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Virgin Prunes ― 無秩序の音楽と新しい美の形式

― 死霊の館のおもちゃ箱のような美と混沌 ―


■ 異形のロック、祈りのような狂気

ヴァージン・プルーンズを初めて聴いたとき、私は“音楽”というより、どこかの死霊の館の中でおもちゃ箱が勝手に鳴っているような、不気味で、しかし目を離せない体験をした覚えがあります。幼児性と硬派な先鋭性が交互に顔を出し、整合も調和も拒絶する。
それでいて、彼らの作品には確かに「人間的な痛み」があります。私はこの“枠にはまらない”感覚に強く惹かれてきました。



■ 「Come to Daddy」―異形のリフ構築

「Come to Daddy」はハードロック的なリフを軸にしながら、そのリズムはあえて崩され、拍の感覚がゆがんで聴こえます。
人間が無理に機械の真似をしているような、生々しい“人力メカニズム”。
ヴォーカルは愛と恐怖、官能と祈りが渾然とした声で、まるで儀式の叫びのようです。
この曲では「秩序を組み立てるための破壊」が明確に意図されており、BauhausやThrobbing Gristleが持っていた硬質さを、さらに肉体的な方向に推し進めています。


■ 「Sad World」―抒情と静かな狂気

「Sad World」は、ヴァージン・プルーンズの中でも最も抒情的で在りながら激情をも感じられる稀有な楽曲のひとつです。
ゆっくりと始まるピアノから、ベースが加わり、叩きつけるようなビート、そしてGavin Fridayのモノローグのようなボーカル。
ここには、宗教を失った聖歌のような冷たさが漂います。
それはJoy Divisionの絶望とは異なり、“静寂の中で狂気に至る一点”に留まろうとする音です。
美しいのに、どこか人のいない教会に立たされているような、恐ろしく透明な時間が流れています。


■ 「Beast」―怪物の咆哮の音楽化

「Beast(Seven Bastard Suckers)」では、人間が獣へ堕ちていく過程が音そのものとして描かれます。
ドラムとベースは鉄の箱の中で鳴るような圧迫感、ヴォーカルは咆哮と嗚咽のあいだをさまよい、
ノイズやリバース・テープが身体の中で血流のように回転します。
これは恐怖の再現ではなく、“存在の暴走そのもの”を音で表現した試みです。
ノイズが単なる外部音ではなく、「内側から漏れ出した声」として響いてくる瞬間――ここに、彼らの本当の“美”が宿っています。


■ テープ作品の特異性 ― “ホラー”ではなく“儀式”

『A New Form of Beauty』期のテープ作品は、ホラー映画のサウンドトラックというより、
むしろ劇中の効果音や精神の断片をそのまま切り取ったような作品でした。
環境音、逆回転、子供の声、どこから聞こえてくるかわからないノイズ。
それらは恐怖を演出するためではなく、「恐怖の構造そのものを聴かせる」ために存在していました。
現実と幻覚のあいだを自在に行き来する音響――それは、CoilやNurse With Woundらと連なる系譜の原点でもあります。


■ 北村氏「無秩序の音楽」に見る核心

日本でヴァージン・プルーンズが紹介された最初期の重要な文章に、北村氏による『フールズメイト』誌の「トータル・パフォーマンスへの試みⅡ―無秩序の音楽」があります。
北村氏は1979年の彼らの登場を「クラッシュの対極に位置するライヴ・アート」と呼び、音楽ではなく行為そのものに焦点を当てました。

北村氏は、デビュー作『Twenty Tens / Revenge / The Children Are Crying / Grey Light』を評して、

「ダブリンの郊外の不気味な化物屋敷に連れ込まれたようだ」
と書き、その音楽を「偶然の中でプログラムされる声と音響の異化と細工」と捉えました。
B面の「The Children Are Crying」を“環境的なストラクチャー”として描き、
音が建築物のように立ち上がる瞬間を的確に捉えています。


■ ライヴ・アートとしてのヴァージン・プルーンズ

北村氏はまた、ヴァージン・プルーンズのステージを「フリー・ミュージックでも演劇でもなく、またそのどちらでもある“ライヴ・アート”」と呼びました。
彼らは、音楽を“安全な娯楽”にすることを拒み、
むしろ不安や混乱そのものを“作品の素材”として提示していたのです。
これは単なる反逆ではなく、カトリック的秩序の中で育った若者が、秩序を壊すことで霊的自由を求める試みだったのではないでしょうか。


ツインボーカル

■ 『A New Form of Beauty』―聖と異端の混淆

北村氏は『A New Form of Beauty』を「前代未聞の大規模なマルチメディア・パフォーマンス計画」と呼び、
それを「文明社会の制度性の外部に放逐された人間精神の表現」として読み解きました。
そこでは、“もののけ・幽鬼・狂人・乞食・畸形者”といった存在が、神聖性の象徴として再構成されています。
つまり、ヴァージン・プルーンズは“醜いものの中に潜む本当の美”を見出そうとしていたのです。

北村氏の言葉を借りれば――

「好きなものが醜く映り、嫌いなものが美しくなる。それこそ〈新しい美の形式〉なのだ。」

これはGavin Fridayの実際の発言と呼応しており、
音楽的な無秩序は、単なる実験ではなく「美の再定義」のための行為だったことがわかります。


■ 無秩序の中の聖性

北村氏は最終的に、ヴァージン・プルーンズを「異教の天使」「殉教者」とまで呼びました。
それは詩的誇張ではなく、音楽の中に宿る宗教的純粋さ――
つまり、“神なき時代における祈り”を見抜いた批評だったのだと思います。

『Sweet Home Under White Clouds~Sad World』における切迫した叙情、
『Beast』における原初的咆哮。
これらはまさに「無秩序の音楽=聖なる混沌」として響いています。


Heresieは10inch2枚組の箱入り ビジュアルは某背徳的映画から

■ 結語 ― 醜さの中の美へ

私が惹かれ続けてきたのは、この“醜さの中の美”でした。
ヴァージン・プルーンズの音楽には、恐怖でもノイズでもない、存在そのものを鳴らす力があります。
北村氏の批評が指摘したように、それは音楽ではなく、行為と感情のパフォーマンスなのです。
美しい少女の笑顔も、怪物の叫びも、彼らの中では同じ音として鳴っている。
その無秩序こそが、「新しい美の形式」――Virgin Prunesという異形の芸術が目指した場所だったのでしょう。


■ あとがき ― 夢遊病者たちのステージ

当時の私は、プルーンズの持つ無邪気な恐怖感にとりこになっていました。
映像作品で、夢遊病者のようにステージをふらふら歩くギャヴィンとグッギーの姿に、ただくぎ付けになったものです。
そこにはロック的な熱量ではなく、お化け屋敷に迷い込んだかのようなシアトリカルな空気が充満していました。
その後、プルーンズはワイアーのコリン・ニューマンによるプロデュースで音の世界観を整理していきますが、
アルバム『If I Die, I Die』のA面には、過去作を明快にしたようでいて、なおも恐怖を思わせるサウンドが漂っていました。
このアルバムを私は長く愛聴しており、そこに流れる耽美と退廃の均衡が、のちに広がるポジティヴ・パンク(ポジパン)系の世界観へと直結していったように思います。


※参考文献:北村氏「トータル・パフォーマンスへの試みⅡ―無秩序の音楽」『フールズメイト』1982年号


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