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出雲神話を紹介しながら巡る 出雲大社参拝ガイド



出雲神話を紹介しながら
出雲大社の参拝ガイドをいたします。

■はじめに

出雲大社のサイトから
境内図がダウンロードできるので、
参考にしてください。
事前にA4くらいに出力するか
スマホで閲覧することも可能です。

出雲大社のサイトから入手

では勢溜(せいだまり)からスタートします。

神門通りを通り抜けるとここに出ます

所要時間は60分~90分くらいです。
※説明タイトルをつけますので、
 興味がない部分は飛ばしてください。

■名称と主祭神

出雲大社は一般的には
「いずもたいしゃ」と呼んでいますが
出雲大社のサイトでは
「いずもおおやしろ」と表記されています。
出雲国風土記には
杵築大社「きづきのおおやしろ」
と記されています。

主祭神は、一般的には
大国主命「おおくにぬしのみこと」
と呼んでいますが
出雲大社のサイトでは
大国主大神「おおくにぬしのおおかみ」
と表記されています。
古事記には
大国主神「おおくにぬしのかみ」
と記されています。

■下り参道

勢溜から南に真っ直ぐ伸びているのが神門通りで
遥か先に白くそびえ立っているのが
大鳥居(一の鳥居)です。

勢溜に立っているのは二の鳥居で
ここから北に伸びているのが参道です。

一般的に参道は上り参道が多いですが
ここは珍しく下り参道です。
私が知る限りでは、東京の表参道が
明治神宮への下り参道になっています。

■祓社・祓端

参道を下っていくと右側に
祓社(はらえのやしろ) があります。

穢れを祓ってくださるお社です

御祭神は、
瀬津比咩神(セオリツヒメノカミ)
速開都比咩神(ハヤアキツヒメノカミ)
気吹戸主神(イブキドヒメノカミ)
速佐須良比咩神(ハヤサスラヒメノカミ) です。

この四柱の神様の詳細は定かではありませんが、
この四柱の神を祓戸の神と称し、
私たちが知らないうちに犯した罪汚(けがれ)を
清めて下さるありがたい神様です。

坂を下りきると橋があります。
ここも祓端と言って、渡ると
罪汚(けがれ)を清めて下さいます。

■松並木

三つ目の鳥居(中の鳥居)の先に
美しい松の参道が続いています。
これは「松の馬場」とも呼ばれ
出雲藩主堀尾忠氏の正室
長松院が1630年頃に奉納したものとされます。

中央は神様が通られる路なので
両端のいずれかを通って進むと
手水舎の手前、左側に「御慈愛の御神像」
右側に「ムスビの御神像」があります。

■「御慈愛の御神像」 イナバノシロウサギ神話

「御慈愛の御神像」は
稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)※古事記の表記
神話をモチーフにしています。

御慈愛の御神像

神話は、以下のような内容です。

オホナムチ(=オオクニヌシノカミ)は、
稲羽にヤカミヒメという美しい女性がいると聞き、
求婚するために八十神たちと出雲を出発しました。

八十神たちは、
オホナムチに荷物を持たせ、
先に進みます。
「大きな袋を肩にかけ・・・」
という童謡がありますが、
あれは、オオクニヌシノカミが
いじめにあっていた歌だったのです。

その旅の途中、
傷ついている素兎(しろうさぎ)に出会います。

ウサギは、
「隠岐の島からここに渡りたいと思い、ワニザメに
 『ウサギとワニザメとどちらが多いか比べよう』
 と持ち掛けて、ワニザメを気多の岬に向けて
 並ばせました。
 私は、その上を数を数えるふりをして飛んで
 最後に『お前たちはだまされたのだ』と
 言ってしまい、端のワニザメに捕まって
 皮を剥ぎ取られてしまいました。
 その上に八十神たちの
 『海水で洗って、風にあたっていろ』
 というウソの指示で、
 さらにひどい状態になってしまいました」
といいました。

それを聞いたオホナムチは、
「真水で身体を洗って、
 蒲の穂に包まって寝ていなさい」と伝えます。
教えのとおりにしたウサギの身体は、
たちまち元通りになりました。

