ペンギンになってちょっと良かったこと

夜明け前、ふと目をさますと、体がペンギンに変わっていた。身長もぐんと縮み、着ていたパジャマの袖も裾もたぷたぷに余っている。
半年ほど前から、体が突然ペンギンに変わる不思議な病(通称ペンギン病)が巷を騒がせており、テレビのワイドショーやニュースの恰好のネタになっている。罹患した場合、押さえておくべきポイントは大きくふたつ。ひとつ。症状はエキセントリックだがペンギン病は完治する、慌てないこと。ふたつ。体がこれだけ変わってしまうと、支援を受けずに健康と生活を維持するのは難しい、各種支援はためらわず申請すること。
支援を受けるには「ペンギン病サポートセンター」に電話をかけて発病を知らせる必要がある。僕はトテトテと左右に揺れながら歩き、ダイニングテーブルに放置してあるスマホにたどり着く。が、そこからが少し大変だった。手羽にはスマホが反応しない。液晶画面を傷つけないようにそうっとクチバシの先端で画面をタッチしたけれどやはり無反応。色々と試行錯誤の末、タッチペンを咥えて首を上下左右に動かすという方法を編み出してサポートセンターの番号を検索し、電話をかけることに成功した。
「お待たせしました。ペンギン病サポートセンター、担当上原です」
午前4時には不似合いなくらい健全ではきはきとした女性の声がした。いつ発病するかわからないのでペンギン病サポートセンターは24時間営業である。
「こんにちは上原さん。実はペンギン病を発症しました」
寝起きのかすれた声で報告すると、「ああ」と女性は一瞬気の毒そうな声を出してから、気を取り直したようにてきぱきと続けた。
「ご発病ですね、お見舞い申し上げます。症状の確認のためにいくつか質問をさせていただけますでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます。まず姿形ですが、ペンギンへの変化をどの程度確認できますか?」
「100%完全にペンギンです。種類でいうと皇帝ペンギンですね。元の体のパーツは一つも見当たりません」
「身長はいかがでしょうか?元のご身長と比べて、大きくなった、小さくなったなどありますか?」
「ぐっと小さくなりました。元は175センチですが、今は、1メートルあるかないか、動物園でよく見るペンギンサイズです。あの中にまぎれこんでも違和感がないくらいに、姿形、大きさ、すべてが皇帝ペンギンです」
「姿形は100%ペンギン化しているのですね。承知しました。でも、お話するには支障ないようですね。お食事はいかがですか?今日はもうお取りになりましたか?」
「いえ、まだ」
「どんなものを食べられそうですか?普段通りのお食事は取れそうですか?」
普段の朝食をイメージしてみる。朝は和食だ。ご飯と味噌汁。それに焼き魚。フルーツを少し。どれも食べられそうな感じがする。
「承知しました。中身はご本人さまのままのようですね。ご体調やご気分はいかがですか?」
「問題ありません。良好です」
「それは何よりです。私からお伺いしたいことは以上になりますが、このあと医師の診察を受けてください。ペンギン病の公認指定医をご紹介します。診察はオンラインと対面がお選びいただけます。オンラインでの診察のほうが早くご案内できますのでオススメですが、対面をご希望されますか?」
「オンラインで結構です」
通院は面倒そうだ。ペンギン病は知れ渡っているとはいえ、この姿で街を歩いたら目立ちそうだし、この短い足では歩くスピードは格段に遅そうだ。かといってペンギンをタクシーに乗せてくれる運転手がいるかどうかもわからない。
「わかりました。オンライン診察でお探しします。保険証番号とお名前をお知らせください」
僕は再びトテトテと歩いて財布までたどり着き、どうにか保険証を取り出して番号を告げると午前5時半に予約が取れた。医師もコールセンターと同じく24時間体制でシフトを組んでいるそうで、早朝は空いているらしい。
