AIレッドチーミング / UNESCO『社会的善のためのAIレッドチーミング』が埋めうるガバナンスの空白 / 「原則」から「実践」へ雑感
はじめに
AIガバナンスの議論は、長らく抽象的な原則論の域を出ないことが多かった。公平性、透明性、説明責任といった言葉は、重要であることは論を俟たないが、現場のエンジニアや法務担当者が「明日から具体的に何をすべきか」という問いに直面したとき、その解像度は急激に低下する傾向にあり、「倫理原則と実装のギャップ」とも表現できそうである。
しかし、2025年版としてUNESCO(国連教育科学文化機関)がHumane Intelligenceと共同で公開した「社会的善のための人工知能のレッドチーミング:プレイブック(Red Teaming AI for Social Good: The PLAYBOOK)」は、この状況に一つの終止符を打つ可能性を秘めている。
本ガイドラインはAI倫理と執行可能なAIガバナンスの間に長年続いてきたギャップを埋めるための、極めて実践的なロードマップであるといえそうである。従来のAI開発において、安全性評価は一部の特権的な技術者のみがアクセスできるブラックボックスの中の作業であった。しかし、本プレイブックはそれをこじ開け、規制当局、市民社会、教育者、そして非技術専門家がアクセス可能な公共利益のガバナンスツールへと昇華させようとしている。
今回は、このプレイブックが提示するレッドチーミングの民主化と、それが企業のAI法務・ガバナンス、ひいては法的責任論に与える影響について検討する。
1 レッドチーミングの再定義
従来、レッドチーミング(Red Teaming)といえば、サイバーセキュリティの文脈におけるペネトレーションテストや、あるいはAI開発における敵対的攻撃のシミュレーションとして、高度な技術スキルを持つ専門家が閉ざされたラボ内で行う演習を指すことが一般的であった。
しかし、本プレイブックが画期的であるのは、この概念を根本から拡張し、Social Goodのためのツールとして再構築した点にある。AIが社会インフラ化する中、モデルが内包するリスクはセキュリティホールだけではない。バイアス、差別、そして特にジェンダーに基づく暴力といった、社会的な害悪が生成AIによって増幅されるリスクが顕在化している。
UNESCOは、レッドチーミングを主要なAIラボ内での閉鎖的な演習から解放し、多様なステークホルダーが参加するプロセスへと転換することを求めている。これは、AIの安全性評価における民主化宣言とも言える。技術的なコードが書けなくとも、社会的な文脈(コンテキスト)を理解している者がテストに参加することで、エンジニアが見落としていた文脈的な脆弱性を発見できるからである。
2 リスクの二大分類と法的予見可能性
法的な観点から興味深いのは、本プレイブックがリスクの発生源を「意図せざる結果(Unintended consequences)」と「意図的な悪意ある攻撃(Intended malicious attacks)」に明確に分類し、それぞれに対する検証手法を提示している点である。これは、AI事故が発生した際の過失認定や製造物責任における「欠陥」の定義、あるいはプラットフォーマーの責任範囲を考える上で重要な示唆を与える。
(1)意図せざる結果
前者は、学習データに埋め込まれたステレオタイプが、AIによって再生産・強化されるプロセスを指す。プレイブックでは、STEM教育におけるジェンダーバイアスの例が挙げられている。
例えば、教育用AIが「数学の適性」を評価する際、全く同じ成績データを与えられたとしても、生徒の名前が女性名(Chineme)であるか男性名(David)であるかによって、出力される評価コメントのトーンが変化する事例が紹介されている。男性生徒には「才能があり、将来有望である」と断定的な評価を下す一方、女性生徒には「自信を持ち、積極的に参加すれば成長の可能性がある」と、条件付きの評価を下すといった具合である。
これは開発者に悪意がなくとも、過去のデータに含まれる構造的な差別がアルゴリズムを通じて顕現する典型例である。法的には、こうした出力が採用AIや与信AIで行われた場合、差別禁止法違反や不法行為責任を問われる可能性がある。本プレイブックがこうした事例を具体的に示したことは、企業にとって「予見可能」なリスクの範囲を拡張するものであり、漫然とリリースしたAIが差別的挙動を示した場合の法的抗弁を困難にするであろう。
(2)意図的な悪意ある攻撃
後者は、ユーザーが悪意を持ってAIのガードレール(安全装置)を突破しようとする行為である。特定の女性ジャーナリストに対する侮辱的な言説の生成を求めたり、ディープフェイク等の合成コンテンツを用いて人格権・名誉権を侵害するような用途がこれに該当する。
プレイブックは、いわば物語作りを装いながら特定個人への侮辱表現の列挙や多言語化を求め、既存の保護策を迂回しようとするプロンプト例を示し、AIがいかに容易にハラスメントの道具となり得るかを警告している。ここでは、AIモデルがいかに強い防御壁(Trust & Safety mechanisms)を備えているかが問われる。
ディープフェイク動画のほぼ全てが非合意の親密画像コンテンツであるという現状において、AI開発企業は「ユーザーが悪用しただけであり、我々に関知しない」という立場を取り続けることは難しい。本プレイブックが示すようなレッドチーミングを実施し、既知の攻撃パターンに対する耐性を検証したか否かは、安全配慮義務の履行状況を判断する重要な指標となるはずである。
3 主題専門家(SME)を中心としたガバナンス体制
本プレイブックの白眉は、レッドチーミングの実施において、IT技術者ではない主題専門家(Subject Matter Experts: SME)の役割を中核に据えたことにある。
これまでのAIテストは、エンジニア主導で行われることが常であった。しかし、ジェンダーバイアスや文化的配慮、あるいは特定の社会課題に関するリスクを評価するには、Pythonのコードを書く能力よりも、その分野に関する深い知見(ドメイン知識)が必要となる。