ケガが治ったウサギは
「ヤカミヒメはあなたを選ぶでしょう」と予言し、
その予言どおり、
ヤカミヒメは、意地悪な八十神たちではなく、
優しいオホナムチを選びました。

これが日本で最初の医療行為と言われています。
出雲にある島根大学医学部付属病院のマークには
この物語にちなんでウサギが入っています。

■「ムスビの御神像」 幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)

反対側の「ムスビの御神像」は
日本書紀の幸魂奇魂神話をモチーフにしています。

ムスビの御神像

出雲大社の神語は
「幸魂奇魂 守り給い幸へ給へ」

さきみたま くしみたま
まもりたまい さきはへたまへ です。

幸魂奇魂の神話は、以下のような内容です。

スクナビコナノカミと一緒に
国造りを進めたオオクニヌシノカミでしたが、
スクナビコナノカミが
常世の国へと去ってしまいます。

オオクニヌシノカミが途方に暮れていると、
海上を照らして近づいてくる別の神がいました。

その神は、
「私がいたから、
 あなたは国を造り上げることができたのだ。
 私は、あなたに幸いをもたらす幸魂・奇魂だ。
 私は、ヤマトの三諸山に住みたいと思う」
と言って宮を立て、住まわれます。

御諸山(三諸山)は、現在の奈良県の三輪山で、
この山を御神体とするのが、
大神(おおみわ)神社です。

この像の説明書きには、

幸魂奇魂は誰もが身にいだいているもので
大神からいただいた“いのち”に感謝して
大切に正しくこれを生かしきりましょう。

と記されています。

「生かしきりましょう」という言葉が
とても重く感じられます。

さて、手水舎で清めます。
以前は柄杓だったので作法がありましたが
コロナの関係で今は流水なので洗い流します。

柄杓の作法を応用すると

右手を流して、左手を流して
右手に含んだ水で口元を清めて
再び右手を流すという手順でしょうか
(定かではありません)

■銅鳥居

ここから荒垣の内側が境内です。
入口には、四の鳥居、銅鳥居が構えています。

この銅鳥居は、1666年に
毛利輝元の孫、綱広が寄進したとされます。
この鳥居に刻まれた文章には、
主祭神がスサノオノミコトであると
書かれています。

銅鳥居

出雲大社の主祭神は、
オオクニヌシノカミですが、
鎌倉時代後期、
14世紀半ばから17世紀半ばまでの
約300年間に渡ってスサノオノミコトが
主祭神だった時代があります。

これは、神仏習合の考えにより、
出雲大社と鰐淵寺(がくえんじ)の関係が
深まったことが背景にあります。
天台宗鰐淵寺のご本尊の一つは、薬師如来であり、
神仏習合思想の中に、薬師如来=牛頭天王
牛頭天王=スサノオであることから
鰐淵寺のご本尊=スサノオノミコトと
解釈されていたのだと思われます。

この影響から、
出雲大社の主祭神もスサノオノミコトへと
変えさせられたのだと思われます。
そして、
この宗教上の混乱は戦国時代に入っても続き、
尼子氏が実権を握った時代には、
尼子経久が主導となった
永正15年(1519年)の御造営以降、
出雲大社の境内に、大日如来を祀った大日堂
三重塔が建ち並びます。

これを元の姿に戻すことに尽力したのが、
第68代出雲国造千家尊光氏であり、
寛文7年(1667年)の「寛文の御造営」の際に、
仏教色を一掃することに成功し、
本殿も現在と同じ高さ24mの正式殿が建ちました。
そして、同じ頃に
主祭神もオオクニヌシノカミに戻りました。

一般的に、神仏習合の考えが撤廃されるのは、
明治維新以降ですから、
江戸時代初期に
神仏分離に成功できたのは画期的です。

この御造営の管理は、
江戸幕府と松江藩が行っていますが、
時の将軍は徳川4代家綱です。
家綱の父である家光は、
世継がなかなか生まれなくて悩んでいました。
そこで、
乳母である春日局がオオクニヌシノカミに
世継誕生を祈念したところ、翌年に家綱が生まれた
というエピソードがあります。