「お伺いした内容は担当医師にも引き継いでおきます。どうぞお大事になさってください。ペンギン病は症状がドラマティックではありますが、国内では完治しなかった事例はありません。少しお時間はかかるかもしれませんが、辛抱強くご療養ください。お早い回復を祈っております」
上原さんは温かみのある声で気遣ってくれ、電話は切れた。
一仕事終えるとお腹が空いた。オンライン診察までの間に何か食べてしまおうと慣れないボディで奮闘したが冷蔵庫から食材を取り出して電子レンジで温めたところまでで時間切れとなった。この体では何をするにも10倍くらいの時間がかかってしまう。
「おはようございます。担当医の袴田です。あらあら、本当に100%変化ですね。色々と不便でしょう。お察しします」
画面上に現れた男性医師は僕を見るなり気の毒そうな表情になった。そういう彼の顔もかなりげっそりしており、昨今の忙しさがうかがえる。昨日のワイドショーではペンギン病の公認指定医は日本には五人だけしかおらず、昨今の患者の増加に伴いほとんど休みなく対応に追われて多忙を極めていると報じられていた。
「サポートセンターから問診の内容は受け取っておりますが…ええと、西園寺さんですね?外見100%で中身はそのまま、と。ふむふむ。体調は良好、これは良いサインです。頭痛やめまいを訴える方もいらっしゃいますからねえ」
袴田医師は別の画面を確認しながらにっこりと笑った。
「眠気はどうです?ありますか?」
「起きたばかりなので今は特に」
「もしかしたらそのうちものすごく眠くなるかもしれません。個人差はありますが、大体2−3時間おきに起きていられないほどの睡魔に襲われる方が多いんです。眠ったほうが回復は早くなることが多いですから、眠くなったら眠れるだけ存分に眠ってください」
「薬、というか治療法はないのでしょうか?」
「ペンギン化をどうにかする薬は残念ながらありません。時間が解決する病気です。ペンギン病の治療を騙る健康食品やらサプリメントは出ているようですが、明確なエビデンスを持たない、似非科学ですから手を出さないでくださいね。三食きちんと食べて、栄養をきちんととって、よく寝て、ほどよい運動をする。そんな生活を心がけてください」
「どのくらいで元に戻りますか?」
「これも個人差はあるのですが、大体7日から10日くらいですかね。私が診た中での最短記録は3日ですが、その方は変化の度合いも少なかったんですよ、西園寺さんのケースだともう少しかかるんじゃないかな。あくまで推測ですが」
「わかりました」
「診断書はすぐにお送りします。で、このあと動画を流します。7分くらいかな。各種支援や保険の申請方法、生活のアドバイスなどお役立ち情報満載だそうですから、みてみてください。では、私はこちらで失礼します。お大事に。体調など何か不安なことがありましたらいつでもサポートセンターにご連絡ください」
女子みたいに朗らかに両手を振る医師の映像がぷつりと消えると動画が始まった。各種支援の説明を一通り聞く。僕の場合、話すのは支障ない。ケアすべき対象(小さな子供や高齢者など)がいるわけでもない。職場の有給休暇は余っているので経済的にも困らない。今のところ僕に適用されるのは食糧支援だけだった。
動画がおわると手羽とクチバシを駆使しながら食糧支援と保険の申請を済ませ、勢いで会社の上司にもペンギン病でしばらく療養する旨、診断書を添付してメールを送信した。ペンギン病には特別休暇が与えられると以前会社から説明があった。
普段なら10分程度で済む作業に2時間以上を要した。とっくに夜は明けており、閉じられたカーテンの隙間からまばゆい光が差し込んできている。クチバシと手羽でカーテンを開けると極上の晴天で空が青くて高い。すでに時計は8時半を指していた。
