終点のヒマワリ 第五話
鈴木さんが語った奇妙な物語は、確かに印象深いものだったが、時間が経って、ある程度気持ちが落ち着けば、まだわたしの生活に具体的な支障をきたすものではなかった。確かに縁起でもない話だとは思ったが、わたしの意識の表層では、まだその儀式うんぬんの話し自体、信じるとか信じないとか、そういう次元にさえのぼってこないものだったのである。それこそグロテスクな話をまことしやかに語る患者さんは、ほかにもいくらでも居るのだから。
その意識が少しずつ変化してきたのは、鈴木さんの突然の訃報を聞いたときだった。夏休み明けにはもう会えないかもしれないと嘯き、「さよなら。先生」と、いつものイントネーションでそう告げたあの声が、もう一度脳裏によぎった。
「あの、死因は? なんといいますか、すごくお元気でしたよね?」
「心臓麻痺です。あとで詳しい検死結果もお渡しできるかと思いますが……ただ、その、かなり遺体の様子が奇妙で」
「奇妙?」
「頭髪がなぜか真っ白になっていたんですよ。まるでマリーアントワネットの逸話みたいですよねぇ」
「真っ白、ですか?」
「はい。それと先生が気に病まれてはいけないのでお伝えするようにと、遺言書がありました。自殺ではないです、と」
「え? 待ってください。遺言書があったんですか?」
「ええ? ああ、まぁ、そうですね。でもああいった患者が自分の遺言書を常に用意しているというのは、別段、珍しいことでもないのではないですか? もっとも、鈴木さんは私達から見ても妙に勘がいいところがありましたからねぇ。何かしら自分にしかわからない身体の変調などを感じたのかもしれませんが」
違う、と思った。鈴木さんはおそらく念の為、わたしに遺言を残したのだ。万が一にも儀式がホンモノだった時のために。
「遺言書というよりは、限りなくメモに近い手紙のようです。検閲済ですので、後ほどお渡しします。お手続きをいたしますね」
「ああ……ハイ」
そうして半ば上の空で受けとった手紙の中身を開けてみようと思ったのは、結局帰宅後の、家族の誰もが寝静まった深夜だった。
確かに封筒の中に入っていたのは、何の変哲もない二つ折りにされたメモ用紙一枚で、まるで初めて投票用紙を見たときのような、なんだか呆気ない心持ちがした。
メモ用紙には係員が言っていた通り、鈴木さんの死がわたしのカウンセリングを原因とした自殺ではないという旨と、他にもう一つ。
とある神社の住所が書いてあった。
「面接の時にお話ししていた神社です。気持ちの良いところなので、きっと先生もお気に召すでしょう。お暇な時にでも是非私の分まで参拝しに行って下さい」
白々しいまでに検閲を意識した文章に、ふ、とめまいを覚えた。彼は、やはり正常な精神を持った人間だったのではないだろうか?
だとすると、今更ながらに実感してしまったのだ。もしかして自分はいま、とんでもないことに巻き込まれてしまったのではないかと。そして、もしかしたらわたしも本当に次の誕生日には鈴木さんのように、謎の死を遂げるのではないかと。
一度鈴木さんの話をすべて整理することにした。自分がいま何をどのような手順で行うべきなのか。本当にこれはいったい何の嫌がらせかとも思ったが、きっと鈴木さんはわたしにこれで十分なヒントを与えたつもりなのだ。
わたしはカルテをパソコンに打ち込むために使っていたメモ用紙を並べ、時系列順にたどった。そして、自分のなかで確認したことを更にメモに箇条書きで記すことにした。
・鈴木さんは古い家系で、家長だけが受け継ぐ「物語」がある。
・それは最初の話しに出てくる「カマキリ」が「斉藤さん」のために作ったとされる。(なお、第一話ではそうだが、実際は伊藤家の姫君のため。)
・物語は四つあり、全て聞くことによって、確実に六十歳まで生きられるというご利益(?)をもつ儀式が完了する。(しかし、それはそもそもデチューンされたご利益。四つの物語もおそらく『聞き納め』という儀式によって封印された際に四つになっただけで、元は一つの物語である。)
・現在、物語の存在は家長にしか知らされず、それを聞くことで初めて「家長」として認められる。(おそらく鈴木さんの父親が一度目に泣いたというのは、まさにこの場面だろうと推察される。)
メモ用紙を見つめ、わたしは鈴木さんの言葉を脳内で反芻した。
長らく家長候補としての修行に耐え、六十一歳を迎えた後に、次の家長として認められるというのは、確かに「何かに許されたような、報われたような」そんな顔になって泣き崩れてしまうのも無理はあるまい。しかしそこで初めて、わたしはずっと感じていた違和感の正体にも気づいた。
計算が、合わないのだ。
一度目。父親が初めて泣いたという姿を目にしたとき、鈴木さんは自分が子供だったと言っていた。その時点で父親がもうすでに六十一歳だったとすると、それから五十年は経っている。『子供の頃』という言葉を受けて人がどれくらいの自分まで遡るのかはわからないが、常識の範囲内で思いつくのは、小学校に上がった前後の六歳から中学に上がる前までの十二歳ぐらいではないだろうか? 当時の彼が仮に六歳だったとしても、その父親は現在百歳を超えている計算となる。
にも関わらず、鈴木さんは最近にその父親が面会にやってきたと言っていたのだ。そして家長にしか使うことを許されない儀式を行われ、まさに儀式によって限定された、六十歳という年齢で突然他界した。
面会に来た『父親』とは、いったい誰なのか?
