆し、父の借金に追われ、放送禁止を半世紀近く耐え、三島由紀夫の死を見届け、それでも歌い続けた。
あの金色の衣装と白塗りの顔の下に、ずっとそういう人間がいた。

その「存在」は、理解されるためにあったのではない。
理解を拒みながら、それでも人間の側を変えてしまう種類の力だった。

言葉にできない。存在なのだから。ただ、そのことだけは、忘れないでいたい。



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