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獅子の仔 Ⅰ 002 マイア Ⅰ


マイア Ⅰ

誕生

 キャスタリーロックは巨大な岩塊であり、それ自体が一つの生き物のように呼吸をしていた。迷路のように入り組んだ無数の坑道を、海風が吹き抜け、まるで太古の獣が喉を鳴らすかのような低い唸り声を上げた。
 だが今夜、その巨大な獣の腹の底から響いてくるのは、下品な笑い声と食器が打ち鳴らされる騒音だった。
 マイア=ヒルは、石の冷気が染み込んだ回廊を急いでいた。手には銀の盆を持ち、その上には湯気を立てる薬草(鼠尾草セージ覆盆子ラズベリーなどの葉)の入った水差しと、煮沸された湯にさらされた清潔な亜麻布の山が載っている。
 熱湯を銀の盆の上に載せて何度も回廊を往復するうちに、疲労のために手首と肩が鉛のように重く感じられた。

 マイアは、ラニスポートのラニスター家の娘が、ある騎士と恋に落ちて産み落とした私生児だった。冷淡な実家の世話になることを嫌った彼女の母親は、赤子を抱いてこの巨大な岩山へ駆け込み、住み込みの侍女として生きる道を選んだ。そして、娘もまた、同じ道を歩むことになった。獅子の血族であるがゆえに城へ召し上げられ、私生児であるがゆえに召使いとして仕える。それが彼女の身分だった。
 それでも、母の助言と持ち前の機転のおかげで、若くして公妃の私室に近侍する要職に抜擢されたのだった。その自負が、マイアの背筋を支えていた。

(……うるさい。あまりにも)
マイアは唇を噛んだ。

 階下の「黄金の回廊」でかき鳴らされる音楽は、広間の吹き抜けや通気口を伝い、ここ上層の公妃の居住区にまで響いてきた。
 この宴は、本来ならば、出産を間近に控えた公妃を励ます祝宴となるはずだった。だが、公妃がひと月も早い陣痛を訴え、早産となったにも関わらず、タイトス公は客人を慮り、祝宴を予定通り開いたのだった。
 
 しかし、主賓である筈の公妃が難産に苦しんでいる最中だというのに、この馬鹿騒ぎはいったい何だというのか。
 
 手元の湯が冷めるのを気にながらも、マイアは回廊の曲がり角で足を止めずにはいられなかった。見下ろした大広間では、眩暈がするような煌びやかな光景が広がっていた。
 豪華な天吊りの硝子細工の大燭台シャンデリアや銀の燭台の上に何百本もの蜜蝋の蝋燭が燃え盛り、広間を昼間のように照らし出していた。蜜蝋の甘ったるい香りが、むせ返るような熱気とともに上層階にまで這い上がってくる。
 
 磨き上げられた鉄木アイアンウッドの長大な大食卓台は、漆黒の輝きを放ち、繊細な金糸の刺繍があしらわれた絹の食卓布の上には、隙間もないほどの料理皿が並べられていた。
 食卓台の中央には、苦悶の表情を浮かべたまま林檎を咥えた南部の猪の丸焼きが脂を滴らせ、その脇には黄金色の蜂蜜に漬け込まれた鶏の炙り焼き、「三叉鉾河流域の地」リヴァーランズから取り寄せた淡水魚の包み焼パイが、香ばしい湯気を立ち上らせている。ラニスポートで獲れたばかりの牡蠣が氷を敷いた大皿に山と積まれ、乳酪脂バターと大蒜で煮込んだカブと人参、松の実を散らした冷えた野菜の盛り合わせ、そして、アーバー島の白葡萄酒アーバーゴールド「赤砂の辺地」ドーン産の最高級の赤葡萄酒がまるで安酒のように無造作に客人の銀の高杯に注がれていた。
 宮廷楽士の「紅のモーリール」が、悪酔いしそうな甘ったるい声で美声を誇示したかと思うと、突如、調子を変えて、竪琴をかき鳴らした。そして、下品で騒がしい歌――『熊と美しき乙女』――を歌い出し、そのまわりを飛び跳ねる、宮廷の愚者フールガマガエル卿サー トードの手拍子に乗せられて、客人たちは、食卓を叩いての大騒ぎとなっていた。

 この馬鹿騒ぎの中心には、エリン=ターベック夫人がいた。
 早産で苦しむ公妃に遠慮する素振りすらなく、この宴の主賓のように振る舞っていた。
 輝くような銀糸の絹長衣ドレスは、蜜蝋の灯を反射して水面のように揺れ、開いた胸元には巨大な紅玉ルビーが光っている。白いうなじを魅せつけるかのように結われた赤髪に、白く整った美貌はむせ返るような芳香を漂わせていた。白い指で扇を広げるたび、取り巻きの男たちは彼女の笑い声に合わせて追従の笑いを返した。
 