たらり、と米神を伝った汗が手元に落ちた。それは熱帯夜で滲んだ汗ではなく、冷や汗だった。
もう一度、鈴木家を洗い直す必要がある。いや、それよりも神社に行く方が先だろうか。夏休み後すぐの休暇申請だなんて知ったことか、である。溜まり溜まった有給休暇をこんな時に使わずしていつ使うのだ。
夏が終われば秋が来て、すぐに冬だ。時間は待ってはくれない。鈴木さんの冷たい声が、わたしの体にいまようやく届いた気がした。
くだんの神社は、都心を離れた緑の多い郊外にあった。平日の昼間であるせいか、ひとっこ一人居らず、参拝に来たのは、わたしだけのようだった。なかなかに古い社のようで、ここにくるまでに続いていた長い階段は、急であることに加え、かなり苔むしていた。しかし、圧巻だったのは鳥居を抜けた先にある庭である。参道と手水舎を避け、神社の敷地をぐるりと囲むかのごとくヒマワリが植えられていたのである。わたしの背丈か、それ以上の高さに育った向日葵が太陽の方角に顔を向けて、一斉に咲き誇っていた。
もし鈴木さんの話を聞いていなければ、普通に美しい光景ですんだのだが、白々しいまでに溌剌と咲いたヒマワリは、まるで犠牲となった斎藤さんたちの亡霊のようで、わたしの眼にはどこか薄気味悪く映ってしまう。
無事に参拝を終え、なるべく庭のヒマワリと目が合わないように首を巡らせた時だった。いつの間にそこにいたのか。ブリキ製のジョウロをもった神主風の青年が、こちらをじっと見ていることに気がついた。
てっきり誰も居ないと思っていた境内に唐突に現れた人間に思わず驚くと、あちらの方が先にニッコリと微笑み、会釈した。慌てて頭を下げ、やや小走りにそちらへと向かう。
「すみません。宮司さんでいらっしゃいますか?」
「いえ。この家の者ではありますが。大学が夏休みなので、こうして手伝いをしているのです」
青年は最初に遠目から見た、ひんやりとした印象とは打って変わって、案外物腰柔らかに、こちらがした質問以上の返事を丁寧に返してくれた。
「それはそれは。では失礼ですが、こちらの神社にはお詳しいのですか?」
「と、いいますと?」
「実は……」
わたしはそこで一瞬言い淀んだ。どこまで話したら良いのか、皆目検討がつかなかったのである。しかし青年はやはり聖職者の血を引いているからか、年齢のわりに穏やかな瞳でわたしを見つめ、
「なにか、お困りなのですね。すずなり様におすがりにいらしたのですか?」
と、尋ねた。
「すずなり様?」
「ええ。ここの神様ですよ。鈴が生ると書いて、鈴生様と言います。安産や長寿を司るとされています」
「……あの、もしかして、こちらは鈴木さんのご親戚ではありませんか?」
気のせいだろうか。鈴木という名を聞いた一瞬だけ、青年の顔色が変わった気がした。
「いいえ。うちは、苗字を伊藤と言いますが」
「ああ、そうですか。伊藤さん、ですか……」
伊藤、だと?
