王の鞘 ――血を流さぬ約束――(アーサー王物語)
これはアーサー王伝説をベースにした物語です。
もしあなたが「強くなれば、すべて守れる」と信じているなら、この物語はあなたの足元を静かに崩す。
これは、伝説の王が“剣で勝つこと”を捨て、“傷つかずに守ること”を知るまでの話——アーサー王物語。
ズシン、ズシンと大地を揺らす足音が、霧の奥から近づいてくる。
キャメロット城の北に広がる湖畔。湿った冷たい風が、震える頬を撫でた。
「マーリン。巨人はもうそこまで来ている。だが、今の私には……」
私は腰に下げた、折れた剣の柄(つか)を見下ろした。
先日、家臣の進言に腹を立て、衝動のままに剣を岩へ叩きつけた。カァンという乾いた音と共に、岩から抜いた王の証はへし折れた。
手の中には、あの時の嫌な感触がまだこびりついている。己の感情すら制御できない未熟者に、国を脅かす巨人が倒せるはずがない。
「アーサーよ、水面を見なさい」
魔術師マーリンが、静かに杖で湖を指し示す。
波一つない水面がふわりと光を帯び、白い絹を纏った腕が静かに突き出された。その手には、黄金の十字鍔(つば)と、星を閉じ込めたような刀身を持つ長剣が握られている。
「湖の乙女からの贈り物、エクスカリバーだ。取ってきなさい」
私は泥に足を取られながら水際へ走り、剣を受け取った。
ずしりとした重み。だが、不思議と手に吸い付くように馴染む。湧き上がる力に、私は息を荒げた。
「素晴らしい剣だ。これなら巨人を斬り伏せられる」
「……まだ分からないのか」
マーリンの静かな声が、私の熱に水を差した。彼は深くフードを被り直し、伏し目がちに言った。
「アーサー。その剣と、剣を収める鞘。どちらが価値があると思う?」
「剣に決まっている。鞘では敵を倒せない」
「だからお前は、前の剣を折った。……昔の私も、同じ間違いをした」
ハッとした。完璧に見える魔術師の瞳の奥に、かつての苦い後悔が揺れた気がしたからだ。
地響きが最高潮に達し、濃霧を引き裂いて醜悪な巨人の顔が現れた。
怪物が、丸太のような棍棒を振り上げる。
「その剣はすべてを斬り裂く。だが、鞘を帯びる限り、お前は血を流さない。敵の命を奪うより、血を流させぬ盾こそが尊いのだ」
風圧が迫る。
以前の私なら、力任せに剣を振り回し、相打ち覚悟で突っ込んでいただろう。
だが、私は動かなかった。マーリンの後悔と、折れた剣の重さが、私の足を大地に縫い止めた。
私は剣を引いて、盾のように鞘を前に構えた。
――ガァァン!!
巨人の渾身の打撃が鞘に激突する。
腹の底から骨へと抜けるような重低音が響き、思わず全身の筋肉が強張った。だが、腕が砕けるはずの衝撃は、鞘から溢れた黄金の光に吸い込まれるように消え去っていく。強ばった肺から、安堵の息が漏れた。
巨人が自身の力に弾かれ、大きく体勢を崩す。決定的な隙。
私は最小限の踏み込みで、巨人の膝の腱を正確に薙いだ。
地鳴りと共に、怪物が巨体を地に沈める。命を奪うまでもない。戦意を喪失した巨人は、這うようにして霧の奥へ逃げ去っていった。
静寂が戻った。
私は、血に濡れていない美しい刃を、カチャリと鞘に収めた。
「……鞘の方が、価値がある。今なら、少しだけ分かる気がするよ」
「それを忘れるな。君は真の王だ」
風が吹き抜け、湖を覆っていた霧が晴れていく。
丘の向こうに、キャメロットの城壁が見えた。
朝日に照らされた白い尖塔。煙突から立ち上るパンを焼く香ばしい匂い。城下町からは、荷車を引く音や、通りを駆ける子供たちの微かな笑い声が聞こえてくる。
私が守るべきものは、巨人を倒した血生臭い栄光ではない。
この何気ない、温かい朝の日常なのだ。
私は鞘の確かな重みを手のひらで感じながら、愛する城へと続く道を歩き始めた。
――もし、あなたが今、何かを「守る立場」にいるなら。
その手に握っているのは、本当に“剣”でしょうか。
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