幕府はこの寛文の御造営に多額の寄進をした
と言われていますが、
オオクニヌシは自らのパワーによって
この造営を推進させたという見方もできます。

■拝殿

少し進むと拝殿があります。
正面に行列ができていることがありますが、
賽銭箱は横一杯に設置されています。
よって我々は脇から賽銭をあげて
少し下がったところで拝礼をします。

作法は二礼四拍手一礼です。
毎年5月14日の例祭(勅祭)の時だけ
八拍手されています。
普段はその半分の四拍手です。

全国で同じ作法なのは
新潟の彌彦神社や大分の宇佐神宮があります。

お賽銭は
一般に、縁結びの神様なので五円(ご縁)が良いとされ
十五円(十分ご縁がありますように)とか
四十五円(始終ご縁がありますように)を
好んであげる方がいますが、
気持ちなので、決まりはありません。

■水舎

反時計回りに拝殿を回ると
本殿に向かって右側に水舎があります。
昔、神職さんに聞いた話ですが、
手水舎の水は水道水ですが、ここの水舎の水は
禁足地・八雲山からの湧き水だそうです。
ぜひ、ここでも清めてパワーを授かりましょう。

■本殿

いよいよ本殿です。
ここにも行列ができていますが、
拝殿と同様に賽銭箱は横一杯に設置されています。
よって我々は脇から賽銭をあげて
少し下がったところで拝礼をします。

はっきり言って、神様は万能なので
一対一で向き合う必要はないと思います。
密を避けるためにも
広がってお参りして良いと思います。
もちろん、
神社側が列を整理しているわけでもありません。

本当に真剣に拝みたかったら
朝6時から開いているので、早朝をお勧めします。
人も少ないし、清々しくて、
パワーが満ち満ちています。

出雲大社の本殿は
荒垣・瑞垣・玉垣の三重の垣根で囲まれています。
先ほどお参りしたところが瑞垣で
その入口が八足門です。
1667年の寛文の御造営に建てられたもので
国の重要文化財に指定されています。

普段は、正式参拝でない限り
瑞垣の内側へは入れませんが、
お正月の三が日のみ入れます。
さらに内側に玉垣があり、
入口が国の重要文化財の楼門なのですが、
その内側へは基本、神職さんしか入れません。

ちなみに本殿は
1744年の「延享の御造営」の時のもので
1952年に国宝に指定されています。

2013年の「平成の大遷宮」
屋根の葺替えなどが行われました。

大社造で屋根に千木と鰹木を配置していて、
一般的に
縦削ぎの千木を男千木、横削ぎを女千木といい、
御祭神の性別によって異なるとされます。
※必ずとは限りません。

神社の造りは様々で、
例えば、伊勢神宮は神明(しんめい)造で、
大社造りが妻入りに対し神明造りは平入りです。
大社系と言われるのが住吉造春日造などで
神明系は、八幡造日吉造などがあります。

■神紋

神紋とは、神社の紋章です。
出雲大社の神紋は二重亀甲剣花菱です。

古い時代には、
二重亀甲の中に「有」という文字が入った
神紋だったようです。

松江の意宇にある
神魂(かもす)神社真名井神社
現在もこの神紋です。

昔は、旧暦の10月の神無月に対し
神在月ではなく神有月と表記していたようです。
「有」という文字はよく見ると
十月の崩し文字になっています。

■高層神殿

本殿前周辺の地面を見渡すと
三つの円を一つの大きな円で囲んだ模様があります。
これは昔の本殿の柱があった跡です。

昔は、雲太・和二・京三といって、
建物の高さを口遊(くちずさみ)という歌にしました。
京都の平安神宮の大極殿が三番目、
大和の東大寺の大仏殿が二番目、
一番大きな杵築大社の本殿は、今の倍の高さで
16丈(48メートル)あったといわれています。

また、
出雲国造千家家に伝わる「金輪御造営差図」には
3本の柱が1本に束ねられて、それが9セットで
出雲大社の本殿が立つように描かれていました。

しかし
これまで、それを証明するものがなかったので
高層神殿は空想上のものとされてきました。

ところが、
2000年に、あの模様がある場所から
柱の一部が発掘されました。

3本の柱が束ねられて1本に

それによって
高層神殿の存在の可能性が一気に高まりました。
柱材の分析で、鎌倉時代初期の
1248年の御造営のものと推測されました。

■杵築大社はいつから?