その名を聞いて、もしかしたらこちらも顔色が変わったのかもしれない。ぴりりとした空気が、一瞬互いの間を流れた。
しかし、わたしもここまでやってきて、手ぶらのまま帰るわけにもいかなかった。思い切って話せるところまで話してみよう。どうせ笑われても、もう二度と会うこともない人間だ。
そう思い、わたしは鈴木さんのことを自分の患者ではなく、あくまでも知人である体として、今までのことを掻い摘んで話した。もちろん念の為、四つの物語の内容までは伏せて、だ。
「それで、そのお知り合いの方が遺された手紙に、うちの住所が書いてあった、と?」
「はい。タチの悪い冗談かとも思ったのですが、どうしても気になってしまって……」
青年はしばらく黙り込んで、わたしをじっと見つめた。
「先生」
そのイントネーションというか声質のようなものが、鈴木さんのものによく似ていて、わたしは一瞬ハッとしてしまった。しかし、もちろん顔をあげても、そこに立つのは鈴木さんではなく、伊藤青年である。
「先生。大変申し訳ないのですが、これはここで今、私が判断してよい問題ではないようです」
「えっ」
「後日、追って連絡をいたします。必ず、ご連絡いたしますので、今の話しを誰にもしないでください。約束できますか?」
「……ということは、つまり、これは一体なんなんですか?」
これはやはり、ホンモノなのですか? という言葉を、わたしは言えず、咄嗟に中途半端な問いかけとなってしまった。
「どうかお気を確かに。その鈴木という先生の知人が語った話は、冗談なんかではない、ということです。先生のお命も危ないということなんですよ」
ただ話を聞いているだけだというのに、がんと頭を殴られたような衝撃が走った。半ばくらくらと目眩を起こしているわたしから連絡先を聞き出した伊藤青年は、念を押すように言い聞かせた。
「いいですか? 絶対に、その四つの話を他言してはいけませんよ。私共がなんとかいたしますから」
「はい……わかりました」
ふらふらと家に帰ってきてからも、わたしはしばらくほとんど放心状態であったが、その間にも脳みそは確かに働いていたようで、机の上で時系列順に並べられたメモ用紙の群を見た瞬間、我に返った。
調べなければならないことが、まだある。
掛け時計を見上げ、まだ施設の受付時間内であることを確認したわたしは、係員に電話をかけた。
「あの、お忙しいところすみません。ああ、はい。わたしです。先日はありがとうございました。ええ、はい。実はお尋ねしたいことがあるのですが……」
たまたま先日、鈴木さんの遺言書を手続きしてくれた係員が電話口で応対してくれ、思ったより話が早かった。必要な事柄をメモし、また次に施設に伺った際に必要な資料を見せてくれるとのことで、わたしは重ねて礼を言って電話を切った。
予想は半分当たり、というよりかは、もう何故そう自分が思ったのかすら根拠が見出せなかったのだが、より不気味な状況の一つを想像していたら、やはりそれが当たってしまった、という感じだった。鈴木さんに最後に面会にやってきた人物は、やはり鈴木さんの父親ではなかったのである。
ではなぜ、鈴木さんはその人物を自分の父親だと言ったのか?
最初、鈴木さんを担当するために渡された参考資料に、わたしはもう一度目を通していた。彼は十三歳の時、自分の母親と兄、弟、そして母の友人であったという『佐藤』という苗字の女性を殺している。それもちょうど兄の二十歳の誕生日会の日にだった。当時未成年だった鈴木さんが、何故自分の親族と、母親の友人を殺さなければならなかったのか。そしてなぜ、父親だけが生き残ったのか。
逮捕時、鈴木少年は終始わけのわからないことを言い、ひどく混乱した様子ではあったが、自身の犯行であることと殺害方法などは冷静に供述した。誕生日会に参加した親族の飲み物に除草剤を混入した彼は、その毒性によって苦しむ家族を念入りに刺殺している。証拠隠滅もせずに家族の遺体の真ん中で呆然と立っていた彼を、買い物から帰ってきた父親が発見、通報したというのが事件の顛末であったが、彼から肝心の犯行動機と思わしき発言が出たのは、一度きりだったという。
「だって、斉藤さんが可哀想だから」
結局、鈴木さんは精神鑑定と裁判の結果、心神喪失とみなされ医療観察となった。しかし以後、てんかんの発作と時折繰り返す自殺未遂と自傷行為により、社会復帰もかなわず、退院することもできずにずっとあの精神病院に入院していたのである。
しかし、鈴木さんはもしかしたら、本当は自身の一族にまつわる何か異様なものに勘づいていたのではないだろうか。そしてずっと自分なりに何かしらの調査を行い、結果、殺人を犯すこととなってしまったとしたら……。さらにファイルをめくり、ここでまたわたしの目は留まった。記録によると、鈴木さんの父親は、その事件の四年後、六十歳で他界している。
六十歳?
「そんなはずはない」
思わずつぶやいていたのは、父親の享年が今までの鈴木さんの話とまったくもって嚙み合わなかったからだ。次の家長は先代の家長から六十一歳になった時にあの不吉な物語を聞かせられるのではなかったのか。ではそもそも鈴木さんが一度目に『泣いた父親を見た』という記憶は一体いつの時点の話なのだろう? もっと言うなら、彼はいつ、二度目に泣いた父親を見たのだろう……?