「あー、西園寺さんもかかっちゃいましたかあ」
メール送信のあと、念のため会社に電話をすると部長秘書の山本さんではなく新人の桂木くんにつながってしまった。やたら大きな声で話すのでこういう報告には不向きな相手である。
「隣の部の本城さんもお休みでどうやらペンギンになっちゃったみたいっす。秘書の山本さんですか?なんかまだ来てないんすよ。この時間来てないのってレアっすよね。まだ連絡ないんすけど、山本さんもペンギンっすかねえ。うちの会社、蔓延っすねえ。え?あ、はい、了解っす。部長、今会議中なんすけど伝えます。お大事にっす」
電話を切るととたんに強烈な睡魔に襲われた。ベッドまで歩いて行くのも億劫で、僕はそのままソファにぱたりと倒れこんだ。
玄関の呼び出し音に起こされた。インターホンの画面では制服姿の男性が大きめの段ボール箱を抱えている。
「お荷物です。玄関前でいいですか?」
配達員はそっと言ってドアの向こうに荷物を置いていった。遠ざかっていく背中がインターホンの画面に映り、エレベーターに乗り込んだのを確認すると僕はそっとドアを開け素早く荷物を家の中に蹴り入れた。数時間前に頼んだばかりの支援食糧がこんなに早く届くとは驚きだ。
ペンギン病は伝染しない。したがって罹患者に行動制限は一切課されていない。しかし、ペンギンボディで買い物に出るのは無理でしょうという観点から自治体から食糧支援が行なわれているのはありがたい。感謝しながらクチバシにカッターナイフを咥えて開封すると、主食、おかず、お菓子など調理せずに食べられる常温保存の食材のほか、ペンギン生活を楽にしてくれそうなお役立ちグッズ類(レトルトを開封/密封できる機械、咥えやすい太めのタッチペンなど)も入っていた。
せめて家事でもしようかと一応トライしてみたもののペンギンの姿では何もかもが難しい。短い足は移動に手間取るし、慣れないのですぐに転ぶ。掃除も片付けも。身長が半分程度に縮んだせいで掃除機は長すぎるし、高い棚のものも取れない。両方の手羽はものを挟むのがせいいっぱいでしっかり握ることは無理だ。
「これはもうしょうがないな」
早々に諦めてごろんと横になって天井を見上げた。ほどよい運動をしろと医者は言ったが、この姿で何ができるというのだろう。
春日井さんから連絡があったのは発症から3日後、支援食糧に飽きて、通販サイトを物色していたときだった。相変わらず100%皇帝ペンギンの姿のままだったが、このころになるとスマホの操作だけは格段に速くなっていた。
「春日井と申します。西園寺さんでしょうか」
声には聞き覚えがあったが、名前には心当たりがなくしばらく黙って考え込む。
「あの、御社に伺っている、ヤクルトレディです」
「ああああああ、お世話になっております」
「こちらこそお世話になっています。あの、ペンギン病でお休みされていると聞いたのですが」
ヤクルトレディにも知られているのか驚いたが、
「いえ、あの、新人さんの電話の声が聞こえてしまいまして」
といわれて納得する。声の大きな桂木くん。彼が喋れば全フロアに広まる。毎日会社に来るヤクルトレディさんの耳にだって当然入るだろう。
「ペンギンの姿では色々とお困りかと思って。私、近所なものですから、お手伝いすべきと思って」
お手伝いしましょうか?ではなく、お手伝いすべきと強い言葉で春日井さんは言った。
「近所なんですか?」
「はい。同じマンションですから」
なにをいまさらという感じでさらりと春日井さんは言うのだが、僕は全然知らなかった。いつの間に春日井さんは僕を見つけていたのだろう。
「黙っていてすみません。何度かお見かけしていましたがマンションで声をかけるのはためらわれまして、しかし、会社でお知らせするのも憚られて、西園寺さんが気付くのを待っておりました、私は8階に住んでいます」
