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《掌編》あそこにいる、マイクの前だと女になる彼氏との、馴れ初め。

 かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたって調子でずーっと続く。音が重なっていくたびに、その音は平仮名に変換されて私の脳内に堆積していき、「か」「た」のふたつの音が独立して妙な可愛さを醸し出してくる。どちらもぽーんと何処かに飛んでいってしまいそうな愛しさで、私は小学生の頃に享受し、中学生になって痛々しさ故に手放した、精神出力のツールみたいなものが急にこいしくなってきて、自分がまぁまぁな生活を享受するまぁまぁなOLになるために捨て去ってきたものが、人生を楽しむための大切な土台だったんじゃないかって気がしてくる。こういった類の後悔は一日一回必ずといっていいほど発生して、その度タイピングする指が無意識に加速していく。この音だけが私にとって救済であり福音であり、この音が連なっていけばそれはゴスペルとなる。彩り豊かでは決してないけれど、灰色を彷彿とさせる無機質なタイピング音は、確実にこの世界に住む人間の多くを救ってきている。そんな確信があった。報告書をまとめあげ、送るべきメールをすべて送り、同僚へのチャットをすべて返し終わった後も、私の指はわなわなし続けており、寿司打で定時までの五分ほどを潰した。高級コースで五千円得をした。定時のチャイムが鳴り、私はいちどスマホの画面に目を向けて、幹也からのLINEがきている事を確認する。
「今日、帰りが遅くなるんだ」
 幹也と同棲して三年になる。彼は火曜日になると、必ず行くバーがあって、そこにはステージ、と言うにはあまりに素朴な茶色い円形の台があり、スタンドマイクが一本立っている。誰もがそのマイクの前に立ち、何かを喋る事ができる。幹也はそこで自分が書いた詩のようなものを朗読し、その後終電まで静かに飲んで、部屋に帰ってくる。彼はこの火曜日がないと生きていけないらしい。私を一度連れていってくれた時、幹也はシングルマザーが迷子の我が子を繁華街で探し続ける、詩のような掌編のような文章を、マイクを通してお客さんたちに聞かせていた。本物の女のように語っていた。子供がいなくなった不安と、その不安を鎮めて冷静になる手段が見当たらない困惑と、困惑する主人公がどんどん現実に置いてけぼりにされていく孤独感、子供を見つけた時の安堵。酒を片手に、客はひたすら落ち着かない様子で、幹也を見ていた。息遣いも泣き声もすべて、情けない甲高さで店内に響く。たまらなくなって、私は幹也を置いて店を出た。店の外には喫煙所があり、そこで煙草を吸っていたら店長らしき人が出てきて、「カザマくんの知り合い?」と聞いてきた。カザマ、風間、幹也の苗字だ。
「あ、はい。美玖っていいます。幹也は彼氏です」
 そう言うと、店長はふぅんと興味なさげに相槌をうち、アイコスの加熱スイッチを親指で長押しした。ぶぅんと音が鳴るまでの間、ずっと沈黙が続く。彼がアイコスをふた吸いほどした後、
「美玖さんはさ、カザマくんのステージはじめて?」
「うん、はじめて見ました」
「そっか、彼、毎週絶対火曜日は来て、ずっとシングルマザーとか女子大生になりきって、今日みたいな、躁鬱っぽいロールプレイしてるよ」
 言葉のチョイスに違和感を覚え、若干不快だったが、そうなんですねと流した。
「なんだかさ、マイクの前にいる前後はすごく大人しく酒飲んでるから、結構困惑するっていうか。君もさ、ちょっとしんどかったから出てきたんでしょ?」
 発言し終えた瞬間、彼の胸を思いっきりパンチした。店長という肩書きがフィルムのように剥げ落ちていく。そんなイメージと共に、階段の下へ転がり落ちた店長は鈍い音をたてて踊り場の壁に激突した後、動かなくなった。
 私は店長と呼ばれていた肉塊をまたいで階段をおり、ビルから出て繁華街をひとりまっすぐ歩いて帰った。幹也が毎週火曜日、このバーに来て孤独な女のように語る。信号待ちをしながら頭をふわふわ働かせた。彼のパフォーマンスは、彼の人格から延長線上的に、ナチュラルに導き出されたアウトプットな感じもしたし、一方で何かにあてられているキチガイが如き所業にも思えた。
 幹也に興味をもったのは大学生の頃で、国際問題NGOと連携して活動するサークルの事務局員として一緒にタスクをこなしていた中で交際が始まった。彼は仕事が早かった。アフリカの子供にも、中国の農村部にも、酸性雨がずっと降るアジアのどこかの工業地帯にも全く興味がなさそうな幹也は、ひたすらExcelを使って数値データやサークル人員の名簿を整頓していく。私は庶務仕事が多く、紙媒体でサークルに配らなければならない資料の準備やレイアウトの確認・修正などを行っていた。幹也が正面でかたかたかたかたパソコンを触る姿にちらちら視線を送りながら、私はマウスをゆっくり動かし、クリックすればするほど、人差し指の指紋が剥げていく感覚に陥りつつ、その事に快楽を覚えていた。きっとその快楽が、目の前の幹也と重なって、認知のバグを引き起こしたのだろう。休憩ついで、一緒に暗いキャンパスを歩いて、並木道の傍らにある喫煙スペースでシガーキスをした。お互いに一切笑わなかった。私はシガーキスによって幹也が笑えば、友人同士として気兼ねなく飯を共にできつつ、後腐れなくセックスできるような、インスタントな関係性を築けると思っていた。しかし幹也は一切笑わなかった。そして煙草を途中で捨て、ポケットに手を入れて、カツカツ歩いて行ってしまった。その瞬間から、私は幹也と共に生きていくしかないと謎に確信してしまったのだ。思い返しても意味の分からない思考回路だ。幹也はサークルで継続的に事務局員として活躍し、私はそこをやめて就活を始めた。しかし、幹也の方が内定を早く決めた。彼の内定先である会計監査コンサルティングの会社に、彼のコネクションで内定をもらい、私はそこの子会社へ入社半年で飛ばされた。同棲を始めたのはその頃だ。そして今日まで、三年ぐらい。
 幹也は今日も、帰りが遅くなる。まだあの店は続いているらしい。幹也から店長の訃報を聞いた時、自分でも驚いたが、私は涙を流していた。全く悲しくなんてなかった。SF映画に出てくるアンドロイドのように無表情な彼が、女々しくドロッとした生臭いにおいの言葉を吐きだす晩。未だに毎週やってくるそんな火曜日に、私は感情の居所を喪失した状態のまま、味噌汁をひとり啜る。別に思い返したら幹也と感情的に寄り添い合えたことなんて一度もないわけだから、今になって寂しいなんて思わない。
 何が耐えられなかったんだろう。なんで幹也のパフォーマンスをずっと見ていられなかったんだろう。ひとりリビングで座り考えるが、ビビる要素なんてひとつもない気がしてくる。

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