ゲーム音楽におけるメロディの力(2/3)
この章のまとめ
日本のゲーム音楽でメロディが重視されるようになった歴史的背景を推測し、それが現代ではどのように変わってきたのか、また英語圏ではどのように受け止められ得るのかについて考察しています。
前のパートはこちらから。
そもそも何故こんなにメロディが重視されるのか
パート1を読んだ方はメロディがゲームや映像作品の演出をする上で危険な性質をもった手法であることを理解されたと思いますが、何故ゲーム音楽にはこんなにもメロディがあることが当たり前なのでしょうか? 推測、仮説として「発音数が少ないところからゲーム音楽が始まったこと」を挙げたいと思います。
ゲーム音楽というカテゴリが認知されるようになった時期をファミリーコンピュータ時代と仮定するのであれば、ゲーム音楽は3和音+1ノイズから始まっています。この状況でゲーム内の状況やキャラクターの心情を説明出来たのはテキスト(容量の関係で漢字を使うことも困難)とチップが生み出す矩形波、三角波、ノイズだけであり、メロディは寧ろゲームに惹き込むための重要なツールだったと思われます。SFC以降もしばらく音で演出する上でのリソース不足の時代は続きました。
ところが00年代に入り日本でPlayStation 2が主流に時代になったあたりではすっかりゲーム音楽もストリーム再生が増え効果音にもそれなりの容量、発音数が割かれ、ボイスもディスクから直接読み込むことでほぼフルボイスの演出が可能になってきました。グラフィック表現もかなりリッチになり、それまでメロディが伝えてきた情報の大半はキャラクターのフェイシャルやモーション、ボイス、効果音等でより詳細に説明出来るようになりました。
メロディが必要ではなくなった時代のゲーム音楽演出
ではゲームが技術的に進化しメロディ以外の方法でも感情を上手く伝えられるようになりBGMはどのように変化したのでしょうか。
一つの側面として音色が大きな進化を遂げたと思います。ストリーミング再生が当たり前になったことによって音楽の中で様々な音色を扱うことが出来るようになりました。音色はそれ自体が質感や情感をほのめかすパワーを持っています。このほのめかすというのが重要で、例えば映像とダイアログで伝えきれていない情報を補ったり、または相反する情報を示唆することでゲームに緊張感をもたらすことが出来ます。しかもユーザーにその存在をあまり意識させることなく。
ゲームの進化とは別に音楽制作の世界もシンセサイザーやエフェクト、レコーディング技術等の発展によりそれまで存在しなかった音色を生み出せるようになっていきました。2010年前後はLAの作曲家がとにかく自分だけのオリジナル楽器を作ることに執心していた時期があったように記憶しています。
このように、ユーザーの注意力に対して丁度よいアピール力を持ったBGM演出をすることが技術的に可能になっていきました。注意を邪魔しないので当然没入も途切れません。クリエイターがこのような表現、工夫をすればユーザー達もやがて慣れ、その良し悪しを味わう感性が身に付いていきます。
とはいえメロディには言葉や表情、仕草では伝えることの出来ないものを表現する特別な力を持っています。ここぞという場面でメインテーマのモチーフがガツンと流れるとえも言われぬ高揚感が得られるように、メロディだけに出来ることは他の演出に取って代わられることはありません。
メロディが(不当に)強いとどう思われるのか
こうして表現力の高いツールを数多く得た状況においてなお、日本のゲーム音楽では強いメロディで演出を支配することを求められます。そしてその強いメロディについては日本人と北米、欧州圏で捉え方が異なるように思います。メロディ主導の作曲はとりもなおさず
・子供向けコンテンツっぽさ
・B級感/アマチュア感
・ノスタルジー
・民族音楽っぽさ
に繋がります。纏めると分かりやす過ぎるので場合によっては粋ではないということです。GDC 2021を振り返ってみるとGhost of Tsushimaの音楽制作ではminimalisticとsparseが鍵(最小限の要素をまばらに並べる)が鍵になっていたし、Cyberpunk 2077でも音楽演出についてはDon't put a hat on a hat.(やり過ぎは良くない)といった言葉が用いられていました。
いくつか理由があると思っていて、パート1でも書いたようにメロディ先行の作曲はゲーム演出全体の抑揚を狭める危険性があることと、ユーザーの感性が育っていくに従ってメロディ以外からも多くの情報を受け取れるようになるということがあると僕は考えています。また、複雑なメロディをオーケストラなどの演奏難度の難しい楽器に演奏させると上手くいかないため楽器に対する理解の不足を露呈してしまうということもありそうです。何にせよ、メロディで多くを語ろうとするとB級コンテンツ、子供向け作品、昔を懐かしむためのコンテンツと見られるリスクが少なからず存在するということです。
オリンピック開会式について英語圏のニュース記事をいくつか読んでみて概ね非常に好意的に受け止められて感慨深かったのですが、中には「ゲーム音楽はしつこく耳に残るうっとうしい存在だが日本ではそれがアートの一環だと捉えられているようだ」という強烈な批判もあったりして、おいおい今そんな酷いことを言うのかと思う反面ゲームの歴史に対して興味の無い層からそういう捉えられ方をしてしまうことについては一定の納得感もあったりします。
上記はネガティブな側面ですが民族音楽っぽいというのはどちらかというとポジティブで「日本の音楽はメロディが主役だよね」という価値観が十分に浸透し、愛されているという意味です。特に80〜90年代をリアルタイムでゲームや漫画、アニメと共に過ごした人にこの考え方の人が多いと推測します。日本人が例えばケルト音楽やインドの変拍子を聴いた時にエキゾチックな魅力を見出すような感覚を持たれているのではないかと感じています。好き好んで聴く対象になっているということです。
この違いは文化の差、つまり好みの差なので、日本人や日本的な音楽のファンに向けてコンテンツを作る時に気にしなくて良いポイントです。また、現代においてもレトロゲームなどゲーム側の演出の表現力が乏しい場合はメロディは重要な役割を担いますし、全てのゲームにおいてメロディが不要であるなどということは有り得ません。
次章について
次章ではメロディとインタラクティブミュージックの相性を議論し、メロディ以外に音楽が没入を阻害する要素を整理した上で、日本の音楽の武器とも言えるメロディを今後どのように扱っていくのが良いのか考察します。