「ああ、なるほど。僕は6階です」
「602号室ですよね、存じ上げております」
何でもないことのように春日井さんは言った。おそれいった。
「そのお身体では色々とお困りかと思いまして。家事とか。買い物もしていきます」
思いがけない人からのオファーに僕が沈黙してしまうと、
「私、厚かましいですか?」
と、春日井さんがたたみかける。
「いえいえ、厚かましいなんてとんでもないです。ありがたいです」
「では伺います。何か食べたいものはありますか?」
まっすぐな親切に観念して、僕は流れに乗ることにした。
「アイスクリームが食べたいです。ソフトクリームみたいな柔らかいやつ。あとヨーグルトと牛乳も。食糧支援はうけたんですが、冷蔵品が皆無で」
「ああ、そうでしょうね。わかりました。冷蔵品中心でもっていきます。2−3時間でそちらに行けると思いますが、本日のご都合は?」
「何もありません。家にいます。恐縮です。とても助かります」
春日井さんとの電話を切るとまた強烈に眠くなった。お客さんが来るのだから部屋を片付けた方がいいんじゃないかと思ったが何もできないまま睡魔に負けてソファに倒れこんでぐっすり眠り、春日井さんの来訪を知らせる呼び鈴の音で慌てて飛び起きた。下半身がなんとなくスースーする。
「わわ」
思わず声が出た。下半身、なんとまるっと人間に戻っているではありませんか。ペンギンボディにはサイズが合わないズボンやパンツを脱いでしまっていたので完全無防備な下半身、つまり裸状態。ちらっとインターホンの画面を見ると、直立不動の春日井さんが映っている。
「少々、少々、お待ち下さい」
僕は急いでパンツとズボンを履き、一応上半身にもざばっとシャツを羽織り玄関に向かった。
「あの、ドア、開けたほうが良いですか?」
ドア越しに尋ねる。感染性はないとわかっていても、発症原因が不明のためペンギン病患者との接触を嫌う人もいると聞いた。
「はい。ご都合良ければ」
迷いなく春日井さんは答えた。僕は鏡を見る。弱そうなケンタウロスみたいに半分ペンギンで半分人間の僕。足が元に戻ったので格段に歩きやすくはなったけれど全身ペンギンだったときよりも見た目はむしろシュールである。
「あの、びっくりすると思いますが、半分治ったというか、なんというか、やたら中途半端な感じで」
「大丈夫です。本件に関してはよく存じ上げておりますので、お気遣いなく」
毅然とした春日井さんの言葉に勇気を得て、僕はがしゃりと音を立てて解錠し、そのまま玄関の奥に立って春日井さんを待った。
「こんにちは。おじゃまします」
私服の春日井さんは少し雰囲気が違っていた。いつもは後ろでひっつめている髪を下ろしている。髪、こんなに長かったんだなと感心して見つめる。変形ケンタウロスの僕を見ても春日井さんは表情を全く変えない。
「おじゃましても?」
両手には過積載気味のスーパーのレジ袋が握られている。僕は頷いて、ペンギンの手羽で下駄箱を開けてどうにかスリッパを出して並べた。
春日井さんはずんずん家の中に入り、通い慣れた妻のようにてきぱきと買ってきたものを冷蔵庫に収納していった。
「こんなにたくさん買ってきていただいて、ありがとうございます。あの、おいくらでした?」
と尋ねたが、
「お見舞いなので不要です」
と春日井さんは言い放つ。
「いやいや、そこまで甘えるわけにはいきません。すごい量ですし」
「お見舞いですからお気になさらず」
春日井さんは取り合わず、
「これ、ご所望のアイス。今召し上がりますか?」
うれしそうにアイスクリームのパッケージをひらひらさせる。
「うれしいです、いただきます」
「では、私も一緒にいただきます。実はコーヒーも買ってきています。おやつにしましょう」
アイスクリームを二つ、コーヒーの紙コップを二つ、春日井さんはテーブルに並べた。
