『デミアン』

 昔読んだ本を読んでみよう、フィーリングで本棚に手を伸ばしてみた。そして手を引っ込めた時に掴んであった本、それが今回のテーマの本、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(実吉捷郎訳 岩波文庫・赤)だった。

 主人公ジンクレールが悪友クロオマアに弱みを握られていた時、ジンクレールはデミアンに出会う。周囲からの評価はそれほどでもないデミアンにジンクレエルは惹かれる。
 デミアンと別れたジンクレールの生活は精神的に荒廃する。その中で出会った少女(ジンクレールはベアトリーチェと名付ける)をみて彼は信仰にも似た生活を自分に課してゆく。絵に自分のイメージを書きつける日々、それはデミアンのようであり、夢に見た一人の女性のイメージに結びつく。
 一枚の紙きれの「鳥は卵から無理に出ようとする。アプラクサスという名の神の元に」という文字にジンクレールはイメージを広げてゆく。
 そのなかでジンクレールはオルガン弾きのピストリウスと話を始める。ジンクレールとピストリウスとの交流、そして離反。
 ある日のデミアンとの邂逅、そして夢に見ていた女性に似たデミアンの母エヴァ夫人と対面する。デミアンとエヴァ夫人の交流の中戦争の影が覆ってゆく。 
 戦場に出たジンクレールは戦場のベッドの上でデミアンの接吻のようなものを感じるのであった。

 この物語を読んでいるとなんだか現実を離れたようなほんわかとした空気に自分が包まれていくのを感じる。それはまるで陽の光がかすかに差し込む意識の海の中に自分がどっぷりつかっているような、そんな感覚を覚える。
 ジンクレールが危機に陥った時にはデミアンがジンクレールを救ってくれた。ある時はクロオマアの強請から、ある時はジンクレールの精神的なさまよいの中から。それはまるで汚泥の中から自分という像を引き上げるかのように。それは半分ジンクレールの力であり、半分はデミアンの力であった。
私が今どっぷりと浸かっているような意識の海から何者かが私を引き上げてくれないだろうか、そんな一種の救いのようなものを願いながら読んでいた。そしてジンクレールがエヴァ夫人に会うシーンはさながらダンテの『神曲』でダンテが侍女ベアトリーチェに導かれて天国の神に謁見するようなシーンのような感動を思い浮かべずにはいられなかった。
 物語を読みながら、私はこの作品を読みながら「この作者は何を思ってこの物語を書いたのだろう」ということに思いを馳せずにはいられなかった。
 私が高校生の頃同じくヘルマン・ヘッセの『車輪の下』という作品を読んだ。内容も印象に残るものだったが、それより印象的だったのが「詩人になるか、そうでなければ何者にもなりたくない」というヘッセの紹介文の一節だった。
 この作品でジンクレールたどった経緯、大人が想像しないような残酷さを帯びた少年時代、デミアンとの別れからのジジンクレール精神的荒廃(作中では感化院、今でいう児童自立支援施設、に入るよう父親に脅されていた)、アプラクサスにみるイメージとピストリウスの対話、デミアンの再会やエヴァ夫人との出会い、それらすべてが作者ヘルマン・ヘッセの精神史であるかのように見えてしまう。
 それはヘルマン・ヘッセが人生の迷いから後世に名の遺す作家として確立するまでに至るサクセスストーリーだとするなら、私は何処かでヘルマン・ヘッセのたどったような道、偉大な作家になれなくても何かの存在に自分の存在が救われるといった願望のようなものを抱いているのだと自分で思う。 
 だからこそ、この作品を読む時に感じた意識の海のような感覚、そこから引き揚げられたい願望、それらがこの作品が私の意識を惹きつける力だったのだろう。大きな感動という力強いものをこの作品に感じないけど、若干現実離れしているがどことなく現実感を思わせる独特な空気に飲み込まれた、そんな本だった。

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