【創作大賞2024応募作】 母・子おる 第四話
先週の母のカミングアウトに酷く動揺していた僕だが、母の前では普通でいようと努力していた。でもあいつのことは直視できず、見ると吐き気をもよおした。唯一救いだったことはあいつが一昨日から例の胡散臭い講座を受けるため家を空けていたことだ。僕が今朝睡眠三時間ほどで目を覚ましたのは、今日から三日間期末テストがあるからだった。こんな僕でも馬鹿の点数を知っておくために中間と期末テストは受けることにしていた。ただ普段の睡眠時間が足れないせいか、夢を見ることがあまりない。体はやけに疲れているため、テスト中に眠気に襲われ、夢の世界に引き込まれるのが心配の種だった。
学校が、クラスが、人が大勢いるのが、見たくも聞きたくも話したくもない人と一緒にいることが、そこにいる一番嫌な理由だった。
唯一美優とのんちゃんたちと時間を合わせ、いつものくだらない話をしながら、登校をするのが救いで、それ以外は全部地獄だった。三年になり村八から福田先生に変わり、由里香もクラス替でこの四組にはいない。二年前のような悪夢はもう起こらないだろう。何故か一番前の席にいる翔太とはよく目が合う。それ以外は誰も僕を人と見ていないし、時々登校してくるぐらいの空気みたいに、透けた人間と思われていることだろう。それでちょうどいいのだ。
今日、誰からも絡まれませんように。
僕は合掌をして祈った。
テストが始まり五分ほどでいきなり睡魔が来て、何度もペン先で頬を押したものの瞼の重みには勝てなかったようだ。
すごく長い時間に感じたけれど、無味無臭の夢から覚めた僕は、何とか初日の期末テストを無事終了することができた。クラスの生徒たちが、二人、三人、大きなところでは五、六人かたまって、夏休みのことについて話していた。先月六月は北部に震度六弱の地震があり、今月七月は台風第七号の影響で集中豪雨もあり、その異常気候の影響で外出することに僕はとても億劫になっていた。
皆を尻目に僕はそそくさと帰る準備をしていた。
すると机の前に、いつの間にか誰かが立っていた。
ゆっくり顔を上げてみると、犬山瑞穂 いぬやまみずほさんだった。
「植木さん、ちょっとだけ見てほしいものあるねんけどいいかな?」
犬山さんは中肉の黒縁眼鏡でおかっぱの地味な子で、これまで一度も話したことはなかった。向こうに話があるのだとしたら、僕の不登校に関することぐらい何も思い浮かばなかった。犬山さんも学校へ来るのがしんどくて悩んでいるのだろうか。でも僕に何かを見てほしいと言った。
待ち合わせ場所に向かうと、犬山さんと、その周りに三人ほど別のクラスの女子がいた。
「植木さんごめんね。」
犬山さんは深々と頭を下げ、そのままこっちを見ずに正門へとダッシュして行った。
「早速やけど実は見てほしいのこれやねんけど、私たち絶対誰にも言わへんから安心してな」
どういうわけか僕の背後から由里香がすっと現れ、あるスマホの写真を見せてきた。
一瞬由里香は下を向いて笑った気がした。
スマホに映った男女にも驚いたが、その場所がダイレクトに目に入った瞬間、僕はそのまま気を失いそうになった。
「たまたまこの子たちがな、心斎橋でご飯食べてたら、村八がデートしてるとこ目撃して、興味本位でそのまま後をつけてんて。そしたら、ある二人がホテル街に入ろうとしたから、思わず激写したってわけ。でこの男性が誰なのか突き止めてみようてことで、みんなで調べてみてん。そしたら犬山さんが、これとびかつ、あ、ごめん。植木さんのお父さんじゃないかしらて言い出して。植木さんのお父さんて心斎橋で占い師やってるんやろ?ほらここ見て、このフェイスブックのプロフィールと連動してるやろ?それとこのカウンセラーの人とも連動してるやろ、それで私らな村八側も調べてみてん。そしたらな、やっぱりビンゴやってん。これ見て、村八のインスタ、ここにタロット占いのこと書いてるやろ?この嘉納先生て植木さんのお父さんなんやろ?あ、ちょっと待って、誤解のないように言っとくけど、私ら植木さんのこと脅迫したりそんなことせえへんから。逆パパラッチてとこやで。はははは」