発見された柱は1248年のものとすると
それ以前はどうかというと
1067年に造営された“雲太”が1108年に転倒して、
1115年の「寄木の御造営」
再建したという記録があります。
そして口遊が語られたのが970年、
杵築大社の名が記された出雲国風土記は733年
国譲り神話が記された日本書紀が720年、
古事記が712年に編纂されました。

日本書紀の記事の中には、第37代斉明天皇が
659年に修復するように命じた記録が残っています。
年代がわかるのは、これが最古です。
※修復したのは熊野大社という説もあります。

あと第11代垂仁天皇が立派に建造するように
指示しています。神を祀る社(やしろ)が
古代からあったのは確かだと思いますが
高層神殿となったのは、いつからでしょうか?

高層建築の技術が日本に伝わったのは、
大和の東大寺大仏殿の創建が758年ですから
8世紀前半だと思われます。

そうすると、
第44代元正天皇に対して
第24代出雲国造果安が716年に行った
出雲国造神賀詞
 (いずものくにのみやつこのかむよごと)

の奏上が高層神殿完成の一つの目安ではないかと、
私は睨んでいます。(これは私見です)

■東側の摂末社

では、反時計回りに境内を巡りましょう。
東側の正面に見えるのが
東十九社(じゅうくしゃ)です。
神在祭期間中に全国の八百万の神が
お泊りになる処です。
西側の対称的な位置に西十九社があります。

※ここから先は16時半までしか入れません。

直角に曲がって北へ進むと
右側に釜社(かまのやしろ)があります。
御祭神は、
スサノオノミコトの御子神で、
宇迦之魂神(ウカノミタマノカミ) です。
食物全般の神様で、
お馴染みの稲荷神社に祀られている神様です。

釜社の西側、瑞垣を隔てた場所にあるのが
東門神社(みかどのかみのやしろ)です。
瑞垣内の西側の対称的な位置に
西門神社があります。
いわゆる門番の神様です。

御祭神は
東側が宇治神(ウジノカミ)
西側が久多美神(クタミノカミ) です。

出雲市の東部に久多美という地域があるので
地元の神様だと思われますが
詳しい情報がありません。

さらに北へ進むと瑞垣の内側に、
お社が二つ並んでいます。

東側が天前社(あまさきのやしろ)
正式名称は
神魂伊能知比売神社
(かむむすびいのちひめのかみのやしろ)

御祭神は
蚶貝比売命(キサガイヒメノミコト)
蛤貝比売命(ウムガイヒメノミコト) です。
※出雲大社のサイトでの表記です。

西側が御向社(みむかいのやしろ)

正式名称は
大神大后神社
(おおかみのおおきさきのかみのやしろ)

御祭神は
須勢理比売命(スセリヒメノミコト) です。
※出雲大社のサイトでの表記です。

■オオクニヌシノカミに対する八十神の迫害
 (イナバノシロウサギ神話のその後)

オホナムチ(=オオクニヌシ)が
ヤカミヒメと結ばれたのを
良く思わない八十神たちは
出雲に帰る途中で、オホナムチを殺そうと思い、
「赤いイノシシを落とすから下で受け止めろ」
といい、真っ赤に焼けた岩を落とします。

それを受け止めて大やけどを負ったオホナムチは
死んでしまいます。
オホナムチの母神が高天原に助けを求めると
カムムスヒノカミがキサガイヒメとウムガイヒメを
派遣します。

キサガイはアカガイ
ウムガイはハマグリを意味します。
アカガイとハマグリの殻をけずったものを
母の乳汁で溶いてオホナムチの火傷に塗ると、
オホナムチは蘇生します。
よって、この二柱は医療と看護の神様とされます。