クチバシをダイレクトにカップに突っ込んでアイスを食べながら、とはいえお礼をしなければ、何を贈ればいいか、僕はぐるぐると考えていた。お菓子がいいかな、甘いものはお好きだろうか。僕がさりげない質問文の作成に手間取っていると、春日井さんに先を越された。
「起きていていいのですか?ご体調は?」
「体調はすこぶる快調です。ただ、すぐ眠くなってしまうんですよ。2時間しか起きていられません。ずっと寝てばかりです」
春日井さんは時計をみた。彼女の来訪から30分程度が経っている。
「あと1時間半ですね」
「寝てしまったらごめんなさい」
「いえ。睡眠は回復に有効だそうですから、眠くなったら気にせず眠ってください。療養が最優先です」
「ありがとうございます。療養っていっても、こんな体で不便なだけで病気の中では楽な部類かもしれません。時間が経てばそのうち治るらしいですしね。僕は扁桃腺が大きくて時々真っ赤に腫れ上がるのですがそっちのほうがずっと辛いです」
春日井さんは静かに微笑んだあと、
「この病気の罹患者第一号の人の話、ご存知ですか?」
と聞いた。
「知りません」
「お話ししても?」
「もちろん」
僕がペンギンヘッドで頷くと春日井さんは静かに話し始めた。
「アイスランドの40代の男性で通称フロスティと呼ばれています。もちろん仮名です。スーパーマーケットの駐車場で突然ペンギン化した彼は動物園から脱走した野良ペンギンとして捕獲され、動物園に連れて行かれました。彼はそのまま動物園のペンギンの飼育場所で5日間あまりペンギンとともに暮らしました。完全にペンギンとして」
「ペンギン病の人間を、本物のペンギンたちは受け入れてくれた、ということでしょうか」
「ペンギンばかりか、動物園のスタッフもどれがフロスティかわからないくらいに馴染んで、仲良く過ごしていたようです」
春日井さんは一息ついたあと、話を続けた。
「ある日の夜中、ペンギンの飼育場所でペンギンに囲まれて休んでいたフロスティは突然人間に戻ったところを見回り中の警備員に発見されました。今度は動物園に違法に潜入した者として捉えられてしまって。でも、言葉を取り戻していたフロスティは自分に起こったこと、突然ペンギンになって動物園に連れてこられて、突然元に戻ったのだと説明してむしろ自分は被害者だと主張しました」
「ペンギン病の症状も色々なんですね。フロスティは一気にペンギンから人間に戻っているし、ペンギン中は話すこともできなくなっている。興味深いです。でも、いきなりペンギンに変身したり戻ったり、そんな荒唐無稽な話、最初から信じてもらえたんですか?」
春日井さんは得意気にうなずいた。
「ペンギン小屋の監視カメラの映像を全員で確認したら一目瞭然でした。白黒のざらざらした映像でもはっきりわかるくらい、フロスティがペンギンから人間に戻る瞬間がしっかりと映っていたのです」
「その映像は僕も見てみたいですね。公開されていないんですか?」
「生憎、非公開です。フロスティはあらゆる研究機関に呼ばれて分析されまくりましたが、その内容も、個人が特定されそうな部分はがっちり守られていて出回ってはいません。彼はとても協力的で請われればどこへでも出向いたそうですが、原因や発病のメカニズムは結局まだわからないんですよね。でも、症例報告だけは素早く世界に伝播しました」
「へえ。でも、なんでペンギンなんでしょうね、この病気。猿でも牛でもなくて」
「他の動物の方が良かったですか?」
「どうだろう。ちょっと想像してみます」
人間に身近な動物でいうと猿、牛、鶏、豚。動物園の人気者だと、象、パンダ、きりん、ハシビロコウ。
「うーん、やっぱりペンギンですかね。他の動物だったら僕はもっと暗い気持ちになっていたかもしれない。多分ペンギンで良かったような気がします」
「ペンギン、お好きなんですか?…飼ってたわけじゃないですよね?」
