感謝は、まず心が動くこと ― 新社会人に、最初に渡したい一冊
新しく、「本を手渡す」連載を始めることにした。
誰に、どの本を、どんな順番で渡すか。ずっとコンサルティングの現場で感じてきたのだけれど、難しい本を、いきなり渡しても、たいてい伝わらない。そして、伝わらないものは、実行されない。だからこの連載は、いちばん土台になるところから、一段ずつ始めたいと思う。
一冊目に選んだのは、スコット・アランさんの『GRATITUDE(グラティチュード)感謝の習慣』。新入社員や、働きはじめてまだ間もない人に、最初に渡したい本だ。
正直に言うと、私は社会人のスタートで、みごとに躓いた人間だ。せっかく税理士の資格をとったのに、いざ仕事を始めてみたら、細かい作業でミスを連発して、だんだん心が萎えていった。もっと昔、学生時代にやったマクドナルドのアルバイトでも、オペレーションがなかなか覚えられず、まわりにずいぶん迷惑をかけた。要領よく立ち回れるタイプでは、まったくなかったのだ。
そんな自分を振り返って思うのは、あのころ足りなかったのは、能力よりも先に、目の前のありがたさに、心を動かす余裕だったな、ということだ。
この本には、感謝には「習慣」や「技術」の側面がある、と書かれている。脳の回路の話も出てくる。感謝をするたびに、脳はドーパミンやセロトニンを出す。それを繰り返しているうちに回路が太くなって、やがて意識しなくてもできる「自動モード」になっていく、と。たぶん、それは本当なのだと思う。
でも、私がこの本を新入社員に渡したい理由は、じつはそこではない。技術の話の、もう一つ手前にある「まず、心が動く」という一点を、大事にしてほしいからだ。
「ありがとう」は、口先の技術ではない。だれかに何かをしてもらって、胸のあたりが、ほんの少しあたたかくなる。その心の動きが先にあって、言葉は、あとからついてくる。順番を逆にして、言葉だけがうまくなると、それはただの潤滑油になってしまう。感謝が「技術」だと聞いて、なんとなく反発を覚えるとしたら、その感覚のほうが、たぶん正しい。
では、習慣は何のためにあるのか。私は、心を錆びさせないためだと思っている。
忙しくなると、人の心は、驚くほど簡単に動かなくなる。ありがたいことが目の前にあっても、素通りしてしまう。感謝を習慣にするというのは、心を機械にすることではなくて、心が動く回数を、意識して増やしておく、ということだ。料理でいえば、下ごしらえのようなもの。動くのは、あくまで心のほうだ。
だから、新入社員のあなたに、こう伝えたい。
最初の一年、仕事はたぶん、思うようにはいかない。私がそうだったように、覚えられないこと、うまくできないことのほうが、ずっと多いはずだ。そのとき、自分を責めすぎないために、目を向けてほしいものがある。「欠けているもの」ではなく、いま「持っているもの」のほうだ。
教えてくれた先輩がいること。今日、ここまではできたこと。この本の言葉を借りれば、それに気づいて、心が少し動くこと。それは、無理にポジティブぶることでも、ごまかすことでもない。機嫌よくいられる人のまわりには、自然と人が集まってくる。教えたくなる。応援したくなる。私は現場で、それを何度も見てきた。
以前、あるお客さんの会社に、決して器用とは言えない若手がいた。仕事はゆっくりで、ミスもした。でも、その子には一つだけ、はっきりした習慣があった。何かしてもらうたびに、相手の目を見て「ありがとうございます」と言うのだ。わざとらしくなく、ただ、まっすぐに。
一年後、その子のまわりには、面倒を見たがる先輩が何人もいた。忙しいはずのベテランが、なぜかその子にだけ、時間をかけて丁寧に教えていた。器用さで先を行っていたはずの同期より、その子のほうが、ずっと遠くまで行きそうな気配があった。
その「ありがとうございます」が効いたのは、それが技術だったからではない。心がこもっていたからだ。まっすぐで、嘘がなかったから、まわりの人の心も動いた。もし同じ言葉を、形だけで言っていたら、きっと逆効果だっただろうと思う。
もし、この本を手に取るなら、一つだけ、明日から試してほしいことがある。
寝る前に、その日「心が少し動いた瞬間」を、三つだけ思い出してみること。大きなことでなくていい。電車で座れた。先輩が一言かけてくれた。昼のごはんが、思いのほかうまかった。それくらいで、じゅうぶんだ。
これは、感謝を鍛える筋トレというより、忙しさで置き去りにしてしまった心を、一日の終わりに、そっと拾い直す作業に近い。続けているうちに、日中でも、心が動く瞬間に気づきやすくなっていく。
弓場隆さんの、やわらかい訳も相まって、この本はとても読みやすい。難しい経営書を開く前に、まずここから始めていい。むしろ、ここから始めたほうがいい。
最後に、一つだけ問いを置いておきたい。
あなたが最後に、誰かに、まっすぐ目を見て「ありがとう」と言ったのは、いつだろうか。
もし思い出せなくても、あなたの心が冷たいわけではない。ただ、立ち止まって、心を動かす余裕が、なかっただけだ。かつての私も、そうだった。だから明日、心が動いた瞬間を三つ、そっと拾うところから、一緒に始めてみませんか。
――「対象別・学びの階段」第1回。次回は、若手のうちに身につけておきたい「不安との付き合い方」の一冊を取り上げます。
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