また、出雲国風土記では、
支佐加比売命(キサカヒメミコト)として登場し、
島根半島の加賀で佐太大神(サタノオオカミ)
産んでいます。
このサタノオオカミは
サルタヒコノカミと同一神とされています。

■スセリヒメ 根の国訪問

オホナムチ(=オオクニヌシ)は
八十神たちにさらに命を狙われ、
根の国に住むスサノオに助けを求めます。
そこで出会ったのが、
スサノオの末娘スセリヒメです。
二人は互いに惹かれあって結ばれます。

スセリヒメは
オホナムチをスサノオに紹介しますが、
スサノオは、オホナムチを
蛇、ムカデ、蜂の室に押し込めたり、
火責めにあわせて試練を課します。

これに対し、
オホナムチは、スセリヒメの機転や
ネズミたちの助けで試練を克服します。

最後に
オホナムチは、スサノオが眠っている間に
生太刀生弓矢天の詔琴を持って、
スセリヒメを背負って根の国から逃げ出します。

ところが、天の詔琴が樹に当たってしまい
大きな音が鳴り響き、スサノオが目を覚まします。

追いかけたスサノオは、
黄泉比良坂(よもつひらさか)まで行って
「オオクニヌシノカミを名乗って、
 スセリビメを正妻とし、国を治めよ」

と大声で呼びかけます。
こうして、オオクニヌシノカミは、
出雲の国を築いていくわけです。

その後のスセリヒメですが、
まず、身籠ったヤカミヒメが
オオクニヌシを慕って出雲へやってきますが、
スセリヒメに遠慮してイナバへ引き返します。

次に、
オオクニヌシは、
ヌナカワヒメに逢いに越の国に行って来ますが、
スセリヒメの妬みに耐えかねて
倭の国に逃れようとします。

ここで、
オオクニヌシは倭の国に向かうため、
馬の鞍に片手をかけ、
鐙(あぶみ)に片足をかけた状態で、
スセリヒメに別れの歌を詠います。
これに返してスセリヒメは
「あなたには、津々浦々に女がいるでしょうが、
 私にはあなたしかいません。
 ふわふわの布団の中で、
 淡雪のように白くて若々しい私の胸を、
 愛撫しておやすみ下さい」
と詠って、酒を差し出します。
これに絆されて、オオクニヌシは杯を交わし、
再び夫婦の契りを結ぶのです。

スセリヒメは、賢さとかわいさと
少しの嫉妬心を兼ね備えた女神さまです。

さて、少し進んで振り返ると
素晴らしい光景が見られます。

荘厳な本殿が望めるフォトスポットです

さらに本殿の裏側に進むと
素鵞社(そがのやしろ)があります。

御祭神は、
素戔鳴尊(スサノオノミコト) です。

■素鵞社(そがのやしろ)

最近、テレビや雑誌などで
稲佐の浜から砂を取ってきて、
既に置いてあったパワーを含んだ砂を
持ち帰ると良いと、伝えていますが、
稲佐の浜に行けない人も、
パワーを授かる方法があります。
それは、お社の裏に回って、
禁足地・八雲山から剝き出しになった磐座
触れることです。

スサノオノミコトと
オオクニヌシノカミの関係ですが、
素鵞社の札には、
オオクニヌシノミコトの父神と記されています。
これは、日本書紀の記述に基づいています。
古事記には、
スサノオノミコトの六代後の神裔と記されています。

私は、
当時の古代出雲は末子相続で、オオクニヌシノカミは、
相続権を持っていた末娘のスセリヒメのムコ殿になることで、
スサノオの後継者になったと思っています。
スサノオがオオクニヌシに数々の試練を課したのは
後継者に見合った者かどうかテストをしたのだと思います。

■素戔鳴尊(スサノオノミコト)とは
 (八岐大蛇退治神話)