由里香の目が恐ろしいほど輝いている。犬山さんがさっき逃げ出したのは、土壇場になって、こういうことになることを恐れたからだろうか。由里香の目的は、きっといつもの嫌がらせに違いない。人の不幸が大好物だから。
「ごめん由里香、うち急いでるから」
僕は急いで振り切ろうとした。
「待てよとびかつ。勝手に下の名前で呼ぶなよ。麻生さんて言えよ」
由里香は僕の肩に手をかけた。
「前からずっと馴れ馴れしいんじゃとびかつ。あたしはお前の優等生ぶった態度が大嫌いなんや」
やっぱりそうだろう。遂に本音が出たな。僕は尚も無視して由里香の横を通り過ぎようとした。
離れ際出足払いをされ、ヘッドスライディングするように僕は転倒した。誰かが僕のスカートを上へと引き上げようとしていた。僕は必死に抵抗して瞬時に立ち上がり阻止した。
由里香を筆頭に全員不敵な笑みを浮かべている。僕の膝から擦りむいたあとの血が流れている。
これはいつもの悪い夢なんだと、僕は顔面を強く叩いた。
とびかつおかしなったでと、名前も知らない女子に言われ、確かに頬が痛かったことを確認した。
「由里香、あと犬山が言ってた鼠講のことも聞かなあかんのと違うん?」
背の小さい虫眼鏡みたいな目をした一人が言うと、由里香は口の前でひと差し指を立てた。
あいつの浮気癖のことは前から知ってるし、今更どうとも思わない。しかしなんで村八となんだ。こんなこと母にも言えない。しかもこいつらは村八を強請らないと公言しているが、僕に言質をとること自体強請と同じくらい重いことだと思わないのか?しかもあいつが鼠講をやっているなど、誰かの親が絶対繋がっているに違いない。出どころが奇妙で不可解すぎる。何が逆パパラッチだ。
「ごめん通して、うち本当に急いでるから」
一瞬の隙をつき、僕は走り抜けようとした。
「待て言うてるやろ。あたしはお前のせいで村八にこっぴどく叱られてんぞ。忘れたとは言わさんぞ。」
「あれはそもそも自分で巻いた種でしょ?それをうちに擦りつけて。自分のせいじゃない」
「あれはフリやったんじゃ、お前のせいにした後、すぐ種明かしするネタやったんじゃぼけ。実はあたすがやったんです。そうなんです。あたすが変なおじさんなんです。言うてみんなで変なおじさんダンスしようと思ってたのに、人を馬鹿にした目付きでチンコロしくさって。自分が正しいみたいな顔してよ。お前そんなに偉いんか。いつも人を見下ろした目しやがって、とびかつの癖に」
気がつくと僕は由里香の頬を叩き、その後三人の女子から羽交締めにされていた。
「何するんじゃぼけ?何で手出すんじゃ。」
由里香は僕のお腹を正面から三回蹴ってきた。足の裏側だったからそれほど痛くはなかったが、とりあえず痛いふりをしていた。
「とびかつええか。勘違いするなよ。あたしらはお前の味方なんやど。今回の件の事実を知りたいだけなんや。それやのにさっきから全然協力せんと、また自分だけいい子ぶりやがって。おまけに暴力を振るうとは酷すぎるやろ。」
今度は僕の下腹部を下から垂直に蹴り上げてきた。
これは流石に激痛が走った。しばらく呼吸ができないほど蹲った。
取り押さえていた三人の女子が、大丈夫かと心配そうに声をかけてきた。んなわけねーだろ。まだ立てねーよ。僕は由里香を下から真っ直ぐ睨んでやった。
「仮に事実を知って、それが何になるの?」
声を出すとお腹がめちゃくちゃ痛く、また蹲るしかなかった。
「何もならへんよ、こっちは見たくないもの散々見せつけられて、ずっとモヤモヤさせられとるんじゃ。とびかつ見るたびに、不倫教師と浮気した生徒の親、その可哀想な娘という色眼鏡で見てしまうやろが、溜まったもんやないやろ?きもいんじゃぼけ。」
「あと鼠講もね」
虫眼鏡が餅つきの合いの手のように言う。
