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【愛縁奇縁/前世編〈忍〉】第二話:変化を齎す鈴の音

 あの日。里の空気は、いつにも増して重かった。

 雨も風もない。
 ただ濃い霧が谷を塞いでいた。

「弟夫婦が死んだ。その娘を、うちで引き取る事になった」

 父の言葉に、俺は何も返さない。視線も向けず、黙っていた。

 だが視界の端に、柱の影へ小さく立つ少女が映っている。
 華奢な身体。白い髪に隠れ、顔はほとんど見えない。

 唯一印象に残ったのは、大きな瞳だった。
 前髪の隙間から、真っ直ぐこちらを見ている。

「名は、鈴だ」
(……知らん。関係ねぇ)

 心の奥で吐き捨てる。他人が一人増えようと、何も変わらなかった。
 俺を道具としか見ぬ里で、誰かを受け入れる理由などない。

 その晩、鈴は部屋の隅に敷かれた布団に小さく身を横たえている。
 声も上げず、何も求めず、壁に向かって背を丸めていた。

 その小さな背は、やけに遠く感じる。

 数日が過ぎる。

 泣きも喚きもせず、言われるより早く手を動かす。
 静かに家に馴染もうとしていた。

(子供らしく媚びもせんし……奇妙《おかし》ねぇやっちゃ)

 苛立ち混じりの視線を向けても、鈴は黙って皿を洗っている。
 その沈黙が、妙に癪に障った。

 やがて、忍びの試験の日が来る。

 だが、その前夜から身体は熱に侵されていた。
 朦朧とした頭では、立つことすらまともにできない。
 結局、途中で倒れて俺は帰宅を余儀なくされた。

 家に着くなり、父から雷鳴のような叱責を浴びせられる。
 続けざまに拳が振り下ろされた。殴られた衝撃で、足が蹌踉《よろ》めく。
 ふらつき、後頭部を柱に強く打ちつけた瞬間。
 視界が暗転した。気がつくと、畳に突っ伏している。
 食事も与えられず、水も口にできない。

 ……朽ち木のように転がる重い身体。
 喉は焼けるように渇き、這うようにして台所を目指す。その時だった。

 ……――――さらり。

 額に、小さな手が触れる。
 冷たいのに、不思議とやわらかい。

「……お兄ちゃん。いい子いい子」

 耳元に響いたのは、鈴の声だった。幼くも凛とした声。

 その瞬間、涙が溢れた。止めようとしても止まらない。
 誰かに優しくされたのは、初めてだった。


 暗闇に沈んでいた心に小さな光が灯る。
「お兄ちゃん」……――――その一言が、俺を救う。

▶ 次の話


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