偶然と<私>――「コントロールできない人生」をどう捉えるか
巷でよく語られる「キャリア論」やある種の「人生論」は、
大きく二つに分けられると思う。
ひとつは、人生はコントロール可能だとする立場。
努力や意思、選択によって、自分の人生は変えられるという考え方だ。
いわゆる自己啓発的な言説の多くは、ここに位置づけられる。
もうひとつは、人生は偶然や環境に左右され、コントロール不可能だとする立場である。
日本人にとって、こちらの考え方はそれほど異質ではない。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に象徴されるように、
人生を自分の思い通りに設計できるという感覚は、もともと強くはない。
ただ、この立場に対してはしばしば批判も向けられる。
「人生の諦めを促しているだけではないか」
「どうにもならない人への慰めにすぎないのではないか」
中には、「権力者に都合の良い思想だ」とまで言う人もいる。
だが、科学的な観点に立つと、
人生はコントロール可能だという前者の立場は、かなり苦しい。
認知科学や脳神経科学の分野では、
人間に自由意志があると考える研究者は、すでに少数派だ。
自由意志を認めるということは、
「自分の身体や思考に命令を出している主体」が存在すると考えることになる。
ゲーテはそれをホムンクルス(錬金術によって作り出された人造人間)という概念で説明した。
ガンダムの中に乗り込み、操縦しているアムロ・レイのような存在だ。
しかし、ここで必ず疑問が生じる。
では、そのアムロ・レイを操縦している主体はどこにいるのか。
ホムンクルスを想定すれば、主体は無限に入れ子構造を繰り返すだけになる。
突き詰めれば、
「決定している主体」はどこにも見つからない。
それでも思考は起こり、判断は起こり、人生は進んでいく。
では、この人生を生きているのは誰なのか。
未来を選んでいるのは誰なのか。
答えは、「自分」ではない。
環境であり、関係性であり、無数の条件の連なりだ。
より正確に言えば、
宇宙そのものの揺らぎの中で、出来事がただ起きている。
── 東洋哲学と西洋哲学の前提の違い
ここで、東洋哲学と西洋哲学の前提の違いを、はっきりさせておきたい。
西洋哲学は、基本的に「主体」を立てる思想である。
世界を認識し、判断し、行為する〈私〉を起点に、
論理や倫理、責任の体系を組み立ててきた。
自由意志という概念も、その延長線上にある。
一方、東洋哲学、とりわけ仏教は逆の立場を取る。
最初から〈私〉を起点にしない。
むしろ、「私とは何か」「それは本当に実体として成立しているのか」
という問いから始まる。
世界を説明するために主体を仮定するのではなく、
世界の成り立ちを観察した結果、
固定的な主体が見当たらないことを受け入れる。
その違いは、人生観にもはっきり現れる。
西洋的な思考では、
人生は「主体が設計し、選択し、責任を負うプロジェクト」になりやすい。
仏教的な思考では、
人生は「条件と関係性の連なりの中で起こり続けるプロセス」として捉えられる。
ここで言う「人生はコントロールできない」という話は、
努力や行為を否定するものではない。
そもそも、コントロールする主体という前提自体を置かない
という立場の違いなのだ。
では、ここまでの問いを地続きで考えたとき、
思考はどこへ行き着くのだろうか。
到達点としての諸行無常・諸法無我
ここまで考えてくると、
人生をどう生きるべきか、という問いの立て方そのものが変わってくる。
人生は計画通りに進まない。
状況は常に変わり、関係性は揺れ、
同じ状態が保たれることは一度としてない。
これは「不安定だから困る」という話ではない。
変わり続けること自体が、世界の基本構造なのだ。
すべては生起し、変化し、消えていく。
止まっているものは何ひとつない。
これを仏教では、諸行無常と呼ぶ。
同時に、その変化の流れを
統御し、判断し、最終決定を下している
固定的な主体を探してみても、どこにも見当たらない。
思考は起こる。
判断は起こる。
行動は起こる。
だが、それらを一貫して支配している
恒常的な〈私〉は成立していない。
能力の問題ではない。
努力の不足でもない。
主体という前提そのものが、確認できない。
これを仏教では、諸法無我と呼ぶ。
人生がコントロールできないのではない。
変わり続ける世界の中に、
コントロールするという主体を置くこと自体が、最初から無理だった。
だから、何かを手放す必要はない。
握っていたと思い込んでいたものが、
最初から存在しなかったことに気づくだけだ。
私は、現代の息苦しさの根源はここにあると思っている。
多くの人は、人生は自分で設計できるはずだと考えている。
うまくいかないのは、自分の努力や意思が足りないからだと感じる。
その前提こそが、人を苦しめている。
ブッダは「自分があるから苦しい」と言った。
これは、自分という主体が実体としてあるという誤認が苦しさの根底にあるという意味に他ならない。
現代的に言い換えると、「コントロールできる〈私〉があると思い込んでいるから苦しい」ということになる。
すべては一瞬もとどまることなく変わり続け、
それを統御する不変の主体は存在しない。
諸行無常、諸法無我。
思考を突き詰めた結果、ただそこに立ち返ってきただけなのだと思う。
世界も、人生も、一瞬もとどまることなく変わり続ける。
私の想定は初めから成立していなかった。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!!