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思い通りにならない日々を、どう生きるのか―― それでも、手のひらを太陽に

手のひらを太陽に」は、
”やなせたかし”さんが作詞した、
日本では誰もが一度は耳にしたことのある名曲だ。

童謡として知られているが、
その言葉は決して子ども向けではない。
生きていることの喜びだけでなく、
「生きているから、かなしい」という現実を、
そのまま歌っている。

励ましでも、教訓でもない。
ただ、生きているという一つの事実を、
否定も美化もせず、目の前に差し出す歌だ。


生きているということは、
それ自体が、すでに思うがままにはならない。




生きているという重み

手のひらを太陽に』を口ずさみながら、
ふと、こんな話を聞いたことを思い出した。

とある有名なドクターが、
基本的に、生きているということのすべてが体に悪い
と言われたのだとか。

極端な言い方ではある。
だが、生きることが老いと死へ向かう過程である以上、
仏教的に見れば、きわめて自然な認識でもある。

生きるとは、
消耗し、変化し、失われていくことを含み込んだ営みなのだ。


一切皆苦という前提

仏教を開かれた釈迦は、「一切皆苦」と説いた。

ここでいう「」とは、
悲惨さや不幸そのものを指す言葉ではない。

思うがままにならない。
それが、この世界の基本構造である、という認識だ。

思い通りにならないのは、
努力が足りないからでも、
心が弱いからでもない。

世界そのものが、もともとそのようにできている。
それを、仏教では真理と呼ぶ。


縁起と諸行無常の世界

世界はすべて、条件によって生じ、
条件によって変化し、やがて消えていく。

これを仏教では 縁起 と呼ぶ。

固定されたものは何一つなく、
すべては移ろう。
諸行無常とは、そういう世界観だ。

身体も、感情も、あらゆる関係性も、
昨日と同じ形で存在し続けることはない。


無明と執着が生まれるところ

にもかかわらず、人はそこに
「変わらないもの」を求める。

地位を失いたくない。
健康であり続けたい。
関係を失いたくない。
自分という存在を、確かなものとして永遠に保ちたい。

この錯覚が 無明 であり、
それにしがみつく心が 執着 である。

仏教が繰り返し
無常執着を語るのは、
人が世界を「つかみすぎる存在」だからだ。

意味をつかみ、
関係をつかみ、
自分という物語をつかむ。

それ自体が悪いわけではない。
ただ、つかんでいるそれが
本当に実体なのかどうかは、
一度立ち止まって見直す必要がある。


願いが叶ったその先で

仮に願いが叶ったとしても、
それが永遠に続くことはない。

むしろ、
手に入れた瞬間から
「失う可能性」が始まる。

無常なものを、
無常でないかのように扱うところに、
は必然的に生じる。

願いは、叶った瞬間から「守るもの」に変わる。
そして、それを守ろうとすること自体が、次の苦しみになる。

仏教では、この
握りしめた手をゆるめることを
放下(ほうげ)と呼ぶ。

壊すのでも、否定するのでもない。
ただ、つかむのをやめるという選択だ。

それは諦めではない。
執着から離れるために、
ただ手放すという選択をすることだ。


空という見方

仏教が示すもう一段深い視点に、
空(くう)がある。

とは、
「何もない」という意味ではない。

それ自体で、
単独で、
固定された実体として存在するものは
何一つない、という見方だ。

願いも、幸福も、
自分という感覚も、
すべては条件の束として、
一時的に立ち上がっている。

このことを、仏教では
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
と表現する。

形あるもの(色)は、
それ自体で固まった実体ではなく、である。
だが同時に、
はどこか別の世界にあるのではなく、
いま目の前にあるこの形として現れている。

だからこそ、現れ、
現れているからこそ、である。

だから仏教は、
世界を一切否定しない。
生を一切否定しない。
感情や願いを、消そうともしない。

ただ、それらを
実体としてつかまない

放下とは、
この見方を、
思考ではなく態度として引き受けることなのだ。


五蘊と諸法無我

私たちが「自分」と呼んでいるものもまた、
身体・感覚・認識・意思・意識という
五蘊(ごうん)の仮の集まりにすぎない。

そこに、不変の主体は存在しない。
これが 諸法無我 である。

「自分」という確かな中心がある、
という感覚そのものが、
後から作られた理解にすぎない。


生死と死生観

では、死ねば苦しみは終わるのか。

仏教は、そう単純には考えない。
無明執着が残る限り、生死(しょうじ)は形を変えて続く。

ここでいう生死とは、
単に生まれて死ぬという出来事の循環ではない。

生をつかみ、
死を遠ざけようとする――
その心の構えそのものを含んでいる。

仏教では、「」と「」を
別々のものとして切り分けることはしない。
二つをひっくるめて 生死 と捉え、
その差別を超えて見ようとする。

」と「」は表裏一体である。
このことを、生死一如(しょうじいちにょ)
という言い方で表すこともある。

私たちは皆、
無意識のうちにそれぞれの 死生観 を持って生きている。

だが仏教においては、
生きているという状態そのものが、
すでに老いと死を含み込んだ過程であり、
生きていること自体が、すでに生死のただ中にある。


中道という立ち位置

だから仏教が目指したのは、
「苦のない人生」でも、
「思い通りの生き方」でもなかった。

生を絶対視せず、
死を否定もしない。

意味をつかまず、
同時に、人生から降りもしない。

この立ち位置を、仏教では
中道と呼ぶ。

中道とは、快楽主義にも禁欲主義にもつかまらず、
生にも死にも実体を置かない立ち位置のことだ。

折衷でも、妥協でもない。
つかまないまま、生き続ける姿勢だ。


それでも、手のひらを太陽に

ここで、ふたたび
手のひらを太陽に』に立ち返る。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ

この「かなしい」は、
避けるべき不幸ではなく、
生きている以上、避けられない無常そのものなのかもしれない。

それでも、
手のひらを太陽にかざし、
血が流れていることを確かめる。

意味づけも、結論も置かず、
ただ、生きているという事実に触れる。


思い通りにならない日々を、
それでも生きていると認識している私たちは、
この 死生観 を、
いったいどんな距離感で引き受けて生きていけばいいのだろうか。

その距離感は、人それぞれ違うだろう。
ただ、その 死生観 に向き合い続けるという姿勢こそが、
まさに「生きる」ということなのだと思う。


この文章を書くきっかけは、
子ども関係のイベントを企画している最中に、
たまたまSNSのタイムラインに流れてきた
手のひらを太陽に』だった。

ほんのふとした出来事だ。
けれど、その言葉は、
いまの自分には妙に深く引っかかった。

こうした偶然の重なりを、
仏教では と呼ぶ。

意味があるから起きたのでもなく、
狙って選び取ったわけでもない。
ただ、条件がそろったところに、
ひとつの出来事が立ち上がっただけだ。

それでも、
そのに触れ、立ち止まり、ただ言葉を書いた。

それもまた、
思い通りにならない日々を生きる中での、
ひとつの在り方なのかもしれない。

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