「飼ったことはないですけど、子供のころ、ペンギンが実は宇宙人だというSF小説にハマりまして。自由研究は3年連続でペンギン宇宙人仮説の検証をしたりしてました。ペンギンについてはちょっと詳しいです」
「ペンギン宇宙人仮説、とはどういうものですか」
春日井さんが真面目な顔で聞くので、僕も真面目な顔で対応した。
「まだ検証中ですからお話しするわけにはいきません」
「そうですか…」
春日井さんは表情を崩さずにコーヒーをごくりと飲んだ。
「そんなことより春日井さん、ペンギン病に詳しいんですね。フロスティの話なんて初めて聞きました」
「ペンギン病については息子が熱心に研究していまして。息子の受け売りです」
「え、息子さん?」
確か独身とおっしゃっていたような。
「息子はようやく20歳になりました。大学生で、医者の卵です」
さらに想定外の答えが返ってきたので僕は驚いて言葉を失い、ぽかんと口(実際にはクチバシだけれど)を開けてしまった。
「よく驚かれます」
僕の顔をチラリと見た春日井さんは涼しい顔で微笑んだ。
「息子は16歳で産んだんです。私は高校生でした。妊娠はわりと早くに気付いたのですが、誰にも言えずにひとりで抱えていたら、息子の父親に当たる人が事故で亡くなってしまって。妊娠もだんだん隠していられなくなって、ある日意を決して周りの大人に告白したんですけど、誰も産むことに賛成してくれなかったんですよね。亡くなった彼の子供だということも誰も信じてくれなくて。私の両親も彼の両親も先生も誰一人。ただ、代わる代わるいろんな大人がやってきて、言葉を尽くして中絶を強く勧めてきました」
「でも、産んだんですね」
「なぜか産みたかったんですよね、とっても。でも、中絶派の大人たちをうまく説得できそうになかったので最終的には家出しちゃいました。飛び出してみたら手を貸してくれる人にも出会えて、追っ手が来るまでどうにか時間稼ぎが出来て、産んで育てて、最初の10年間は怒涛のごとく過ぎました」
「それは…大変でしたね」
「はい、それはもう本当に大変でした。あまり思い出したくないくらいに」
春日井さんの言葉にはなんともいえない凄みがあって、それ以上何も聞けなかった。
その後、僕らは他愛のない話をたくさんした。会社の自動販売機のラインアップや値付けが各階ごとに異なること、新人の桂木くんは同期の女子には大変人気があること、僕らのフロアの一つ下にハイレベルのイケメンがいてヤクルトレディさんの間で話題沸騰していること、マンションのゴミ捨て場の換気が良くなったこと、来るべき大規模修繕に対する心配と期待、などなど。僕は自分がペンギンの姿形をしていることを途中からほとんど忘れて(でも、コーヒーを飲もうとして手羽と嘴のせいで所作が不器用になるたびに思い出して)ケラケラと笑ったり眉をひそめたりした。調子に乗った僕はペンギンの姿のまま、名物経理部長の大貫さん(アントワネットというあだ名を持つ、やたら優雅なマダム)のモノマネを披露すると春日井さんはお腹を抱えて身をよじりながら大きく笑った。その笑顔をうっとりと眺めていたら、ものすごく強い眠気が襲ってきた。
「あ、もうすぐ2時間ですね」
がくん、がくんと数秒ごとに意識を失う僕に気づいた春日井さんが笑い声を引きずりながら時計をみた。「すみま…せん。せっかくきて…いただいた…のに」
「とんでもないです。眠ってください。眠るのは回復に非常に効果的だそうですから」
最後の方はフェードアウトだった。僕はソファにそのままぱたりと倒れ、記憶が飛んだ。
目がさめると、なんとなく部屋がきれいになっており、僕の体には春日井さんのコートがかけられていた。丁寧にたたんでからのそのそと起き上がると春日井さんが台所で働いているのが見えた。
「勝手に台所をお借りしてすみません。冷蔵品といわれて生野菜も買ってきてしまっていたのですぐ食べられるように各種サラダ化を。もうすぐ終わります。あと30分くらい。これが終わったら失礼しますね」
