下町音楽夜話 Reloaded 347「ECMの音(2)」
■■■本稿は下町音楽夜話347「ECMの音(2)」(2009年2月14日)に加筆修正したものです■■■
先月から、ECMの音源をやたらと聴く機会が多い。前回の下町音楽夜話でも書いたとおり、ECMのアルバムが大量に安く売られていたということもあるのだが、冬らしい音が聴きたいと思い、ノルウェーのギタリスト、テリエ・リピダルのベスト盤なんぞを繰り返し聴いたりもしていたのだ。
テリエ・リピダルは、ジャズにとどまらず、ニュー・エイジ的な領域に大きく踏み出している男で、アンビエント系とも言える、BGMには最適の音楽をやっている。時々ディストーションがかかったギターが唸っていたりもするが、絃を緩めに張っているのかと思いたくなるギターの音色は、かなり個性的である。それでも、ECM特有の高音が澄み切った上品な録音が、かなり個性を隠しているとも思える。彼は、ミロスラフ・ヴィトウスとジャク・デジョネットの2人と共に、3人連名のアルバムをリリースしており、これは初期のECMを代表すると言ってもよい名盤である。かなり抽象的な内容であり、ジャズなどといったジャンルに括りきれないあたりが、いかにもECMらしい。
ECM繋がりで、他に何かないかと探して、出てきたのがキース・ジャレットのアルバム3枚だった。1970年代、80年代、90年代を代表するそれぞれのアルバムが、この孤高のピアニストを俯瞰したいときに何かと役に立つと思い買い集めたものだが、正直なところ、自分はキース・ジャレットのファンではない。アナログが廃れ、CDに切り替わってしまった頃に安く売っていたという理由だけで、「デス・アンド・ザ・フラワー」をアナログで購入し、実力のほどは知れたのだが、どうもあの唸り声が耳につき、「この人は好きになれそうにないな…」と思ってしまったのだ。その後いろいろ聴く機会はあったが、結局のところ3枚のCDを持っている程度である。しかし、この3枚がなかなか曲者で、キース・ジャレットのピアノが脳みその皺の奥深くにこびりついて離れないのだ。時々思い出しては聴きたくなってしまい、一体この人が好きなのか、嫌いなのか、いまだに結論は出ていない。
さて、その3枚だが、まず1970年代を代表する1枚が「フェイシング・ユー」だ。1971年にリリースされたソロ・アルバムだが、その後ソロ・ピアノ・ブームを巻き起こしたといわれるものだ。1975年には生涯の代表作となる「ケルン・コンサート」もリリースされるが、その先駆けとなる画期的な一枚だった。「ビッチェズ・ブリュー」以降、大きくエレクトリックに舵を切ったマイルス・デイヴィスのグループに在籍しながらも、何故こういうアルバムを作ったのかということを考えていると、なかなか面白い聴き方になる。自分はマイルス・デイヴィスに関しては、エレクトリックの時期も嫌いではない。混沌としたエレクトリック・マイルス・バンドが、キーボーダーに異様な緊張を与えたであろうことは理解しているつもりだが、その反動かと思いながら聴くと、より一層自由に鍵盤を駆け巡る運指が微笑ましくなる。
お次が、1985年にリリースされたトリオによる「スタンダーズ・ライヴ」である。大名盤と言われるものだが、そもそもECMというレーベルは、先鋭的なミュージシャンの巣窟であり、あまりスタンダード集のようなアルバムは多くない。キース・ジャレットのみならず、ゲイリー・ピーコックもジャック・デジョネットも、フリーフォームなものが多い連中で、どうしてこのメンバーでスタンダードをやろうということになったかは知らないが、それでも大ヒットし、その後も多くのスタンダード・ナンバーを演奏するはめになるアルバムだ。
もちろん原因となったのは、これに先駆けてリリースされた、1983年のスタジオ録音「スタンダーズVol.1」と「スタンダーズVol.2」のほうだろうが、このライヴ盤で決定的になったことは確かだろう。どうして、やりたくないことをやらされて、これだけクオリティの高い演奏ができるのか、その辺が不思議な人だ。彼は1975年にも、ケニー・ウィーラーのアルバムに無理やり参加させられて、嫌々ながら演奏してECMを代表するともいわれる名演を残している。変な人だ。
そしてもう一枚が、1991年にリリースされた「バイ・バイ・ブラックバード」である。同じくトリオでの録音だが、同年に亡くなったマイルス・デイヴィスに捧げられた一枚である。マイルスの死後13日目という日に録音された内容は、猛烈に緊張を強いるものだが、1990年代中盤以降に精神的なプレッシャーから体調を崩してしまったのが頷ける内容だ。いきなりキース・ジャレットが唸りまくるので、この盤は小さな音でしか聴かないのだが、そうしている限りでは、かなり好きな盤である。鬱々としたゲイリー・ピーコックのベースが沈みがちな気分を一層暗くしてくれる。
それにしても、美しいメロディがポンポン出てくる盤だ。また、18分以上に及ぶ超大作「フォー・マイルス」は、ドラムスから入ってきてベース、そしてピアノと出てくるのだが、このピアノの出だしを待っている間に緊張が高まってしまうのだ。まったく何という技を使うのか、赦し難い連中だ。そして、「フォー・マイルス」に続いて出てくる「ストレート・ノー・チェイサー」は大好きな曲で、軽快なピアノで、「オッ!?」と引き込まれるのだが、ここでもキース・ジャレットはうるさい。だいたいこの曲で聴くのを止めてしまうので、その後の演奏のことは、よく知らないので語れない。
自分は、誰もが名盤と称えるキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」を、まだ買おうとは思わない。本心では、この盤のピアノの音がブルーノート的な録音とはまったく別の可能性を示し、録音手法の潮流さえも変えてしまったという歴史的事実を確認したくて仕方がないのだ。しかし、今聴いて好きになれなかった場合に、何だか取り返しが付かないことになりそうな気もしているのだ。今は好きでも嫌いでもなく、「唸らなかったらなあ」というエクスキューズで場を逃れることができているのだが、「ケルン・コンサート」の良し悪しに関しては、意見を述べることを恐れているのかもしれない。何せ大好きなECMの中にあって、しかも音質に関して「歴史的」、「画期的」といわれる一枚なのだ。その盤が好きになれなかったときには、これまで自分が感じてきたことが全て覆されてしまうような気がしているのだ。
自分はジャズを集中的に聴き始めたのが結構遅いので、ことジャズに関しては学究的に聴いてしまう傾向を持っている。そして、ポップスもロックもジャズも好きな自分の雑多な感性に満足しているのだが、「ケルン・コンサート」を受け入れられるかどうかで、その音楽の聴き方自体を否定されるような気がしてならないのだ。まったく拘りは強くないと言いつつも、変なところに拘りがあっていけない。これはこれで、不自由な性格なのだ。それにしても、マンフレッド・アイヒャーさん、キース・ジャレットの唸り声をどう思っているのだろう。あれでもECM的と言えるのだろうか?
1
■2026年の独り言■
唸る人がねぇ…、苦手なんですよねぇ…。エロール・ガーナーとか…いますよねぇ…。今でも変わりませんね、この辺は。