「いや、わざわざ話をややこしくしてない?勝手にそう思ってくれていいし、実際してるんならそれでいいよ。うち全く関係ないし」
「関係あるわ。ずっとさっきから勘違いしてるみたいだけど、私らとびかつの味方やねんで。村八にとびかつて命名された恨みを晴らす番やろ。この写真見せつけてギャフンと言わしてやろうや。うちのお父さんと何してくれてんねん。さいっこうにおもろいやん」
どうやったらそんな思考回路になるのだろう。由里香は私が一番嫌いなネットに存在する間違った正義を振りかざす狂人たちと同じだ。噂話や不倫のネタが大好物で、正義を振りかざす対象そのものが根本的にずれている。ものの善悪、人の心がない。何故自分が同じことをされたらという発想にならないのか。
その後も、村八に問い正すシナリオを勝手に考え、四人で盛り上がっていたが、思うように乗ってこない僕の反応に、由里香たちは次第に飽きてたのか、いつでも味方になるからと理解不能な言葉を残し、正門の方へと消えていった。由里香は振り向きざま僕に向かって、手錠をかけられたポーズをして口角を上げた。以前昔の報道番組の特集で見たことがある。
お前は戸塚ヨットスクールか。
ひょっとして、僕の怒りの矛先も本当に間違っていないか。由里香がネット社会そのものの声だとしたら、いちいちそれに反応する必要はないのだ。村八とあいつが一番悪いのだ。その二人を隠し撮りした人、その事実を確認しようとした人、この人たちの倫理観て一体なんなんだ。そして不倫している片方の娘は、本当に被害者なのか。多分僕よりも母が一番悲しむだろう。この件は母に相談するまでもなく、僕の中で結着をつけるべきだろう。こんな屈辱を受けるなんて…。やっぱり登校すると危険はつきものだった。
制服に付いた土埃を払い落とし、何事もなかったように僕は帰宅した。道中涙を必死で隠しながら、美優やのんちゃんに会わないことを祈った。僕がもし今日の期末テストを受けていなかったら、さっきの話はどうなっていたのだろう。どっちみち次に登校したとき、クラス中、いや学校全体に拡散されていただろう。遅かれ早かれ母の耳にも入ることになっただろう。ねーちゃんは家族の誇りだったが、あいつは恥以外の何者でもない。近いうちに犯罪に手を出してもおかしくはない。子供から親に絶縁状を叩きつける方法はないかを考えていると、自転車置き場で母のパート先の天空さんが、母を肩で抱き抱えながら大きく手を振って待っていた。
「ちょうどよかった克巳ちゃん帰ってきてくれて。あれ、どうしたのその傷、大丈夫?」
涙で腫らした顔を見せないよう、目元を指で押さえながら僕は相槌をした。
「さっき薫さんに何度も電話してんけどな、仕事中やろうから全然出えへんかってな、実はお母さん事務所の給湯室で急に倒れてな、熱測ったら三十九度五分やし、顔えらい赤い赤いから病院連れて行こうとしたら本人あかん言うてきかへんねん。でも仕事できる状態やないからとりあえず今送ってきたっちゅうわけや。わしもおってあげたいねんけどな、どうしても配送行かなあかんから、克巳ちゃんちょっと様子診てあげてくれへんか。あんまり酷いようなら救急車呼ぶんやで。それとこれ少ないけど渡しとくわな。足らんかったら遠慮せんと言うてや」
天空さんは財布から数えずに数枚の一万円札をとり出し、僕の手に無理くり握らせた。きっと母のパート代以上あるだろう。僕は母を抱き抱え、そのまま寝室の布団まで連れていった。
「あーもうあかん。しんどい。あーもうあかん。しんどい。なむあみだぶつ、なんみょうほーれんげーきょう、なむだいじへんぎょうこんごう、ゴッドブレスユー、ヘルプミー、レリビーレリビーあーもうあかん…」
母は苦しそうに目を閉じ、お経としんどいと時々ビートルズを唱えるように唸っていた。四つも仕事を掛け持ちしているのだ、そりゃ確かにしんどいだろう。でも母がはっきりしんどいと声に出している時はまだマシな方だ。本当にやばい時は意識がなく何の反応もない時だ。ねーちゃんが亡くなったすぐ後、母は原因不明の高熱に一ヶ月以上苛まれた。間の二週間はほぼ意識がなく、このままねーちゃんの元へ行き、戻ってこなくなるのではと諦念しそうになった。