やはり鈴木さんが精神に異常をきたしていて、別人を自分の父だと認識した、あるいは、わたしにまるっきり性質の悪い嘘を仕掛けたという可能性は捨てきれない。しかしあの尋常ではない伊藤青年の様子、そしてそれ以上に、記録に残されていた『本当に面会にやってきたという人物』に、わたしはうすら寒いものを感じていた。
何よりも鈴木さんはその人物の面会を経て、確かに言ったのである。
「長年の謎がとけた」と。
もしかしたら鈴木さんが独自に遺した調査資料のようなものが残っているかもしれない。明日施設に行けば、彼が書いていたという日記や、最後までもっていた所持品を確認することができる。
わたしはもはや確信していた。
鈴木さんはおそらく、わたしを選んだのだろう。なぜなのかは不明だが、わたしは確かに彼に選ばれてしまったのだ。この複雑な鈴木家の因習の謎の目撃者に。
明日(みょうにち)、施設を訪れて資料室を借りたわたしは、鈴木さんの日記を読むこととなった。
「先生も大変ですね。報告書を用意しなきゃならないだなんて。しかし、そんなもの見て、なにか助けになりますか?」
係員が『そんなもの』と言ったのは、おそらくこの日記が、通常の日記の体を成していなかったからだろう。しかし、それはわたしにとってはこの上もなく重要な資料と言ってよかった。
鈴木さんは日常的にも驚くほど正確な時間感覚をもっている人だったが、それはどうやら年を何年またがろうと、変わりなく発揮される能力だったようだ。
一ページを細かく分割されたノートには、違う年だが、同じ月日のその時に起こったことが克明に記されており、それははたから見れば、ハッタリか、または何かの冗談のように見えただろう。それが本当に起こったことであるかなどわかるはずがない。だから係員は『そんなもの』と評したのだ。わたしとて、何も知らないままこれを見れば、何かしら別の解釈をしていたかもしれない。
しかし、今は違う。
わたしは探した。どこかにあるはずなのだ。彼が最初に父親の泣く場面を目撃した日が。そして、その後、彼がどのような調査を行い、どのように、何を収穫したのか。アリのように小さな文字を追いかけ、時間も忘れてわたしはその日記を読み込んだ。
そして、ようやく、見つけたのである。するすると、迷路に張り巡らせた糸をたどるようにしてわたしは彼の調査を追った。そうして長い長い時間をかけて、彼が知り得た全てを理解した。
――数週間後。
わたしは伊藤青年の連絡により、とある場所に座していた。
昔ながらの木造建築で、ずいぶんと古い建物らしく、新しい玄関とは別に昔に使われていたと思われる門扉が隣に保存されてあった。ここはどうやら伊藤家の本家とのことで、招かれた時からにして、もうその異様さは際立っていた。
まず和装のお手伝いさんらしき女性がわたしを通した際に、誰一人としてすれ違わなかったのである。唯一の案内役の女性も「ご案内いたします」と言ったきり一言も口をきかず、わたしを部屋に通し終えると、さっさと居なくなってしまったのである。しんと静まり返っただだっ広い畳の部屋の片隅に、わたしはしばらく一人で取り残される形となった。
何分待ったのだろう。いや、何時間かもしれないし、もしかしたらほんの何秒ほどのあいだだったのかもしれない。それはともかく、突然に、しかしあまりにも静かにやって来た。
スラ、と目の前の襖が開き、奥の部屋から一人、何やら仰々しい文箱を持った神官姿の男が静々とこちらの部屋に入って来たかと思うと、わたしと向かい合うようにしてその場に座したのである。
男は顔に紙で作られたお面をつけていたので、正確な年齢を判じることはできなかったが、その足取りや体つき雰囲気から言って、まだ年若い青年のようだった。青年はわたしと自分とのあいだに文箱を置き、まるでそれは、何かしらの境界線のようでもあった。
「ようこそ、おいでになりました」
それは声ではなかった。懐から出された半紙が掲げられ、そこにそのように書かれてあったのである。まるでスケッチブックをペラペラとめくるかのように、半紙の声は続いた。
「鈴木の件は、あなたにご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。巻き込んでしまったあなた様を疑うこととなり、誠に恐縮ではございますが、くだんのあの話し、約束通り、誰にもお話しにはなってはおりますまいな?」
はい、とわたしは返そうとしたが、驚くべきことに声が全く出なかった。普通ならばここでパニックにでもなるところだが、わたしは妙に冷静なままだった。頷き、持って来ていたメモを神官の前に並べた。
それは、伊藤青年から持ってくるようにと言われていた、鈴木さんの話しをメモにとったものである。斉藤さんの話、高橋さんの話、田中さんの話、そして、奇妙な物語を代々の家長が継がなければならないという、鈴木さんの話だ。