高天原のイザナギノミコトイザナミノミコト
たくさんの国生みと神産みをします。

ここで生まれた三貴子が
アマテラスオオミカミツクヨミノミコト
スサノオノミコトです。

それぞれ、昼の世界、夜の世界、海の世界を
司ることをイザナギから命ぜられますが、
スサノオは、亡くなったイザナミのいる黄泉の国に
行きたいとダダをこねて、イザナギに追放されます。

スサノオは、黄泉の国に行く前に
アマテラスを訪ねるのですが、
ここでも悪戯を繰り返し、追放されてしまいます。

高天原を追われたスサノオは、
黄泉の国の入口がある出雲に降り立ちます。

肥の川(斐伊川)で、箸が流れるのを見つけ
川上に誰か住んでいると思い、出会ったのが
アシナヅチテナヅチ
その娘クシイナダヒメです。

クシナダには、7人の姉がいましたが
毎年、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に襲われ、
残るクシナダも襲われる運命にありました。

スサノオは、クシナダを
嫁にすることを条件にオロチ退治を試みます。

ヤマタノオロチは、目が真っ赤で、
胴体一つに頭と尻尾が八つの化け物です。
それに対して
スサノオは、アシナヅチとテナヅチに、
濃い酒を造って、八つの垣根を組み、
そこへ八つの酒樽を置くように指示をします。
老夫婦が指示どおりに準備をして待っていると、
夜な夜なヤマタノオロチが現れ、
酒を飲んで眠ってしまいます。

その隙にスサノオは、
自らの剣でオロチを切り刻みます。
しかし、
尻尾を切り落とそうとすると、
剣の刃が欠けてしまいます。
不審に思って尻尾を切り開くと、
見事な太刀が現れます。
その太刀は、

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と言われ、
スサノオはアマテラスに献上します。

クシナダと結ばれたスサノオは須賀の地に住みます。
この時に詠まれた歌が、日本で最初の和歌とされる
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
 八重垣作る その八重垣を」
 です。

こうしてスサノオは、
出雲の国の最初の王になり、
やがてオオクニヌシにバトンタッチします。

■出雲大社のうさぎ

素鵞社の石段を降りると、目の前が本殿の裏側です。
数年前からこの辺りにうさぎの像が置かれ、
SNS映えスポットになっています。

ここ本殿裏のほかに
神苑、神楽殿周辺、祖霊社などに
うさぎがいるそうです。
(日々増えているので正確な数はわかりません)

さて、小径を左に曲がって南へ進むと、
西の拝所があります。
なぜここに拝所があるかというと、
神様が西を向いていらっしゃるからです。

■西向きの謎

神殿内部のレイアウトは
以下のようになっています。

出雲大社のサイトの情報をリライトしています

神座が西向きなのには、様々な説があります。

御客座五神の方を向いている
稲佐の浜を向いている
・後ろの素鵞社に背中を向けない
・古代の住居様式を踏襲している
・西側の脅威から日本を守護している
 (東の鹿島神宮と対になっている)
・皇孫に遠慮して南には向かない
・伊勢神宮に背を向けている
・北部九州(筑紫)を向いている
・隣の筑紫社の方を向いている
・西側の方が開けていて景色が良い

最有力な説は「稲佐の浜を向いている」です。

第82代出雲国造 千家尊統(たかむね)氏
ご自身の著書「出雲大社」にて

晩秋になると、稲佐の浜に海蛇があがり
神の使いの「竜蛇さま」として祀られる。
このことが、
神座が西向きと無関係ではないだろう。
と記されています。

■西側の摂末社

西の拝所の右側、瑞垣の向こうにあるお社が
筑紫社(つくしのやしろ)
正式名称
神魂御子神社(かむむすびみこかみのやしろ)

御祭神は
多紀理比売命(タギリヒメノミコト) です。
※出雲大社のサイトでの表記です。

タギリヒメは、
アマテラスオオミカミとスサノオノミコトが
誓約(うけひ)をした際に
スサノオノミコトが持っていた十拳剣から
生まれた宗像三女神の一柱で、
オオクニヌシノカミの妻となり
アジスキタカヒコネノカミ
タカヒメノミコトをお生みになりました。