ひとまず落ち着いた母の服を着替えさせ、おじやを作り様子を伺うことにした。
すると玄関チャイムの音がけたたましく鳴った。連打して鳴ることから宅配ではなさそうだ。おそらくあいつでもないだろう。自転車のスタンド音も、音程のズレた口笛もそこにはなかった。
「こんちは、津島です。薫さんいますか?」
津島賢一 つしまけんいちさんはあいつの学生時代の後輩で、今も付き合いをしてくれているとても稀な存在だ。偉そうに先輩面するあいつをいつも文句を言わずサポートしてくれるのだ。何か弱みでも握られているのではと思い一度聞いたことがある。津島さんは照れながら、あいつを命の恩人だと言った。何か深い理由がありそうで、子供の僕がそれ以上踏み込んではいけない雰囲気だったので敢えて聞かなかった。所謂腐れ縁ということにしておいた。
その津島さんがわざわざ家に来るというのは、あいつと連絡が取れない時で急を要する時だ。大体がお金の絡むことだ。玄関扉を開けると津島さんの表情は暗く、しかもやつれていた。
「すいません。薫さんに何度も連絡してるんですが、全然携帯に出てくれなくて、ひょっとして家いるんじゃないかと…」
「父は一昨日から名古屋の方へ行ってるようです。多分明後日ぐらいには帰ってくるはずですが…」
ここんとこ館の出演をぶっちして、例の胡散臭い帝王学の集会に参加したり、自身が開いた育成講座なのか将又、女のところに転がり込んでいるのか。いつもそれらを出張と言っていたため、実際のところわからなかった。女を想像した時、村八が一瞬頭をよぎり急に目眩がして、さっき由里香たちに囲まれたことを思い出しそうになった。
違う違う。そうじゃないそうじゃない。
でもひょっとして津島さんなら男同士だし、その辺の事情を知っているかもしれない。
「あれ、志穂さんいてるの?」
津島さんは玄関に置いている母の黒く汚れた靴を見て言った。
「はい、母は今ちょっと疲れて寝こんでいます。」
「そうだったのか、大きな声を出してごめん。克巳ちゃん、ちょっとこれ見てくれるかな?」
津島さんはインスタの、とある投稿を僕に見せた。それはあいつがよくアップしている嘘の旅行写真だ。そこにいないのにアプリで合成しているのだ。最近は誰かの旅写真に、うまく顔だけを貼り付け、合成だとわからないよう巧妙に加工していた。加工範囲が少ない分バレにくいが、パクられた人が見たら一発アウトだ。何故そんなことをするのか、僕はてっきり見栄を張るためだと思っていた。
「薫さんは今、暗号資産の育成スクールの講師をやっていて、以前まではオンラインが中心だったんだけど、今後は全国へ出張して、会場を押さえリアル講座を開いていく予定なんだ。これはその人集め用の宣伝みたいなもんなんだけど、僕が何を言いたいか、わかるかな?」
「はい、全然わかんないけど、父が出張をしているのは。それと別の理由だということですよね?」
「そう、そういうこと。薫さんあるあるなので特に驚かないんだけど、問題は今どこで何をしているかなんだ。」
こういうことがよくあるのに、今回だけ津島さんの中で今までと異なる前兆を感じたということなのか。
「こういう宣伝広告に騙される人をターゲットにしているまではよくわかるんです。一見すると薫さんが嘗てのヒルズ族と呼ばれたビリオネア、簡単に言うと億万長者で、あたかも暗号資産によって成功したように映っている。こういう人種を取り巻く環境は永遠に懲りないから、また別の講座難民を繰り返し続けるんだ。」
「簡単に言うと、父は詐欺みたいな仕事をしてるってことですよね。では津島さんの中で一番何が引っ掛かったんでしょうか?」