神官は顔が見えない程度に紙のお面を持ち上げて、顎の下の隙間からそれらを一枚一枚丹念に読んでいたが、やがて全てを読み終えると、おや、というように小首を傾げたように見えた。
「本当に、これで鈴木から聞いた話しは全てですか?」
サラサラと新たに書かれたその文面を見て、わたしは頷いた。
そのとき、初めてその紙の面の下で、男が笑ったような気配がした。
「ははあ。なるほど。そうか。カマキリめ」
それは、間違いなく肉声であった。
ふふふ、と笑って、途端に格好を崩した男に、わたしの緊張は逆に頂点に達した。固唾を飲んで様子を見守っていると、男は文箱を開き、中の書簡を無造作に取り出すと、あっという間もなく懐から出したライターの火で、それを燃やしてしまったのである。
「ちょ、大丈夫なんですか? これ」
まるで金縛りがとけたように、わたしも声を取り戻していた。
「おや、先生。これが何かご存知なのですか?」
「いえ、正確にはわかりませんが。でも大体の予想はつけてきました。おそらくこれは、あの四つの話しの元になった物語、つまりオリジナルの伊藤家のお姫様の話でしょう?」
「ああ、素晴らしい。ご明察です。して、なぜそれを? 調べましたか?」
書簡は文箱の中でみるみると燃えかすになっていく。しかし文箱は何やら特殊な素材であるのか、ただただ灰皿のごとく炎を受け入れていた。真っ黒な炭の重なりのようになってしまった書簡の上に、男は自身が着けていた紙のお面もくべてしまった。
その下から現れた顔は、予想通りのものだった。あの神社にいた、伊藤青年である。
「にわかには信じがたいことですが、鈴木さんの日記に書かれてありました。その文箱のことも、そして、あなたのことも」
伊藤青年は、鈴木さんによく似たアルカイックスマイルを浮かべ、興味深いといった様子でわたしを見つめる。それは、だが、違うのだ。鈴木さんにこの青年が似ているのではない。この青年に鈴木さんの方が、似ているのである。
「あなたですよね? 鈴木さんのもとへ面会に行き、彼にこの物語を『使った』のは。記録を見せてもらいました。しかし、鈴木さんは、あなたのことを……」
そう。父親と、言った。
しばらくの沈黙のあと、伊藤青年は首を傾げて文箱に蓋をし、わたしに尋ねた。
「どちらがいいですか? このまま憶測は憶測のまま、胸に秘めて帰っていただくか、答え合わせをさせていただくか。どちらにせよ、私達の目的はこれで達成されましたし、あなたも無事にこの先の寿命を生きられますよ」
「答え合わせをちゃんとしてください。それにわたしの無事はまだ確証されていませんよね?」
「いや、あなたはほんとに大丈夫ですよ。なんせ、鈴木があなたに語った四つの物語、アレは全てあの子が新しくこさえた、儀式の物語とは全く関係がない与太話なんですからね」
「はっ?」
「でも、まぁ、全く関係がない物語というのは些か語弊がありますがね。巻き込んでしまったのは私達ですから、わかりました。先生が望まれるなら、順を追ってお話ししましょう」
そうして長い長い、鈴木さんが言うところの本当の意味での『家長の告白』が始まった。
「先生は、生まれ変わりというのを信じますか?」
格好の崩した伊藤青年と、文箱を挟んで向かい合いながら、わたしは自分の考えていた突拍子もない仮説が当たっていたということを察した。
「――むずかしい質問ですね。たとえその現象があったとしても、それを証明する科学的な術はとても少ないのだろう、ということはわかります。前世の記憶というのも、後からいくらでも調べれば摂取することができますからね。たとえ当人がその調査をした、という意識をもっていなくとも」
「ふふ。なかなか手厳しい、いや、とてもフラットな視点だ。そんな風な方だったから、鈴木もあなたを選んだのかもしれませんね」
「……つまり、あなたは鈴木さんのお父上の生まれ変わりだと、そうおっしゃりたいんですよね?」
「いかにも。私はあの子の父親。鈴木家先代の家長です」
正直、まだ信じられない気持ちでいっぱいだったが、現段階で分かっていることを並べてみるとやはりそう考えた方がしっくりくる。しかし、なぜそんな不可思議なことが起きているのかはさっぱりだった。
「少し確認したいことがあるのですが、よろしいですか?」
「どうぞ」
「鈴木さんはおそらくわたしが混乱しないように便宜上嘘をついて、六十一歳になった際に物語を引き継ぐと教えてくれましたが、本来鈴木家の家長が先代の家長へと物語を引き継ぐのは、家長候補が二十歳になってから、ということで合ってますか?」
「そうです」
やはりそうだ。だから鈴木さんは自身の兄が物語を引き継ぐ前に二十歳を迎えた誕生日会の日に、兄を殺害したのである。
「そしてこれは日記を見て分かったことですが、鈴木さんは、もとは伊藤家に生まれた子ですよね? つまり、あなたとは養子縁組をした義理の親子だ」