 この宴で、「西部の守護者」タイトス=ラニスター公は、必死に笑顔を作って応じているようにみえた。
 彼は時折、耐えかねたように目を泳がせ、妻の私室がある上階層を、不安げに見上げていたが、その様子を楽しむかのように、エリン=ターベック夫人が肢体をすり寄せ、タイトスの太い腕を自らの胸元へ引き寄せた。逃げ道を塞ぐようにして耳元へ唇を寄せ、何かを囁きかけられると、タイトス公は身体を強張らせた。そして慌てたように手元の銀杯をひったくり、葡萄酒を飲み干すと、大声で笑ってみせるのだった。
 
 タイトス公は楽しそうには見えなかった。ターベック夫人が耳元で何か囁くたび、その笑顔は強張り、葡萄酒をあおっていた。
  
 マイアは唇を嚙むと踵を返し、再び石の階段を駆け上がった。上層階の公妃の私室の扉の前には、髭面の衛兵長が立っていた。彼もまた、階下から聞こえる喧噪に苦虫を噛み潰したような顔をしている。マイアと目が合うと、無言で顎をしゃくり、扉を開けてくれた。
 部屋の中に入り、扉が閉まると、そこは別世界のように静まり返っていた。蒸し暑いぐらいの湿気と、鉄錆びのような血の匂い、饐(す)えた汗、そして痛みを和らげるために焚かれたケシの甘い香りが充満していた。

「……ジェイン様」
 マイアは駆け寄り、冷たい布で主人の額を拭った。寝台に横たわるジェイン=ラニスターは、いつもの美貌が嘘のようにやつれ果てていた。銅色の髪は汗で肌に張り付き、唇は乾いてひび割れている。

「あの人は……タイトスは……」
 公妃が掠れた声で尋ねた。その目は虚ろで、天井を見たまま、焦点が定まっていない。

「……広間におられます。お客様をもてなしておいでです」
 マイアは言葉を選んで答えた。

「皆様、お世継ぎの誕生を心待ちにして、祝いの準備をしておられますよ」

「そう……あの人は、優しいから……」
 公妃は力なく微笑んだ。彼女は夫が来ない理由を誰よりも良くわかっていたのだ。

 その直後、再び巨大な痛みの波が押し寄せたのかジェインの背中が弓なりになり、喉の奥から獣のような絶叫が漏れた。長い、長い夜だった。
 蝋燭が燃え尽き、新しいものに取り替えられるたびに、希望が削り取られていくようだった。学匠メイスターのベルドンが声を張り上げ、産婆たちが湯を運び、マイアが公妃の背中を支え続ける中、ようやくその時が訪れた。

 鈍く水気を帯びた音と共に、血と羊水にまみれた小さな塊が、敷布の上へ滑り落ちた。
 産声はなかった。
 部屋に重苦しい沈黙が流れた。階下の馬鹿騒ぎの喧噪と音楽が遠くから聞こえる。学匠が素早く処置をし、鉄の鋏で、へその緒を切る。その顔には焦りの色が浮かんでいた。

「……息をしていない。仮死状態だ」
 マイアは濡れたままの赤子を受け取り、暖炉の前へ走った。小さい。あまりにも小さい。予定よりもひと月以上は早いだろう。未熟児だ。透き通るような白い肌の下で、青い血管が網目のように浮き出ており、小さな心臓が弱々しく打っているのだけが救いだった。そして、産毛のような頭髪は、父のような金色でも母のような銅色でもなく、月の光のような銀色をしていた。マイアは布で赤子の背中を強くこすった。

(お願い、息をして……)
 彼女は自分の体温を移すように抱きしめ、祈るように背中をさすり続けた。
 一分、二分。永遠のような沈黙の後。冬の隙間風が鳴るような、ひどく掠れたかすかな呼吸音が漏れた。続いて、弱々しい咳き込み。

「生きて……おられます!」
 マイアが叫ぶと、学匠メイスターベルドンも弾かれたように身を乗り出し、小さな鼻先に耳を寄せて確かな呼吸を感じ取った。

 その時、部屋の扉が遠慮がちに開かれて、タイトス公が入ってきた。顔は酔いで赤く染まり、足取りも少しふらついている。息は酒臭い。だが、その表情には明らかな焦燥と心配の色があった。

「ジェイン! 無事か!」
 彼は血の匂いにも構わず寝台の横に駆け寄り、妻の手を握った。

「すまない、抜け出せなくて……痛かったろう、よくやってくれた」
 その目には涙さえ浮かんでいる。この思いに嘘は無いのだろう。いつもそうだ。彼は誰かの顔色を窺っていない瞬間だけは、妻を想う夫だった。

