マレーシアAIガバナンス法案 / ASEAN域内の相互運用性 雑感
Ⅰ マレーシアにおける法制化の現在地
東南アジアが人工知能をめぐる規制形成において、傍観者の立場から自ら規律を設計する段階へと移行しつつある。マレーシアで起草中の法案は人工知能のライフサイクル全体を対象とし、倫理や説明責任を重視する枠組みになる見通しを示した。同氏は、域内で事業を展開する主体に対し、各国で分岐する規制に先回りして適応できているか、システムの開発や学習の越境的な配置を把握できているかという実務的な問いを提起している。
この問題意識を同国の国会答弁や既存の政策文書に照らして検証すると、法案は起草段階にあり制度設計の方向を固める局面にあること、そしてリスクの分類や事故の把握、責任の追跡、知的財産、深層偽造への対処が中核論点として前面に出ていることが確認できる。二〇二五年時点では人工知能を直接規律する網羅的な制定法は存在せず、任意の指針を中心に制度を構築してきた経緯があるなかで、どのような法制化が進められているのか検討する。
1 起草の状況と対象範囲
一次情報として押さえるべき事実関係を整理する。法案はデジタル省の下で早期の起草段階にあり、利害関係者との追加協議や国会での特別委員会による審査を予定している旨をAnwar Ibrahim首相が説明している〔注1〕。法案の対象はシステムのライフサイクル全体であり、開発やモデル学習から導入、監視に至る全工程を規律する枠組みとなる。
他方で、Gobind Singh Deoデジタル相が法案起草はほぼ完了したと述べ、二〇二六年六月に立法枠組みを内閣に提出する構想を示していたとの報道も存在する〔注2〕。早期段階とほぼ完了という表現が並立しているのは、実務上の起草は進んでいるものの外部の審査を控えていることや、データセンターの資源管理や知的財産等の争点拡張により再設計が行われている可能性を示唆する。確実に言えるのは、条文が最終化される前にあり、方向付けがなお可変であるという事実である。
2 予告されている規律の要素
条文として確定していないことを前提に、政府答弁等で反復される要素を分解する。
開発者と導入者の双方を巻き込み、ライフサイクル全体で責任を明確化する方針が示されている。これに連動してリスク分類の枠組みを組み込み、被害報告と合わせて体系的に対処できるようにするとされる〔注3〕。
Wilson Ugak Kumbong副大臣は、開発者や導入者に法定の注意義務を課し、危害の防止とリスク管理を目的とすると説明したうえで、所有や運用の連鎖を通じて責任追跡できるよう透明な配置を重視すると述べている〔注4〕。これは事故時の帰責を、単なる禁止行為の違反としてではなく、供給網全体の問題として扱う発想と読める。
インシデント報告の仕組みを導入し、深層偽造等の脅威パターンを把握して迅速な緩和策を可能にする方針も示されている〔注2〕。著作権侵害の懸念に対しては、既存の著作権法制と知的財産公社による執行を前提としつつ、リスク評価等を通じて追加的な統治の階層を被せる方向性が示唆されている〔注5〕。
さらに、計算資源の制約が法案と交差している。データセンターによる電力や水資源の消費が国会で取り上げられ、人工知能に関連しないデータセンター投資を約二年にわたり抑制してきた経緯も説明されている〔注3〕。
Ⅱ 制度の階層化と域内の協調
1 任意の指針と統括組織による先行
法律の制定に先行して、指針と統括組織による下地作りが進められてきた。科学技術イノベーション省が公表したガイドラインは、公平性や透明性などの原則を掲げ、法制化が進むまでの任意の指針として位置づけられている〔注6〕。
統括組織としては、二〇二四年に発足したNational AI Officeが国家戦略の策定や標準化を担う〔注7〕。法案は同機関を通じて開発されると整理されている。指針で理念を先行させ、統括機関が調整を担い、法案で義務と執行を導入するという段階的な設計が観察できる。
2 比較法的な視座と相互運用性
マレーシアの議論でリスク分類やインシデント報告が繰り返されるのは、段階的な適用が進む欧州連合の規則が参照点になっていることと整合する〔注8〕。
一方で、域内の協調という観点では、東南アジア諸国連合が公表したガイドが司法管轄をまたぐ制度の相互運用性を促すことを目的に据えている〔注9〕。同ガイドは透明性や公平性といった原則を示し、リスク評価に基づく人間の関与を含めて運用管理を捉えている。
東南アジアの規制は任意の指針を軸にしつつ、欧州連合がとるリスクに基づく発想を取り込みながら各国の事情に合わせて調整されてきた経緯がある〔注10〕。米国のように連邦と州レベルで規制が分断されている状況とは異なり〔注11〕、東南アジア域内では共通の原則を意識した制度形成が図られているといえる。
Ⅲ むすびにかえて
法案が未確定である現段階において企業が対応すべきは、法案が要求する管理能力をあらかじめ組織内に構築することである。
法定の注意義務や責任追跡が導入される以上、委託開発や外部機能の利用が混在する環境で、リスク評価や監査の体制をどこに置くかを整備しなければならない。契約で区切るだけでは不足する。用途別のリスク判断基準や外部通報の受付、当局への報告手順を実働可能な状態にしておくことが合理的である。学習データの由来の台帳化や、データセンターの資源消費をめぐるインフラ政策への対応も不可避の論点となる。
東南アジア全域で事業を展開する主体は、規制の分岐への適応を迫られている。各国のガイドが相互運用性を明示するなかで、国ごとに全く異なる運用設計を採用することは費用の増大を招く。
筆者は、原則やリスク評価、インシデント対応といった共通の基盤を構築し、そこに各国の要件を差分として付加する構造が実務上持続しやすいと考える。制度側が用いる相互運用性や責任の連鎖といった言葉は、まさにそのような共通基盤の構築を要請していると読める。各国の法制が確定するのを待つのではなく、現在進行形の議論から要求水準を抽出し、組織の能力として実装を進めることが求められている。