南へ少し進んだ右側に並んでいるのが
氏社(うじのやしろ) 北・南 です。

氏社・北の御祭神は、
天穂日命(アメノホヒノミコト) です。

アマテラスオオミカミとスサノオノミコトが
誓約(うけひ)をした際に
アマテラスオオミカミの髪飾りの勾玉から生まれた
五柱の神様のうちの一柱で、出雲国造家の祖神です。

氏社・南の御祭神は、
宮向宿禰(ミヤムキノスクネ) です。

アメノホヒノミコトから17代目の神裔で
允恭天皇元年(412年)に
初めて国造、出雲臣を賜った方です。

■国譲り神話

アメノホヒノミコトが登場したので、
最後に「国譲り神話」を紹介します。

出雲を中心とした
葦原中国(あしはらのなかつくに)
アマテラスは、
自分の子どもが統治すべきだと主張し、
オオクニヌシに国譲りを迫ります。

最初に交渉にやってきたのは、
アメノホヒノミコトでした。
しかし、
アメノホヒはオオクニヌシの国土経営に魅せられて
出雲に住みついてしまいます。

次に交渉にやってきたのはアメノワカヒコでした。
アメノワカヒコも、
オオクニヌシの娘シタテルヒメ(タカヒメ)と結婚し、
高天原には戻りませんでした。

さらに、偵察に来たキジを殺してしまい、
その時に射った矢が、高天原まで届きます。
アメノワカヒコは、
反逆者とみなされ、殺されてしまいます。

最後の交渉にやってきたのが、
タケミカヅチノカミでした。
タケミカヅチは、
イザサの小浜(稲佐の浜)に降り立ちます。

オオクニヌシはタケミカヅチの要求に対し
息子のコトシロヌシノカミに委ねると回答します。

この時、コトシロヌシは、
美保の崎で釣りをしていました。

タケミカヅチは、
お供のアメノトリフネに迎えに行かせ
連れて来られたコトシロヌシは
国譲りを了承します。

タケミカヅチが他に聞く者はいないかと尋ねると
もう一人、タケミナカタノカミがいると
オオクニヌシが答えます。

そこへタケミナカタがやって来て、
力比べで決着しようと持ちかけます。
※これが相撲の起源の一つです

しかし、
タケミナカタは敗れ、信濃の国まで逃げ込みます。
タケミカヅチは、
追いつめて国譲りを了承させます。

こうして反対するものは、いなくなり
オオクニヌシは、
タギシの小浜に千木が空に届くような
大きな神殿をたててくれるならば
そこに隠れて幽界を司るといい、
国譲りは完了します。

日本書紀では、
高天原のタカミムスヒノミコトが、
天日隅宮(あめのひすみのみや)を作るので、
そこで幽界の神事を司るように
オオクニヌシに依頼しています。

それと同時に、その祭事を掌握するのは
アメノホヒであると宣言しています。

そして、現在に至るまで
その末裔である出雲国造さんが
出雲大社を守っていらっしゃるわけです。

■最後に ちょっとした豆知識

拝殿西側の広場から本殿越しに八雲山を眺めるのが
出雲大社のベストビューです。

八雲山から雲が生まれているように見えます

天気の良い日の霞がかった八雲山も良いですし、
天気が悪い日の霧に煙る八雲山も神秘的です。

最後に
西側の門から神楽殿に向かいます。

神楽殿に掛かる注連縄が
日本最大級の注連縄
長さ13.6m、重さは5.2tあります。

出雲大社の注連縄は、巻きが逆になっています。
一般的には、
向かって右側を上位とするので
右方から綯い始める左綯いです。
出雲大社は、
御神座が西を向いていることと関連しますが、
向かって左側(西側)を上位とするので、
左方から綯い始める右綯いです。

ここには、もう一つ日本最大級のものがあります。
掲揚されている日の丸の国旗です。

幅13.6m×高さ9mで畳75畳分の大きさです。
掲揚塔の高さは47mで、高層神殿の48mを
超えないように作られているそうです。

以上で参拝ガイドは終了です。
この後は、神門通りを散策したり
境外の摂末社を巡って楽しんでください。

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