津島さんは一呼吸置き、僕に水が欲しいと言った。僕は冷蔵庫の新しいファンタオレンジをとり、津島さんにペットボトルごと渡した。一瞬にして飲み干した津島さんはゲップを堪えようと我慢していた。
「いいですよ。ハイキングウオーキングみたいに豪快にやってくれて」
涙目の津島さんは口元に手を当て、意外と小さなげっぷを三回ほどした。時間差でまぁまぁ臭い香りが漂ってきた。
「失礼。どこまで言ったっけ?」
「津島さんが父の写真を見て、一番引っかかったところです。」
「あ、そうだそうだった。講座ビジネスも育成ビジネスも多かれ少なかれ情報を売り買いするもので、根気よくやり続ける全体の二パーセントの人だけが勝つビジネスなんだ。この二パーセントの人種は元々そういうことを学習しなくても結果を出せる人なんだよ。」
結局津島さんが何を言いたいのかさっぱりわからない。着地点はどこにあるのか、何か奥歯にものが詰まっているようだ。
「その二パーセントの人が自分の実力を薫さんのお陰だと勘違いしてしまったらどうだろうか?」
「勘違いしたままならきっと問題にならない気がします。父は渡りに船のウハウハですよね。ダメなことですけど…」
「そうなんだ。克巳ちゃんの言う通り、でもその二パーセントがある時、これは薫さんの講座を受けて成功したんじゃなく、最初から自分の実力で開眼できていたことを後から知ったとしたら、薫さんを酷く恨むでしょう。」
「それもなんか違うような気がするけど、でもわかるような気もします。」
「そこにうん百万単位のお金が動いてるんだよ。お金は人のエネルギーが宿っているから、受け取る方も与える方も、額が大きくなるほど物凄いエネルギーがぶつかり合ってるんだ。ただ薫さんは違うんだよ」
「違うってどういう意味ですか?」
「薫さんのとこへは一円も流れていないんだ。」
「え、それってひょっとして…」
津島さんは何も言わず頷いた。やはりあの胡散臭い集会のスキンヘッドの男に違いない。
「克巳ちゃん、その上でね、こっちの写真を見てほしいんだけど…」
それは昨日付けのインスタの投稿だった。試験前だったので見てもいなかった。
「克巳ちゃんこのお城わかる?」
あいつがどこかのお城の前で女性と肩を組んで写っている。偽投稿にしては普段のゴージャス感がない。雰囲気からして大阪城や京都にあるお城でもなさそうだ。そもそもこの写真は本当のものなのか。
「ここに居場所が載っていて。どうやら薫さん今、小田原にいるみたいで。」
僕は小田原城が何県にあるかスマホで検索しようとした。
「実はここまでは前置きだったんだ。ごめん。実はとても言いにくい話なんだけど…」
津島さんは深い深呼吸をして、自分の顔を三回叩いた。
「俺が得意先から預かったお金を薫さんが持って行ってしまって。それ明後日までに納めないと、うちの仕事全部飛んでしまうことになるんだ。」
津島さんは繊維を扱った請負業務を個人でやっている。扱っている機器などもそろそろ交換の時期に来ているようで、その資金繰りで得意先の方から借りた大切なお金を、あいつがどうやら持ち逃げしたらしい。よくも自分の後輩にそんなことがやれたものだ。恥を知れ恥を。
「変なこと聞いてもいいですか、父は津島さんの大切なお金をどうやって盗んだんでしょうか?」
「一昨日の朝、事務所に急用があるからと突然ふらっとやって来て、俺がお茶を出そうと準備していたら、ごめん時間ないからもう行くわと言ってすぐ帰ってしまったんだ。薫さんずっとソワソワして何かおかしいなと思い、何気にテーブルに置いていた封筒を見たらそれがなくなっていて、まさかと思い、すぐ薫さん追いかけたら、ちょうど角のところを曲がる時、薫さん申し訳なさそうに頭を少し下げたんだ。その後携帯に何度か電話したんだけど全然出てくれないし、ひょっとしてしれっと家に戻ってるかなと思って…」
あいつにしては嬉しい誤算だっただろう。誰かからお金を借りようとしていた矢先、目の前にあったんだから。しかも理由も言わずに逃げ去るのは絶対に解せない。津島さんじゃなかったらもう指名手配だ。てかこれは完全に犯罪だ、刑事事件じゃないか。