「……あの子は?」
 マイアが布に包んだ赤子を差し出すと、タイトスは、おずおずと覗き込んだ。

「……小さいな」
 彼の顔が曇った。期待していたような、丸々と太った健康な世継ぎではなかった。

「ベルドン、この子は生きられるのか? あまりに弱々しい」
 タイトスは露骨な聞き方をした。

「最善を尽くします、閣下。ですが、予断は許しません。今夜は注意深く見守ります」
 学匠メイスターは深々と頭を下げたが、安心させるような言葉を言うことはなかった。

 タイトスはその回答に動揺したように視線を泳がせた。
「そ、そうか……広間では皆が待っている。皆、祝いたがっているのだ」

 彼は妻の手を離し、立ち上がった。
「すまぬが、私が戻らねば、場がしらけてしまう。……ジェイン、私は行くよ。皆に「元気な男の子だ」と伝えれば、きっと祝いの気が満ちて、この子も元気になるはずだ」

 ジェインは何も言わず、ただ静かに目を閉じた。

「名前は……そうだな」
 タイトスは赤子をもう一度見て、無理やり明るい声を出そうとした。

「小さくて、少し頼りないが、ティルトでどうだ。響きが少し変わっているが、愛嬌がある」

「よし、そうしよう。ティルト=ラニスターだ。……ジェイン、しっかり休むんだぞ。ベルドン、頼んだぞ」
 学匠は黙って頭を垂れた。タイトスは去り際、妻の汗ばんだ額に、葡萄酒の臭いがする口付けを落とした。
 それは今のジェインにとって、愛撫というよりは、暴力だった。

 タイトス公は無言の妻から目をそらすようにして部屋を出て行った。扉が開いた瞬間、階下の喧噪が一気に流れ込み、閉ざされるとまた、部屋に静寂が訪れた。
 マイアはタイトス公の退出を見送るため、廊下に出て、その後ろ姿にお辞儀をした。
 顔をあげて、ジェインと赤子のもとへ戻ろうしたとき、ふと廊下の奥に視線をやると、暗がりに立つ小さな少年の姿があった。
 ジェインとタイトスの長子、タイウィンだ。少年は階下の喧噪をじっと見下ろしていた。傍には弟も連れている。

「元気な男の子だったよ! 乾杯だ!」
 階下から、タイトス公の大きな声が聞こえ、湧き上がる歓声が続いた。彼は今夜も不安と心配を紛らわせるために、誰よりも大声で笑い、誰よりも多く飲むのだろう。

 父親と宴を見下ろす少年の緑色の目からは、いかなる感情も読み取ることはできなかった。少年はマイアを一瞥すると、踵を返し、廊下の奥の闇に消えた。弟もその後を追って闇に消えた。

 マイアが公妃の私室に戻ると、学匠が部屋の温度や布の煮沸消毒の指示を産婆たちにしていた。
 マイアは赤子を受け取り、腕の中の今にも壊れてしまいそうな小さな命を見下ろした。ティルトと名付けられたその子は、泣いていなかった。彼は先ほど開いたばかりの瞳で、じっと虚空を見つめていた。その瞳は、生まれたばかりの赤子特有の濁りがなく、不気味なほど澄んだ薄い緑色をしていた。

「……奥様」
 マイアは震える声で言った。

「見てください。この子は……泣きません」

 ジェインが弱々しく手を伸ばした。マイアはその小さな包みを母親の腕に渡した。
 ジェインは指で、息子の頬を撫でた。
 すると、赤子の小さな手が、母親の指を握り返した。生きようとする意志の塊のように。

「……ティルト」
 ジェインは囁いた。

「いい名前よ。……世界が傾いているのなら、お前がそれを正しなさい」

 「日没の海」サンセット シーから吹き付ける潮風は強さを増し、岩山は再び唸り声を上げ始めた。呼応するように遠くで雷鳴が轟いた。
 母親はやつれた顔を上げて、祈るように目を閉じた。


(002 マイア Ⅰ 完)


煤けた石 第一部 獅子の仔 第一編 ゆりかごの宣誓 
002マイアⅠ(002 傾いた世界)
248 AC・夏(末期) / 西部・キャスタリーロック
POV:マイア=ヒル (Mya Hill)


【本作は「氷と炎の歌」のファンフィクションです】
 原作者のジョージ・R・R・マーティン氏、および関連する出版社・映像製作会社等の権利者様とは一切関係がありません。
 本作は「氷と炎の歌(A Song of Ice and Fire)」の世界観をベースにした非公式のスピンオフ作品であり、原作の五十年前の時代(征服暦248年以降)の七王国西部ウェスターランズを独自の解釈で描いています。


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▢ 設定資料・目次はこちら





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