「そうです。あの子と初めて会ったのは、私が十九、鈴木が七歳のころでした。しかし鈴木家の家長候補として教育するために養子として引き取られるのはあの子だけではないんですよ。むしろ鈴木家としての私の血を継いでいるのは、あの子の弟だけで、あの子の兄は私が十八歳の時に養子に迎えた佐藤家の子です」
佐藤。それは鈴木さんの母親の友人で鈴木さんが誕生日会で殺害した被害者の一人でもある。ということはあの時殺された佐藤さんは、もしかしたら、息子の二十歳の祝いに来ていた、鈴木さんの兄の実の母親だったのかもしれない。
「そしてあなたは二十歳のころ、先々代の家長から物語を引き継いだ。その現場を当時子供だった鈴木さんが偶然、目撃した」
「はい」
ということはやはりそれが一度目の父親が泣いたという記憶だろう。つまり家長に選ばれた人間は、二十歳になった時、自動的に寿命を六十歳に限定されてしまうのだ。
「あなたがその時に泣いていたというのは、やはりそれを報されて、悲しかったからですか?」
「ああ、あの時は……」
伊藤青年は、ため息のような何かを悔やむような複雑な声をぽつりともらし、少しだけ過去を思い出すように遠い目をした。
「鈴木家の次の家長に選ばれたとき、私が不覚にも涙したのは、嬉しかったのです。あの時はまだ、このオリジナルの文書が鈴木の本家で管理されていると思っていたもので。やっとこの物語に触れて、やっと死んでいける。そう思ったんですよ」
「ということは、つまりあなたは、その頃からすでにこれを燃やそうと考えていたんですか?」
「はい。そうです。しかし、私の先代の家長が他界し、しばらくしたのち、伊藤家の者から便りが来たのです。それは鈴木家ではどうしても見つからなかったこの最初の物語が、伊藤家で保管されているという報せでした。手紙の筆跡をみて驚きましたよ。それは、まごうことなく私の父の字だったんですからね」
「ちょっ、ちょっと待ってください。つまり、鈴木家の家長が伊藤家に生まれ変わるという現象は、あなただけに限ったことじゃない、ということですか?」
「はは。先生。そんな怖い顔しないでくださいよ。でも、そうですね。そうです、としか言いようがない。鈴木家に一度家長候補に集められた男の子たちは、家長に選ばれなかった場合、必要ならば自分の家の名に名義を戻し、それぞれの跡継ぎを残すのですが、そのあぶれた子どもたちが生んだ子供に、私たち鈴木家の家長が生まれ変わるんですよ。そうして七歳になった時に生まれ代わりの子は答え合わせをさせられ、その後、さらに伊藤家に養子に出される。幼少期は普通に教育を受けて暮らしますが、二十歳を迎えると生き神様としてあの神社に勤め、初代伊藤の代わりをさせられるんです。それにしてもあのカマキリの執着たるや凄まじいものがある。神様にまでなっちまって」
「その、答え合わせとは何ですか?」
「生まれ変わりの証拠として、生前聞いた家長口伝の物語をもう一度誰かに語るんですよ。この場合の誰かというのが佐藤家の嫁あるいはその娘……いえ、斎藤の一族の誰か、と言った方が早いですかね」
「斎藤の一族」
鈴木さんの犯行動機がやっとわかった。鈴木さんは、これ以上斎藤家の人が犠牲にならないように、このおぞましい因習の血を絶やそうとしたのだ。しかし、分からないのは、なぜ鈴木少年がそれを知り得たのか、ということだった。
「まさか……」
「ふふ。そうです。この物語を受け継ぐ限り、この地獄みたいな仕組みは変わらんのです。私もいつかは伊藤家に生まれ変わると知った時は思わずまた泣いてしまいましたよ。だって、やり切れませんよねぇ。鈴木の次は伊藤かよ、と、そうなります。それをあの子に見られましてね。お父さんどうしたのと言うもんですから、思いついたんですよ。そもそもこの跡取りの種をすべてなくせば、この地獄も終わるのではないだろうか? ってね」
「御三家の血を終わらせるために、あなたは当時子供だった鈴木さんを利用したんですか?」
「終わりじゃありませんよ。不自然なものを自然な形に戻すだけ。普通の伊藤さんだか、鈴木さんだかになるだけですよ。考えてもごらんなさい。こんな一族、明らかに異常じゃないですか? 人の寿命を左右するものを持っている限り、私達は善意を常に試されるような、そんな傲慢なお立場に勝手になるわけですから。そんなのはもう、終わりにするんですよ」
伊藤青年はそう言ったが、その文書を焼くためだけに、あまりにも血が流れすぎていた。それになによりも、鈴木さんがどこまでも救われないではないか。
「それだけじゃない。あなた方はわたしのことも利用しましたよね? 聞き納めの儀式をする、代わりの佐藤さん……いえ、きっとその方の旧姓も斎藤なんでしょうがね」
「ああ、聞き納めの儀式についても、ご存知だったんですね。その通りです。儀式をするにはオリジナルのこの文書が必要なのです。でもご安心ください。鈴木は実際にはあなたに何も語っていないのとおなじだし、儀式は行いませんよ」
つまり、逆を言えば、わたしが鈴木さんから聞いていた物語がもしもホンモノだった場合、ここで『聞き納めの儀式』が行われていたということだ。
