よかった、困っていた人はいない
朝。通勤電車に揺られ職場に向かう。
ワタシが乗る場所、時間の電車はいつも20%ぐらいの確率で座れるのだけど、今日はその20%を引けた。ラッキーラッキーと思い空いているひと席に座る。横ではおっちゃんがガーガーといびきをかいて眠っていた。
電車が走り始め、おっちゃんの加齢臭に気づく。身体から滲み出ているのか大きく開いた口から流れてきているのか分からないけれど、特有の臭いがした。臭い、とは言わないでもウエッとなるような感じ。ワタシも行く道か、と何とも言えない哀愁を感じ、スマホで加齢臭の予防法を検索する。
降車駅に着き、ワタシが席を立つのと一緒におっちゃんも起きて立ち上がった。一緒に降りるのね。二つ空いたワタシたちの席は、この後知らない一人一人が座るのだろうか。それとも仲間の二人が座るのだろうか。いずれにしてもおっちゃん側に座った人は少し不愉快な思いをすることになるだろう…いや、もしかして自覚が無いだけでもうワタシからも発せられている!?であれば、二人とも不愉快な思いをすることになる。ごめん。
少し先の未来であの席に座る人々を案じながら電車のドアをくぐる。おっちゃんがワタシの後ろをついてくるのが臭いで分かる。
カシャーン!
と、乾いた音がした。後ろを振り返るとおっちゃんのスマホが正に落下し、くるくると回りながら電車とホームの隙間に吸い込まれていく。
明らかに狼狽えるおっちゃん。
「非常停止ボタン押してきますわ」
気づけばそのように発言するワタシ。
「え、あ、ありがとうございます」
返すおっちゃん。こういう時は本人よりも第三者の方が行動し易いことを知っているので、ワタシはスタスタと歩き非常停止ボタンを押す。非常停止ボタンが押されたから電車が止まる旨のアナウンスが流れ、駅員さんがワタシのところへ駆け寄ってくる。電車の非常停止ボタンをワタシが押すことなんて人生で無いと思っていたけれど、うーむ青天の霹靂。そんなことを頭の片方で思いながら、もう片方で状況説明をするワタシ。
駅員さんがおっちゃんのところに行き二、三言の会話の後でどこかに行く。少しして、妙な長物を持って現れる。とても長い蛍光ペンのようなモノ。それを使っておっちゃんのスマホは無事救出された。
こんなことそう滅多にないと思ったので、ワタシは一部始終を関係者の利でずっと見ていた。おかげで会社に遅れることになったが、ワタシの職場はフレックス勤務といって好きな時に働けばいいので(本来そういう趣旨の制度ではない)遅刻という概念は無い。
………いや、いやいや違う。
おっちゃんはスマホを落とさなかった。落下し回転したスマホは、ギリギリのところでおっちゃんに拾い上げられたのだ。ワタシは非常停止ボタンを押さなかったし、駅員さんも来なかった。長い蛍光ペンのようなモノって、なんだそりゃ。
あれ、いや違う。
スマホを落としたのはワタシ。非常停止ボタンを押してくれたのがおっちゃんだ。ワタシは今やっと手元に戻ってきたスマホを使って記事を書いている。スマホが線路に落ちていた時は生きた心地がしなかった。ここに重要なパスワードがどれだけ入っていることか。こんなことなら家のパソコンにバックアップを取っておくんだった。明日からどうやって生きていけばいいのだ。家族になんて言おう。そんなことを思いパニックになっていたワタシに、迅速に声をかけ対応してくれたのがおっちゃんだった。頼りになる人だ。
いや。そもそもおっちゃんなど居なかったのだ。ワタシは今日も80%の確率を引き、立ったまま電車に揺られた。満員電車にひしめく人間達が産んだ独特の臭いがワタシの鼻につき、このような妄想に至ったのだ。ワタシはまだ電車に揺られていて、降車駅はまだ先だ。誰かがスマホを落とさなければ良いのだけど。
これも違う。ワタシは今日最初から電車に乗っていない。在宅勤務なのだ。朝からリビングでパソコンに向い、仕事を始めている。
チビの食事に悪戦苦闘する妻に大変そうだねと笑いかけたら、笑ってないで手伝ってよ!と怒号を飛ばされた。ワタシは仕事をしているからと言ってみたけれど、どうせ朝はいつも暇やんけ知っとるぞと返される。実際その通りで、ワタシは今ありもしない妄想を頭の中で繰り広げ記事を書いているところだ。チビの離乳食を手伝い、その後歯磨きをしてあげなければ。チビは歯磨きを嫌がるので、アンパン男の人形で気を引きながら対応するのがコツ。
あれ、これもおかしい。
ワタシは確か、独り身だった気がする。愛する妻もチビも居ない。今日も一人で麻雀を打って、帰りにコンビニで酒と弁当を買ってアパートに帰っている途中だった。
いや違う。☀️なんてものは最初から存在していないのかもしれない。アナタが創り出した妄想の産物。アナタの潜在意識。アナタの世界に映るすべてのものは、アナタが創り出した夢想に過ぎない。
困っている人など誰もいなかったのだ。
☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️
存在しないワタシにチップを投げるというのはどういうことなのでしょう。金というのは?金もアナタが生み出した夢想でしょうか。
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