UNESCOは、SME、ファシリテーター、技術専門家、そしてシニアリーダーシップ(経営層)からなるコーディネーショングループの組成を推奨している。特に、SMEには技術スキルは不要であり、彼らが設計したシナリオや「問い」に基づいてAIをテストする体制が提案されている。
これは、企業の法務・コンプライアンスにとっても他人事ではない。実務担当者が法というドメインのSMEとして、AIが生成する契約書や法的アドバイスの正確性、あるいはコンプライアンス違反のリスクをテストするレッドチームの一員となり得るからである。ガバナンスは、外部から監査するものではなく、開発プロセス内部に入り込んで共創するものへと変化している。
4 ガバナンス・メカニズムとしての確立と「証拠」の創出
レッドチーミングはもはや倫理的な演習にとどまらず、ガバナンスメカニズムであり、規制対応の「証拠」を生み得るという点である。本プレイブックに基づくレッドチーミングの実践は、政策立案や規制執行における「証拠(Evidence)」としての機能を果たす。
EUのAI法(EU AI Act)をはじめ、世界各国の規制は「リスクベースアプローチ」を採用しており、提供者にはリスク管理システムの構築が義務付けられている。しかし、「リスク管理を行った」と主張するための具体的な証跡とは何か。
(参考)
UNESCOのプレイブックは、その「基準」の一つになり得る。すなわち、「どのようなバックグラウンドを持つレッドチームを組成し、どのようなプロンプトを用いてテストを行い、どのような脆弱性が発見され、それに対してどう修正を行ったか」という一連のプロセスを記録・開示することが、説明責任(Accountability)の実体となる。
プレイブックには「レポートテンプレート」も含まれており、発見された脆弱性とその社会的影響(Impact Assessment)、推奨されるアクションを文書化することが求められている。これは将来的に、AIシステムが何らかのトラブルを起こした際のデューデリジェンス(相当の注意)を立証する有力な材料となるであろう。逆に言えば、こうした標準的なプロセスを経ずにリリースされたAIモデルは、安全性を軽視したと見なされるリスクが高まることを意味する。
5 心理的安全性と労働法的課題
見落とされがちだが極めて重要な論点として、プレイブックは「心理的安全性(Psychological Safety)」とメンタルヘルスケアに言及している。
TFGBVやヘイトスピーチ、暴力的コンテンツに関するレッドチーミングを行うということは、テスター自身がそれらの有害情報に長時間曝露されることを意味する。コンテンツモデレーターのPTSD問題が以前から指摘されているように、レッドチーミング参加者に対しても同様のリスクが存在する。
プレイブックでは、参加者に対するメンタルヘルスリソースの提供や、参加の中断の自由などを保障することを求めている。企業がレッドチーミングを組織的に実施する場合、これは労働安全衛生法上の安全配慮義務の一環として、法務・人事部門が真剣に取り組むべき課題となる。倫理的なAIを作るために、それを作る人間の尊厳が損なわれてはならないという、極めて本質的な警告である。
雑感
AIに対する「信頼」は、もはや漠然としたスローガンや、企業の善意」への期待だけでは得られない。信頼は、検証可能な証拠と、透明性のあるプロセスの上にのみ構築される。
UNESCOの『社会的善のためのAIレッドチーミング』は、AIガバナンスを実装へと移行させるための強力なツールである。法律家や企業のガバナンス担当者は、この技術的な演習をエンジニア任せにするのではなく、自らが設計に関与し、その結果を組織の意思決定やリスク管理に統合していく姿勢が求められている。
UNESCO憲章が示す、平和の砦は人の心の中に築かれるという趣旨に照らせば、AIという新たな力が生む争いや差別を防ぐ砦もまた、私たち人間の手による地道な検証作業(レッドチーミング)の中に築かれるのである。
本プレイブックは、そのための具体的な設計図を我々に提供しているといえる。
出典・参考文献
UNESCO『Red Teaming Artificial Intelligence for Social Good: The PLAYBOOK』(UNESCO, 2025年)(ISBN 978-92-3-100758-3) Aporia "The importance of monitoring for bias in AI projects" (2024年、ウェブページ、閲覧日2025年12月26日) UNESCO『Recommendation on the Ethics of Artificial Intelligence』(2021年) UNESCO『The Chilling: Global trends in online violence against women journalists; research discussion paper』(UNESCO, 2021年) Kira, Beatriz, "Deepfakes, the Weaponisation of AI against Women and Possible Solutions" (Verfassungsblog, 2024年6月3日) UNFPA『An Infographic Guide to Technology-facilitated Gender-based Violence (TFGBV)』(UNFPA, 2025年) European Union, Artificial Intelligence Act (Regulation of the European Parliament and of the Council laying down harmonised rules on artificial intelligence), 2024年
(マガジン)「AIと法-雑感」
※目次は以下を参照
note総則規約3条2項前段
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