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欧州AI法「デジタル・オムニバス」を読む / 適用延期と実務的修正 雑感



Ⅰ 欧州AI法の施行見直しと複雑性の受容

 2026年3月19日、欧州議会は「デジタル・オムニバス・オン・AI」と題する欧州AI法の改正案に関する報告書(A10-0073/2026)を公表した〔注1〕。内部市場・消費者保護委員会および市民的自由・司法・内務委員会の合同委員会が起草し、共同報告者はArba KokalariおよびMichael McNamaraである。3月26日の欧州議会全体会議での審議を経て理事会との交渉が開始される見通しとなっている。

 世界に先駆けてAI規制の包括的枠組みを打ち立てたEUが、本格的な施行を前に軌道修正を迫られている。この改正プロセスには、理念的に構築された規制枠組みが現実の産業構造・技術発展と直面したときに生じる摩擦が、率直なかたちで表れている。報告書の説明文(Explanatory Statement)は認める。コンプライアンスを支援するための整合規格、共通仕様、ガバナンス枠組みの策定が軒並み遅延しており、国内所管当局の設置も遅れた〔注2〕。企業が法令遵守の具体的手順を知る術がない状況が続いてきた、という事実は重い。

1 高リスクAI要件の適用開始時期の延期

 本改正案の最大の論点は、高リスクAIシステムに関する要件の適用開始時期の大幅な延期である。当初は2026年8月2日からの適用が予定されていたが、整合規格や共通仕様の策定が遅延したことで、予定通りの施行は市場に深刻な混乱をもたらすリスクが現実化していた。

 欧州委員会の提案では、適用時期を標準化作業の進捗に連動させる柔軟な仕組みが検討されていた。欧州議会はこれを退け、確定した期日を明記する修正を採用した。第6条第2項および附属書Ⅲに該当する高リスクAIシステムについては2027年12月2日へ、第6条第1項および附属書Ⅰに該当するシステムについては2028年8月2日への延期が示された〔注2〕。

 法的予見可能性の観点から言えば、委員会決定に連動した可変的なスケジュールは、企業の投資判断を事実上凍結させかねない。確定日を明示することで事業者の適応コストを制御しようとした欧州議会の判断は、実務的には理解できる。もっとも、規制の信頼性という別の問題が残る。相当な年月をかけて成立した法律の実施が成立直後に見直されることが繰り返されれば、将来の規制提案に対する市場の信認に影響しないとも限らない。

2 AIリテラシー要請の現実的調整

 事業者の実務負担を軽減する観点からの見直しも随所に見られる。既存のEU AI法第4条は、すべてのプロバイダーおよびデプロイヤーに対し、スタッフのAIリテラシーを確保するという画一的な義務を課していた。しかし実際には、中小企業をはじめとする多様な事業者に対して一律の水準保証を求めることは、実効性よりも表向きのコンプライアンス負担を増やすだけに終わるという批判が積み上がっていた〔注3〕。

 欧州議会の報告書では、この要件が改められた。プロバイダーおよびデプロイヤーには、スタッフのAIリテラシーを確保する義務を負うのではなく、その向上を支援する措置を講じることが求められることになる。また欧州委員会が社会全体のAIリテラシーを促進し、中小企業を含む事業者の取組みを補完する役割を担うことも明確化された〔注3〕。強制から支援への重心移動は、規制設計の思想として注目に値する変化である。

Ⅱ 基本的権利保護と規制緩和の並存

1 非合意の性的ディープフェイク生成の明確な禁止

 規制の緩和や適用延期が目立つ一方で、個人の尊厳に対する直接的な脅威には規制の網を広げる姿勢が示されている点は見落とせない。報告書は第5条の禁止されるAI実践への追加として、識別可能な自然人の同意を得ることなく、その者が性的行為を行う様子や親密な身体部位を描写するリアルな画像・動画を生成・改変・操作するAIシステムの市場投入・提供・使用を明示的に禁止する規定を提案している〔注4〕。なお、プロバイダーまたはデプロイヤーがこのような描写の生成を防ぎ継続的な悪用を避けるための効果的な安全措置を講じている場合には、この禁止は適用されない〔注4〕。

 ディープフェイクを用いた性的コンテンツの生成は、被害者に深刻な損害をもたらすが、既存の法体系では捕捉しきれない局面が多い。AI法の枠内で明示的な禁止規定を置くことは、法益保護の観点から不可避の選択であり、報告書が示した方向性は妥当と考える。

2 バイアス検出にかかるデータ処理の法的根拠拡大

 アルゴリズムのバイアスを検出・是正する目的において、例外的に特別カテゴリの個人データを処理できる合法的根拠が拡充された。高リスクAIシステムだけでなく、その他のAIシステムのプロバイダーおよびデプロイヤーに対しても、厳格な保護措置を条件として特例の適用が認められる方向で修正が加えられている〔注5〕。

 差別の排除という基本権保護の要請を満たすために、データ保護の原則に対する例外を設けるという法益の衡量は、理論的には正当化しうる。ただし例外の範囲と条件をどこまで厳密に定めるかは、実施段階でなお課題を残す点である。

Ⅲ むすびにかえて

 一度制定された条文が実社会の要請と直面し、本格的な施行前に修正を余儀なくされる過程は、法と技術の相互作用の典型例として今後も参照されるであろう。欧州議会のデジタル・オムニバス報告書は、AI法が守ろうとした保護法益を維持しつつ、実装段階で生じた摩擦を減らすための現実的な軌道修正である。EUが規制の理念と産業界の現実との間でどのように折り合いをつけるのか、本報告書が経て最終的に成立する規則の内容は、AI技術規制を考える上での一つの基準となろう。詳細は、原典をご確認いただきたい。

〔注1〕 European Parliament, Report on the proposal for a regulation of the European Parliament and of the Council amending Regulations (EU) 2024/1689 and (EU) 2018/1139 as regards the simplification of the implementation of harmonised rules on artificial intelligence (Digital Omnibus on AI) (COM(2025)0836 – C10-0304/2025 – 2025/0359(COD)), A10-0073/2026, PE782.530v02-00, 19 March 2026. Rapporteurs: Arba Kokalari, Michael McNamara.

〔注2〕 Id. at Explanatory Statement, p. 68/141; Amendment 17 (Recital 21a), pp. 30–32/141.

〔注3〕 Id. at Recital 5 (Amendment), pp. 14–15/141.

〔注4〕 Id. at Article 5(1)(ha) (Amendment), p. 40/141; Recital 5a (new) (Amendment), pp. 12–13/141.

〔注5〕 Id. at Amendment concerning Article 10(5)(bias detection), pp. 50–51/141.

(マガジン)「AIと法雑感」

※目次は以下を参照

note総則規約3条2項前段
3.2 クリエイターが制作したデジタルコンテンツの著作権は、クリエイターに帰属します。
P.S. This is shared for academic discussion only.

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