「津島さん、こんなことを聞いて申し訳ないんですが、父は何にお金が必要なのでしょうか?」
もし女だと言われたら、もう母にも黙っていられないし、例の村八も含め滝の流れのように防ぐことはできなかった。
「これはあくまで憶測だけど、後ろにあいつがついていると僕は見ている。」
「例のスキンヘッドの人でしょうか?その野内から借金をしているってことなんでしょうか?」
「野内がお金に困ることはおそらくないと思う、人を騙し吸い上げたお金が湯水の如くあるはずだから。きっと野内の悪行の片棒を担がされていると思うんだ。」
「父が津島さんの百万を奪い、仮にそれを野内に上納し、後で幾らかをもらっていたとしたら、父は立派な犯罪者です。その時は迷うことなく父を法に裁いてもらいます。それから津島さんのお金は母とうちで絶対に何とかしますから。」
「ちょっと待って克巳ちゃん、この小田原城の写真をもう一度見てよ、何か気付かなかったかい?」
テンガロンハットにアロハとジーンズのあいつ、相手の女性は大きな麦わら帽子に白いワンピースを着てお互い肩を組んでいる。知り合いなのか気心を知った間柄のようだが。あいつよりも女性の方が堂々として写真慣れしている。よく見れると女性はまぁまぁ年配に見える。ひょっとしてあいつより年上かもしれない。
「克巳ちゃんはこの女優さん知らないかな?昭和を代表する女優さんなんだけど。薫さん今この女優さんと一緒にいるみたいなんだ。もう全然わけがわかんなくて…」
あいつの写真は大体が見栄を張るための、わざとらしいほどのゴージャス感で装ったフェイクものばかりだった。しかしここに映っているあいつは、小田原城をバックにあいつより年上っぽい女性と一緒に映っているだけでそれほど違和感はない。言われてみれば確かに芸能人ぽさを残していたが、正直言われないと気付かない程度だ。所謂芸能人というオーラを写真から感じることはなかった。
「平塚美佐子だよ。たくさんの名作に出ている往年の大女優だよ。二十年以上前にデュエットソングも大ヒットしたし、志穂さんなら絶対知ってるよ」
僕は昭和が生んだ佳きものはかなり好きな方だ。犬神家の映画、迷い道の渡辺真知子さんの曲、砂の器の俳優加藤剛さん、紳助竜介のお笑い芸人さん、当然平塚美佐子の名前は知っていたが出演作やヒットソングまでは知らなかった。それでひとつ、あることを思い出した。
「父がフェイスブックを始めたきっかけが、高校の時に付き合っていた女性が利用していたからで、長文メッセージを添えて友達申請したら、即ブロックされたと言ってました。その人の顔が平塚美佐子さんにとても似ていたと言ってました。それと何か関係あるんでしょうか?」
「いやぁないとは言い切れないけど、薫さんのことだから、それを野内に利用されてないことを願いたいんだけどね。」
長い付き合いだから、あいつの転職癖や起業難民癖、さらに女癖の悪さなど知っていることだろう。ひょっとして村八とのことも何か知っているかもしれない。でも側に母がいて寝込んでいるとはいえ、迂闊には聞けない。僕は今回の件に野内が絶対関与している気がしたがうまく整理がつかなかった。あいつは講座のローンや女に必要なお金を、母の箪笥預金や以前天空さんにも借りて返していなかったのだ。さらに津島さんから預かり物のお金を強奪し、小田原で女優さんと目的のわからない旅まがいのようなことをしている。
「なぁ克巳ちゃん、薫さんともし連絡が取れたら俺に至急連絡してくれるかな?俺も入用があって、どうしても明後日までに必要なんだ。こんなこと本当は克巳ちゃんに言うことじゃないのは重々わかっている。ほんとうにごめん。この通りだ。」
土下座をしようとする津島さんを止め、僕はすぐにあいつの携帯へ電話をした。呼び出し音もなく圏外のアナウンスが即流れた。すると母が布団から起き上がり玄関までやってきた。座頭市の決闘後のように、服もはだけ下着も丸見えだ。