「あー、何から何まですみません。助かります」
「いえいえ、そのつもりで伺っております。西園寺さんは休んでいてください。ペンギン病の原因は長期的慢性的な休息不足だという仮説があるそうですよ」
「ああ、だからどうしようもなく眠くなったり、動きにくい体に変わったり、強制的に休まされるわけですか。つまりペンギン病は自家中毒的な病、ということですかね?」
「あくまで仮説です。西園寺さんのペンギン宇宙人仮説と一緒で、まだ検証されていないので詳しい情報は教えてもらっていないのです」
春日井さんは笑った。

台所での作業を終えるとすぐに春日井さんは帰り支度を始めた。
「私、実は今月いっぱいで今の仕事は辞めるんです」
エプロンを外しながら春日井さんは言った。
「じゃあ、僕がペンギン病の療養を終えて会社に戻る頃には春日井さんはもういないわけだ」
「ええ。だからその前に西園寺さんにご挨拶ができて良かったです。西園寺さんは一番のお得意さんでしたから。感謝しています」
深々と頭を下げる春日井さんにつられて僕もぺこりと頭を下げた。
「というわけで、私の本日のミッションは完了です。すっかり長居をしてしまいました。そろそろお暇します」
廊下に置いてあったカバンをすらりと拾い上げて玄関にしゃきしゃきと歩く背中を追いかけた。
「ペンギン病が完治したら何かお礼をさせてください」
「お気遣いなく。私の中では西園寺さんとはこれでプラスマイナスゼロなんです。エレベーターの溝にはまったのを助けていただいたり、毎日何かしら買っていただいたり、同僚の方に商品を勧めていただいたり。本当に感謝していて、今日はそのお礼のつもりです」
春日井さんはささっとコートを着ると靴を履き、扉を背にしてまっすぐ立つと清々しい表情で言った。
「これで思い残すことはありません。このマンションも引き払うんです。しばらく放浪します」
「放浪、ですか」
「はい、放浪します。しばらく、必要なだけ」
「必要なだけ、ですか」
僕はバカみたいに彼女の言葉を繰り返すことした。
「若い頃に無茶をしすぎました。落とし前とか謝罪とか感謝とかカタとか、色々と片付けるべきことが山積みです。16歳で強制終了となった青春も謳歌しなくてはなりません。ひずんだ人生の軌道修正です。気がすむまで放浪してまいります」
春日井さんは晴れやかに宣言した。
「うーん、それは素晴らしいことなんでしょうけど、ちょっとずるい感じもします」
僕の言葉に春日井さんはキョトンとした顔になる。
「だって僕はこんな中途半端な姿のままで、こんなにお世話になって、春日井さんを少し知ることができて、なのにこのままお別れするのはちょっと。いたたまれないですよ」
「それはつまり、私はご挨拶するタイミングを間違えたということでしょうか?」
春日井さんの顔がみるみる曇りだした。
「違います。タイミングとかそういう問題じゃないです。つまり端的にいえば、僕のペンギン病と、春日井さんの放浪と、共にすっきりしたころ、一緒にお祝いしたいということです」
春日井さんはしばらく無言で僕を見ていた。
「つまり、もっとずっと、ものすごく端的にいうと、これっきりお別れはさびしい、またお会いしたい、ということです」
僕のペンギンヘッドに血が昇るのがわかった。ペンギンも外からわかるくらいに赤面するものなのだろうか。
しばらくすると春日井さんの表情がふわりとほころんだ。
「そうですね。お祝い、いいと思います」
「放浪してスッキリしたら、思い出してみてください」
「はい」
「そして、放浪、気をつけていってらっしゃい」
「はい」
春日井さんはにっこりと笑い、見逃しそうなくらい小さく手を振ると、再び扉を開けて今度は少し余韻を残しながら僕の部屋を出て行った。僕はその姿を静かに見守り、見送った。