「我々はべつに誰かを儀式の犠牲にしようとしたわけではありません。目的はあくまでもこのオリジナルをこの世から抹消させることです。必要だったのは、外部に物語が漏れたらしいという情報と、有事の際に儀式に使われる候補だった佐藤がすでに鈴木によって殺害されているということ、そしてどうやらその物語を知ってしまった部外者がちょうど斎藤という人物だ、という符号でした。伊藤の本家を動かし、私がこうしてこの文書を密室で手にするには、それしか方法がなかったんです」
それでも十分、こいつらは狂っていると思った。鈴木さんは、こんな奴らのために利用され、自分の人生を生きられなかったのだ。どうやらわたしは無意識に、伊藤青年のことを睨みつけていたらしい。
「ああ、先生。誤解しないでください。あの子は私の代わりに物理的に血を絶やし、私はあの子の代わりに諸悪の根源を燃やした。これは協定だ。親子の役割分担ってやつですよ。あの子はむしろ私が目的を果たせたことを喜んでいると思いますよ。あなたが自分の物差しで憐れむようなことはない」
それでもわたしが無言でいると、伊藤青年は頬杖をついて、笑った。
「ねぇ、先生。それにしても『終点のカマキリ』で、なぜ鈴木は主人公の名前を伊藤にしなかったんでしょうね?」
「えっ?」
「確かに、かつて『聞き納めの儀式』によって一つの物語が四つに分けられました。一つ一つの物語のなかの主人公の苗字は、いわば封印のかんぬきのような役割を担います。使う人間がふだん多ければ多いほど言葉の持つ力が大きくなりますから、わざわざ日本によくあるとされる苗字が主人公の名前に選ばれたのです。ですが鈴木があなたに語って聞かせた、その与太話。この際主人公の名前なんぞどうでもよかったと思うんですがねぇ。あえて何故、伊藤ではなく斎藤にしたのかしらと思いまして」
お暇な時にでもどうかよーく、考えてやってみてください。ね。斎藤先生。
伊藤青年は、最後にそう言った。
翌日、私はもう一度あの神社へ行っていた。もしかしたら、あるのではないかと思ったのだ。その敷地のどこかに、聞き納めの儀式で身代わりにされ、あの物語の収集や検証の際に犠牲になった、斉藤さんの一族を慰めるための痕跡が。もしもそれがあるのなら、今一度手を合わせておきたいと思ったのである。
しかし結論から言えば、神社に斉藤さん一族を慰めるような痕跡は一切なかった。
しかしその代わりのように、わたしを待つ人がいた。
「ここでお待ちしていれば、またお会いできると思っていました」
鳥居をくぐったわたしを見るや否や、賽銭箱の前に立っていた彼女が振り返り、そう言った。和装ではなく洋服だったため最初は誰かわからなかったが、彼女が私に尋ねて来た声で、あの時のお手伝いさんだということに気がついた。
「あの方はどこにいらっしゃるんですか? ご無事でいらっしゃるのでしょうか?」
あの方。それは、間違いなくカマキリの怪談の原文を燃やしてしまった、あの伊藤青年のことを指しているのだろう。
「残念ながらわたしは彼の行方を知りません。あなたこそ、なぜ私を待っていらっしゃったのですか?」
わたしが行方を知らないということに落胆を隠せなかったのだろう。彼女は呆然とした表情でわたしを虚ろに見つめ、石のようにじっとしていたが、やがてか細い声で囁いた。
「私の姓は、斉藤といいます。なのであの聞き納めの儀式、本来なら、姉が他界した時点で私がするはずでした。でもあの方が……」
「もしかして、あの日は、自分がなんとかするから、今から来る訪問者を案内するようにと、伊藤さんから言われたのですか?」
「……そうです」
「それで私が、来たんですね?」
「ええ。だから、私はあの方の言う通り、あなたをご案内したのです。あの方があなたのことを先生と呼んでいたので、てっきりあなたとあの方は、何か、あの呪いをなんとかできるすべを持っていらっしゃるんだと……」
あるいは、聞き納めの身代わりだと思っていた? とはさすがに訊けなかった。おそらくそちらの認識の方が正しいのだろうが、すぎたことである。この際どちらでもよかった。
重要なことは、伊藤青年はあの怪談を燃やしてから自身の消息を完全に絶ったのだ、ということだ。
「あなたのお姉さんは、佐藤家にお嫁入りしたのですね?」
「そうです。そういう決まりですので」
「それで、鈴木さんに殺された」
「今でも信じられません。あんなに頭のよい鈴木さんのご子息があんな大それたことを……」
「……いや、あなたは、薄々勘付いていらっしゃったのではないですか?」
はっとしたように、彼女はわたしを見た。
「生まれ変わりというのをわたしはまだ完全に信じたわけではないのですが、どうも、もしかしたらあるのかもしれない……と、今回の件でそう思いましたよ」
びくり、と女性の肩が震える。
「そう。これは本当に、もしかして、なのですが。あなたもまた、生まれ変わりなのではないですか? 斎藤さん。いや、向日葵さんとお呼びした方がよいのでしょうか?」