「健ちゃん、こんな格好でごめんやで。話は全部聞かせてもろたわ。」
「志穂さんこんな時にすみません。どうぞ横になっててください。」
「かまへんかまへん、それでパパにいくら持っていかれたん?」
津島さんは人差し指を立てて、丸が六つと言った。母は無言で小さく頷いた。
「パパが今いる場所ならわかるで。ほら」
母はあいつのスマホにGPSを付けていた。
「こないだあんまり無視するもんやから、携帯に仕込んだったわ。これで追跡可能や。まだ小田原おるみたいやな。克巳、さっき天空さんからお金もらったやろ。それで小田原行ってパパ連れ戻してくるんや。今度ばかりはお母さん堪忍袋の尾が切れたわ。この件済んだらお母さんもいよいよ決心するし。頼めるか克巳」
「いや志穂さん、僕はお金だけ戻ってきたらそれでいいんですよ。植木家を崩壊させるためじゃないですから。薫さんもきっとわけあってのことだと思いますし。」
「健ちゃん、あんたはパパに昔輸血をしてもらった恩があるから強く言われへんねやろうけどな、それと今回の話は別腹や。パパのやったことは犯罪や。きっちり落とし前つけさせるし、最悪金は期限までに私がなんとかするからな」
母もあいつにかなりのお金を奪われ、腑も煮えくりかえっているだろう。母の怒りの矛先は今、平塚美佐子にもあると僕は直感で思った。ただのそこらの浮気相手なら母も勝てると泳がす余裕もあるだろう。しかし女優ともなると勝ち目がないと思ったのか、母の顔が熱に熱を帯びて、物凄い剣幕になり噴火してしまいそうだ。
「でもお母さん、うち期末あと二日残ってるけど…」
野暮なことを聞いてみた。
「そんなん行かんでええ。あんた普段家おるやんか、それにこれまでもテスト結構ぶっちしてるやん。それよりこっちの方が大事や。な、お母さんこんなになってもたんや。頼むわ克巳、力貸してーや。別腹あるやろ?」
さっきから母の別腹の使い方がよくわからなかった。
間違いなくクラスでは、あいつと村八の不倫がショックで僕が休んだと誤解されることだろう、でも遅かれ早かれだし、津島さんの泣きそうな顔を見てたら、ここは決心するしかなさそうだ。
今日の由里香たちの仕打ちを腹の底から憎んでいたが、そのきっかけは村八とあいつのせいだった。
やはりあいつが僕の父親でいる限り、僕の将来に恥という文字が永久的に付き纏うことになる。
僕は翌朝小田原へ向かう決心をした。これでやっと母と二人で暮らせるのだ。そしてあいつと絶縁できる。
縁が切れたらあいつが何をしようと関係はない。浮気しようと離婚しようと借金しようと、警察に捕まって獄中でのたれ死のうとも知ったことじゃない。これは家族が崩壊する話ではない。母と新しい家族をやり直す幕開けになる導入のところだ。深々と頭を下げて帰っていった津島さんの背中に、裏切りの後悔みたいなものを感じたが、そんな風に思わせるあいつが絶対に許せなかった。これまでになかった自分の闘志が、メラメラと湧いてくるのを肌で実感している。ねーちゃんの遺影がさらに僕を後押ししてくれているようだ。
いざ、小田原へ向かわん。僕はねーちゃんに肘ノックポーズをした。
「克巳、お母さんなあ、デンタル・ワシントンになるからな」
母はきっと、ベッドから動けない自分の代わりに現場にいるものに指示を送り、事件解決をする映画のことを言ってるのだろう。
「デンゼル・ワシントンね。歯医者と違うんだから。」
「誰が敗者やねん。お母さん負けへんで。」
「そっちじゃなくて、虫歯の方よ」
「いややぁ歯医者嫌いやわぁ。ぐいーんて歯削る音聞いただけで、きいてなるわー」
何れにしてもあいつは完全に犯罪者で、今、僕らの敵となっていた。
第五話へ続く
#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #長編小説#自活屋徳々#昭和