(参考)東南アジアのAIガバナンス動向
〔注1〕 Malay Mail「Malaysia's AI governance Bill still taking shape, Anwar says law to cover full lifecycle including data centres」(https://www.malaymail.com/news/malaysia/2026/02/24/malaysias-ai-governance-bill-still-taking-shape-anwar-says-law-to-cover-full-lifecycle-including-data-centres/210222, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注2〕 BERNAMA「Digital Ministry Drafting AI Governance Bill To Combat Deepfakes - Gobind Singh」(https://www.bernama.com/en/news.php?id=2521904, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注3〕 BERNAMA「Non-AI Data Centres Restricted, Power And Water Supply Sufficient - PM Anwar」(https://www.bernama.com/en/news.php/sports/politics/news.php?id=2526940, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注4〕 BERNAMA「AI Governance Bill To Introduce Statutory Duty Of Care For Implementing Parties - Wilson」(https://www.bernama.com/en/general/news.php?id=2514605, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注5〕 The Edge Malaysia「Malaysia to introduce comprehensive legal framework for AI」(https://theedgemalaysia.com/node/792778, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注6〕 MOSTI「National Guidelines on AI Governance & Ethics (AIGE)」(https://rmic.upsi.edu.my/wp-content/uploads/2025/03/NATIONAL-GUIDELINES-OF-AIGE.pdf, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注7〕 MyDIGITAL Corporation「The National AI Office (NAIO)」(https://www.mydigital.gov.my/initiatives/the-national-ai-office-naio/, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注8〕 European Commission「Regulatory framework on AI」(https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/policies/regulatory-framework-ai, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注9〕 ASEAN「ASEAN Guide on AI Governance and Ethics」(https://asean.org/wp-content/uploads/2024/02/ASEAN-Guide-on-AI-Governance-and-Ethics_beautified_201223_v2.pdf, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注10〕 Kristina Fong「What is Shaping Artificial Intelligence (AI) Governance Policies in Southeast Asia?」ISEAS Perspective 2026/13(ISEAS – Yusof Ishak Institute, 2026年)(https://www.iseas.edu.sg/wp-content/uploads/2026/01/ISEAS-Perspective_2026_13.pdf, 最終閲覧日2026年2月25日)。
〔注11〕 The White House「Eliminating State-Law Obstruction of National Artificial Intelligence Policy」(https://www.whitehouse.gov/presidential-actions/2025/12/eliminating-state-law-obstruction-of-national-artificial-intelligence-policy/, 最終閲覧日2026年2月25日)。
(マガジン)「AIと法雑感」
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