「なにを馬鹿なことを」
「そして伊藤さんは鈴木の家長の生まれ変わりである前に、あなたの息子さん……つまり鈴木家の始祖であるカマキリの生まれ変わりなのではないですか?」
しばらく、耳が痛くなるような沈黙が落ちた。女性の背景に咲き誇るヒマワリ達だけが、まっすぐに、いっそ冷徹に顔を上げ、女性の丸くなったか細い背中を痛いほどに見つめているかのように見えた。
「斉藤家は」
肯定も否定もせず、やがて彼女は、掠れ声でそっとつぶやいた。
「元々は、誰にも雇われない元罪人や、孤児や、色々な事情を抱えて故郷を追われてきた者たちばかりを佐藤様が集めて、拾ってくださり、名前を与えてくださった。そういう者たちなのです」
「聞いています。しかし、だからって、現代のあなた方が未だにその忠義を尽くすいわれはないでしょう?」
「あなたは、わかっておられない。有事が起きさえしなければ、私達は幸せな一生を保証されるのですよ。鈴木家、伊藤家、佐藤家。この三つの一族にすがっていさえすれば、ずっと生き延びることができる。……そういう、一族なんですよ。ずっと、ずっと、昔からね」
「……でも伊藤さんは、それでも一族としての幸せではなく、あなた個人の幸せを考えた。それこそ、今度こそは、あなたには犠牲になってほしくなかったんじゃないんですか?」
ふ、と女性の口角が上がり、ため息のような悲鳴のような哄笑が、その唇からあふれた。
「ふふふふふふ、あはははっ! 私の幸せですって? とんだお門違いだわよ。先生! これはねぇ、あの子の復讐なのよ。私一人置いて逃げたのが何よりの証拠じゃないか。もしも……私の幸せを考えてくれたのなら、誰も殺してほしくなかった。……そうよ。そもそもあの子を私がカマキリなんかに仕立てあげるんじゃあ、なかった」
ぺたんとその場に膝をつき、顔を両手で覆って、彼女はぶつぶつと呪詛のようにそう繰り返した。
――復讐? カマキリに、仕立てあげるんじゃなかった、だと?
「斉藤さん、それはどういう……」
「私が向日葵だったころ、生活が苦しくなった私は、あの子に言い含めて、佐藤を騙したんですよ。あの子がカマキリの生まれ変わりだなんて、最初は真っ赤な嘘だった。そう。嘘だったのよ。最初はたしかに、嘘だったのに。……先生、気をつけなさい。あのカマキリはね、生まれ変わるわけじゃないんだよ。魂を取り憑かせて、器を乗っ取るんですよ」
斉藤さんは覆った顔から血走った目だけをのぞかせて吐き捨てるかのようにそう言うと、一切喋らなくなった。
あれから、伊藤家と鈴木家がどうなったかは知らない。しかし、わたしは無事に還暦を迎え、もう一度夏を迎えることができた。
今でも、謎のいくつかは残っていた。
例えばあの御三家と斉藤さんとの因縁について、伊藤青年は主に向日葵さんから聞いていたのだということは分かるが、それにしても鈴木さんが昔の村時代の事情に詳しすぎていたような気がするのである。
そして斎藤さんと伊藤青年がそれぞれにわたしに言った、あの意味深な言葉たち。
鈴木さんがわたしに本当の怪談話を語らなかったのかというのも謎だった。別段、わざわざ自分で物語を作らずとも、わたしを聞き納めの犠牲にしたとしても、特に彼らにデメリットはないように思えたのである。一番考えられるのは、万が一わたしが物語を周囲に拡散させても良いようにという保険だが……。
乗っている電車の扉が閉まる音が聞こえた。
ぼんやりと耽っていた思考がわずかに乱され、顔を上げた瞬間、隣に立派な白髪の、身なりのよろしい老紳士が座り込んだ。どうせ終点を目指すのだからとタカを括って考え事をしていたので、気が付かなかったが、どうやらもうこの車両にはわたしと老紳士以外に、誰も乗っていないようだった。
はて。席はよりどりみどりだと言うのに。
気を使ってわたしから広くスペースを空けようかと身じろぎした瞬間、老紳士が少しだけ首を傾げて、わたしの耳元でささやいた。
「抜け道を教えておいてあげたはずですよ。あたしの作ったとっておきの怪談話、言うとおりに誰かに広めてしまえばよかったものを。なにを呑気にお過ごしだったんですか。先生」
驚いて彼を見ると、白髪の老紳士は意地悪そうに笑った。そして、まるで決められたセリフを述べるかのように、わたしを揶揄したのである。
「無駄ですぜ。いつまで待ってもその扉は開きはしやせん。あんたが昔のことすっかり忘れちまってて、あたしは悲しかったんですよう。離れてる間に、たんまり話したいことが積もってんです。なぁに。ほんの千年ばかりでさぁ。お付き合いくださいね。ね、先生」
この電車が向かう終点には、美しい谷があり、今の季節には谷の下からそれはそれは見事なヒマワリ畑が見渡せるという。
もし辿り着けるならば、だが。
『終点のヒマワリ』完。
#創作大賞2024
#ホラー小説部門
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます🌸